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薬師堂前


 六月後半、スケジュールの合間を縫って昨年に引き続きテント芝居集団、野戦之月の新作『鯨のデーモス』のテーマ曲の制作に入る。家庭内プレゼンの結果、前回に続き今回も妻である李早の作曲を採用することとなった。作業はスムースに行くかと思われたが、シンプルながら然うは問屋が卸さず、結局、本番二日前の納品となる。もちろんデモ音源は前もって送っているので、演者が焦ることはないとは思うが、もう少し余裕があればとはいつものこと。毎回ギリギリで申し訳ない。そして納品を終えた午後、久しぶりビールと餃子で労う事にした。
 この六月最終週、早々に梅雨明けと言われ、気温の上昇は容赦なく、薬師堂前バス停留所を降りて神社の杜で少し涼むも街道沿いの直射日光は50mほどの距離もやけに遠い。しかも大きな木が繁るお伊勢の森からはセミの声は全く無く、不自然な夏の始まりだった。

 中華「わかまつ」。私の知るなかでは最も古く今でも営業している中華料理店である。最近では町中華と呼ばれるタイプの店だが、この立地は町とは言えないだろう。街道沿いだ。かれこれ、もう40年近く前、既にこの店はここで同じ佇まいだった。交通量の少なくない街道で目立つわけではないが、この存在感は気になり、通過するたびに認識を強めていた。当時は東京はもっと西に住んでいて、ほとんど車移動だったのだが、結局その頃はここでチャーハンかラーメンで2回ほど腹を満たしただけだった。その後23区内に引っ越し、西多摩地区からは足が遠のくが、今の家に移り住んで、またその認識が蘇ってきたのだ。
 この春、梅雨入り前の程よい気候の時に久しぶりに訪れ、餃子を頼んでみた。普通の中華屋でしか食べられない、あの野菜が多い甘い味。ニンニクも肉も少なめで包みは小さく、これはビールが欲しくなる。が、その時は我慢。そして満を持してこの暑い日に昼時の喧騒を避け、餃子とビールを楽しみに足を運んだのだ。
 
 店内は客が一人もおらず、西側の窓も少し開けていて、冷房は微かについていたようだが、ちょっと湿度が高い。おそらく節約で冷房を弱めていたのだろうが、これくらいの方が冷えたビールは美味い。だが店主は私たちが席に着くと同時に窓を閉め始め、冷房を通常運転にセットし、こっちの方が涼しいよ、と別のテーブルに案内してくれた。
 メニューを見ずにまずはビールと餃子を注文。古いクーラーのようで、そう簡単には効いてこないが、それで良い。瓶ビール到着。グラスに注ぎまず一杯。この喉越しと苦味と少しの香り、そして一息ついてもう一杯。今度は少し汗ばんでくる。だがクーラーも少しずつ効いてきている。このせめぎ合いはなかなかに快感だ。追加のビールを頼み、餃子を待つ。焼き音が聞こえる。店内はテレビもついておらず、ただ私たち夫婦はここでぼーっとしているだけだが、良い時間の流れのみを感じているだけだ。焼き音が少し静かになる。配膳まではもうまもなくだろう。
 するとここで初老のカップルが来店。席に着くなり、メニューをざっと見てすぐさま注文。二人だが、品数は少なくない。その会話の感じは夫婦らしくはなく、親戚関係みたいな言葉遣いに思えた。
 さて、こちらは餃子が到着。普通の餃子に普通の瓶ビール、久しぶりなのだが、これで良い。いや、これが良い。そして活気のある音が厨房からは聞こえる。店主が中華鍋を操るあの音だ。

 追加の注文も考えたいところだが、店主がもう少し落ち着いてからにしよう。しかも最近は本当に少食になってしまって、メニューを見ていたりすると、あれもこれもと欲張りたくなるのだが、結果ラーメンの一杯で十分というか、その一杯で満腹以上になっていることも少なくない。それに今日は歩いてバス停まで戻ることだし、暑さもそう簡単に鎮まるとは思えない。程々にしておこう。

 無難にチャーハンを注文だが、ここのは逸品だ。優しく、知る限り程よい塩加減でパラパラしすぎず、食べると常に満足する。やはりこれに落ち着くか。だが、ここは中華餡の麺もかなりいける。が、今日はそれにはちと暑い日だ。幾分クーラーは効いてきたが、やはりやめておこう。

 うむ、これで十分。しかし今日は少しだけ塩が多かったか。いや、暑い日なので多めにしたのかもしれない。それでもまったく構わず、完食し、店を出た。
 店主はおそらく70代半ば、ホールをほとんど任されている奥さんもほぼ同じくらいの年齢であろう。こういう店もどんどん減っていくだろうが、まだまだ続けてくれとも思わない、というより、もうお疲れ様、とも言いたくなる。が、ここは店内が普通に綺麗で、調味料入れの類もベタつかず、厨房もとても整頓され光っている。店主の中華鍋の音は現役そのもので活気に満ち溢れている。今は機会を見つけてはただ通いたいと思っている店なのだ。ごちそうさまでした。

 この日はこれでお暇しだが、先ほども書いたようにここは中華餡の麺の類もかなり良い。だがこの店に限らず、中華餡の麺類は店でかなり違う趣があるのだ。

 まずは、もやしそば。
 最初に断っておくが、これは単にラーメンにもやしがたくさん乗っているという代物ではない。(ラーメン専門店の場合は除く。)もやしを中心に他の野菜や豚肉入りの中華餡をラーメンの類にかけたものだ。異論はあるだろうが、なんとなくの感覚として「のり弁当」に近い。そう、もやしは麺を除いての主役でもないのだ。そして、麺が醤油ラーメンか塩ラーメンか、というのも店によって違う。だから以下四つの組み合わせがある。

1)餡(醤油)スープ(醤油)
2)餡(塩)スープ(醤油)
3)餡(塩)スープ(塩)
4)餡(醤油)スープ(塩)

 ちなみに、ここ「わかまつ」は2。よく行く最寄りの「宝来屋」は3。これまたそこそこよく行く「京八」は1。とそれぞれだ。4にお目にかかったことはないが、これは確かにバランスも見た目もいまひとつのような気もする。とにかく初めての店ではその組み合わせがなんともワクワクする一品で、しかもだいたいその店で一番安い普通のラーメンの一つだけ上の価格設定であることが多く、それもまた嬉しい。たとえば、ある店のラーメンは少し物足りなかったとしても、もやしそばは絶妙なバランスだったりもすることもあるのだ。3だと辣油を足して行くのもまた良いし、1には酢も良い。だがもちろんもやしの量は店まちまちで、所沢の名店「柳屋」は一袋は入っていて、もやしも主役並みだが味は抜群、しかしこれは私にとっては余程の空腹時のみだ。

 広東麺はどこでもほぼ1で。どの店も具が豪華になる。「わかまつ」の広東麺の干し椎茸はとても大きく本当に絶品だ。

 もう一つ紹介したいのが、チャンポン麺。これは所謂「長崎ちゃんぽん」とは全くの別物。麺はその店の中華麺。構造は先ほどの番号だと私の知る限りでは3。具は広東麺より野菜が多く、タンメンよりは肉が多い。五目そばを餡掛けにした感じだが、決定的な違いが卵の調理方法である。その塩味の中華餡に卵が入っているのだが、a) ほぼ火が通ったゆで卵状態、b) あるいは少しだけ火が通った温泉卵風、c) あるいは火を止めてから卵を落とし微かに白身に色がつくか程度、d) はたまた卵を餡全体に混ぜてしまうとか。これくらいはいろいろあったはずだ。「わかまつ」では c)を少しだけ d)に近づける感じだったか。食べているうちに卵が全体に馴染みだし、味がマイルドになってくる。一口目の優しいパンチがすでに失せ、何気なく食べ進められる。

 この「もやしそば」と「チャンポン麺」は関東近郊の中華屋のローカルメニューとも思える。私が慣れ親しんだ東京の一部はどの店も独自だが、常連は昔からそれらを時折食べては落ち着いているのだ。どこかの店でメニューを見て迷っていたら、もやしそばだよ、うまいよ、と他のテーブルから声をかけられたことがあった。

 ちなみに私は外で冷し中華を食べたことは未だに無い。

桜井芳樹(さくらい・よしき)
音楽家/ギタリスト、アレンジやプロデュース。ロンサム・ストリングス、ホープ&マッカラーズ主宰。他にいろいろ。
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