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【アーカイブス#28】夢が叶った。ピート・シーガー訪問記 後編*2011年9月

 6月21日、東京フォークロア・センターの国崎清秀さん、ニューヨークに住んでいるメグこと矢島恵さん、そしてぼくとぼくの親友の四人で、ニューヨーク州のハドソン川沿いの山の中に建つピート・シーガー宅を訪問した。ピートさんはぼくらを大歓迎して、家の中へと迎え入れてくれ、みんながテーブルに着くなり、次から次へといろんな話をして、愛器の5弦バンジョーも取り出して弾いてくれ、娘のティンヤさんが作ってくれたおいしいお昼までごちそうになってしまった。

 お昼ご飯で一段落するまで、ぼくは自分が何者なのか、ピートさんにきちんと伝えることができなかったのだが(何度も伝えようとしたが、ピートさんはとにかく自分が話したいことがいっぱいあって、なかなか耳を傾けてもらえなかった)、食事が終わった頃、ようやくたどたどしい英語で自己紹介のようなことをすることができた。
「1960年代半ば、高校生のぼくはあなたのレコードを聞いて大きな影響を受けて歌い始めました。それからずっとあなたの歌を聞き続けています。あなたの歌をたくさん日本語にして歌っています」
 ぼくの言っていることは、ちゃんとピートさんに伝わっていたと思う。そして「そのうち日本語で歌ったあなたの歌ばかりを集めてアルバムを作れたらと思っています」と続けたら、そこでピートさんの表情が一瞬変わり、何とも困ったような、戸惑っているような、ちょっとばつが悪そうなものになったのだ。
「Beware(気をつけなさい)」と言って、ピートさんは席を立つと、テーブルの横の棚の上に積まれている本を一冊手に取って戻り、あるページを広げて、「ここを読んでみなさい」と、ぼくに手渡してくれた。
 その本は『Where Have All The Flowers Gone A Singalong Memoir』というピートさんの有名な著書で、初版が出版されたのは1993年のことだったが、その時彼がぼくに手渡してくれたのは、2009年にMP3ファイルのCD付きで出版し直されたいちばん新しい改訂版だった。もちろんその本のことをぼくは知っていたが、「ピート・命」と言いながら、かつて日本で出版された翻訳本を熟読もしていなければ、改訂版が出たこともきちんとチェックしていなかった。何とも恥ずかしいかぎりだ。

 ピートさんが「読みなさい」と言ったのは、117ページの第7章「Guantanamera〜Translations Pro and Con, New Words to Others’ Tunes(グァンタナメラ〜翻訳の賛否両論、ひとの曲に新しい歌詞をつけること)」の最初の文章で、さっと読んでみると、偉大な詩人ロバート・フロストが「詩とは何か?」と聞かれ、その時に答えた言葉が紹介されている。ロバートの詩の定義は、「詩とは…翻訳すれば失われてしまうもの」だ。
 むむっ、いきなりこう来るか。
 そしてこれに続けてピートは、「世界で最も素晴らしい歌が、それが作られた自分たちの言語圏以外で歌われないのはそれゆえだ」と書いている。
 あわわ、こう来たか。
 しかし次にピートは、「それにもかかわらず、翻訳はどんな時も不可能というわけではない」と続けている。
 ほっ。
 そしてペルシアの詩人ウマル・ハイヤームの「ルバイヤート」の翻訳者が、「死んだ鷲よりは生きている雀の方がまし」と言って、翻訳に取り組んだことや、「Auld Lang Syne」として誰にも知られているスコットランド民謡が、日本ではまったく別の歌になって、卒業式や送別会、あるいは船が出港する時に歌われていることが書かれている(「蛍の光」のこと)。
 ピートさんに見つめながら、続きを読んでいくと、「『グァンタラメラ』のような素晴らしい歌は英語に訳さないようにとわたしはみんなに言い続けて来た」、「曲が難しすぎたりするのでなければ、どこの国のものであれ、もともとの言葉で歌ってみるようわたしはみんなに勧めて来た」と彼は書いているではないか。そして「よその人たちの言葉をちょっとでも覚えれば、その人たちの魂の中を垣間見れる」というロックウェル・ケントの言葉も紹介している。

 なるほど、そうだった。確かにピート・シーガーは、スペイン語の「グァンタナメラ」や「Viva La Quince Brigada」にかぎらず、ヘブライ語やアラブ語の「Tzena, Tzena, Tzena」も、ドイツ語の「Freihait(自由)」も、日本語の「原爆許すまじ」も、そしてアフリカやほかのいろんな国のいろんな歌も、すべてその国の言葉、もとの歌詞で歌っているではないか。
 ピートさんに会う前に持っていた『Where Have All The Flowers Gone A Singalong Memoir』の日本語版をちゃんと読んでいれば、もしかしてぼくはピートさんの歌を日本語で歌うアルバムを作りたいという考えを変えていたかもしれないし、それでもやっぱり作りたいんだと、もっとしっかりした考えになっていたかもしれない。
 しかしピートさんに「Beware」と言われ、翻訳について彼が考えていることの文章をその場で読まされ、ぼくはもうそれ以上『Goro Nakagawa Sings Pete Seeger in Japanese』のアルバムの構想や具体的な話を続けることができなくなってしまった。もしかして、あわよくば、自分が訳して日本語で歌っているピート・シーガーの歌を本人に聞いてもらえたら、本人の前で歌えたらと夢見てもいたのだが、それも言い出せない感じになってしまった。

 ぼくがピートさんの文章を読み終えると、「そうだ、この本には日本の女性の詩人の写真も載っているんだよ」と彼は言って、そのページを探してくれる。そこには茨木のり子さんの写真が載っていて、その前にはピートさんが英語で歌っている「わたしが一番きれいだったとき/When I Was Most Beautiful」の楽譜だけでなく、日本語のもとの詩もちゃんと収められているではないか。
「日本の詩をいろいろ英語に訳した雑誌を出している人に日本に行った時に出会った。そこでこの詩を見つけたんだ。その人は何て名前だったかな?」と、ピートさんが言うので、「片桐ユズルさんですね」と言うと、「ああ、そうだ、ユズル…」と思い出したようだった。
 そしてピートさんはいきなりアカペラで「When I Was Most Beautiful」を歌い始め、さわりだけを歌ってくれるのかと思ったら、最後の「That’s why I decided to live long/Like Monsieur Rouault/Who was a very old man/When he painted such terribly beautiful pictures/You see」まで、4番全部をよどみなく歌い、目の前でそれを聞くことができたぼくは、またまた感激のあまり昇天してしまった。国崎さんやほかのみんなも感慨無量な面持ちだった。

 歌詞の翻訳はあまり勧めない、注意するようにと言われた後で、英語に訳された日本語の歌を聞かされるとは、何だかちょっと矛盾しているかなとその時はふと思ったのだが、後でいろいろと考え直し、『Where Have All The Flowers Gone』も改めて読んでみると、ピートさんは歌を翻訳すること、そのすべてを一概に否定しているわけではなく、それぞれのケースに合わせて、柔軟に解釈し、対処しているのだということに気づかされる。そして「わたしが一番きれいだったとき」のように、その詩の意味をみんなにわかってほしい時は、自分の国の言葉で、正確な訳で歌うのも素晴らしいことだと、彼はきっと考えているのだ。
 ぼくがピート・シーガーの歌を日本語で歌うのも、どうしても歌いたいと思うのも、まさにその歌詞の意味を正しくみんなに伝えたいからで、そういうことをきちんと説明すれば、ピートの歌を日本語で歌ったものばかりを集めてアルバムを作りたいというぼくの思いもきっと本人に伝わるのではないだろうか。こんなにも素晴らしい歌があるのだから、それを日本語にして日本のみんなにその意味もちゃんと伝えたい、それこそがぼくがピートの歌を日本語に翻訳する時に、最も気をつけている(Beware)ことなのだ。
 帰る時にピートさんは、国崎さんとぼくに『Where Have All The Flowers Gone』の2009年の改訂版をプレゼントしてくださった。それだけでなく一緒に『Everybody Says Freedom』という、ピートとボブ・ライザーの共著の「歌と写真による公民権運動の歴史」というサブ・タイトルの付いた1989年に出版された大きな本もプレゼントしてくださった。
 『Where Have All The Flowers Gone』にサインをしてくださいとお願いすると、ピートさんは「for Goro! Pete Seeger June,21,2011 平和」と書いてくれ、そこにはサインの時に彼がいつも描く五弦バンジョーの絵もちゃんと添えられていた。感激と嬉しさのあまり、昇天、昇天、昇天。

 それにしても『Where Have All The Flowers Gone』は、ほんとうにすごい本だ。大判で全320ページ、本文は全部で10章に分けられていて、ピート・シーガーがこれまで歌って来たいろんな歌が200曲以上、楽譜と本人の詳しい曲目解説付きで収められている。第三版となる2009年のこの本にはそれぞれの曲のファイルが収められたCDも付いている。
 それぞれの歌の背景がわかるだけではなく、通して読めば歌と共に歩んだピート・シーガーの生涯も辿れる音楽的自伝になっている。ぼくが日本語に訳して歌っているピート・シーガーの歌、すなわちいつかアルバムを作るなら入れたいと思っている歌は、「Waist Deep in the Big Muddy/腰まで泥まみれ」も「My Name Is Lisa Kalvelage/わたしはリザ・カルヴェレイジ」も「My Rainbow Race/虹の民」も「Snow, Snow/スノウ、スノウ」も「Fat Little Baby/丸々赤ちゃん」も「False From True/ほんものとにせもの」も「Sailing Up My Dirty Stream/汚されたぼくたちの川」も、すべて載っている。
 日本に帰ってこの本を改めて読んでいると、日本語にして歌いたい歌がいっぱいあるし、この本こそが、これからも自分が新しい歌を作っていく、そして歌っていく上で、大いなるインスピレーション源、そして支えと励ましになってくれると確信できる。恐らくは一年後ぐらいには、何度も何度も読み返し、この本を見て歌ったりすることで、ぼろぼろになってしまうことだろう。
 この『Where Have All The Flowers Gone』だけでなく、ぼくは日本に帰ってから、自分がまだ持っていなかったピート・シーガーのさまざまなCDやDVDを手に入れたり、新たに出版されたピートの伝記、アレック・ウィルキンソンが書いた『The Protest Singer An Intimate Portrait of Pete Seeger』やアラン・M・ウィンクラーが書いた『To Everything There is A Season Pete Seeger And The Power of Song』などを手に入れ、ピート熱が激しく高まっている。
 ピートのドキュメンタリーDVD『The Power of Song』は、貴重な映像やインタビューが多数収められていてほんとうに見応えがある作品だし、今から48年前でのオーストラリアはメルボルンでのコンサートが収められたモノクロ・フィルムがDVD化された『Live in Australia 1963』で見ることのできる44歳のピートの瑞々しく力強い演奏は、実に刺激的で、学ぶところが山ほどある。
 ピート・シーガーのフォーク・ソングと出会って45年以上、ぼくは自分なりのフォークを追い求め続けて来たが、これから先もやはりピート・シーガーを師の中の師として、グランド・ティーチャーの中のグランド・ティーチャーとして、新たなる自分の歌を探し、追い求め続けていきたいと強く思っている。

「When I Was Most Beautiful」を歌ってくれた後も、まだまだピートさんのお喋りは続き、話題はあっちに行ったりこっちに来たりするものの、興味深い話をいっぱいしてくれる。そして国崎さんがどうしても聞きたかった、今回の福島の東京電力の原子力発電所の事故のことをどう思うかという話題になった時、ピートさんはそれには直接答えなかったが、その時に彼の言った言葉をぼくはとても重く受けとめた。
「この先も人類が続いて行くとしたら、100年後も人類が生きているとしたら、それは政治や科学の進歩、経済の発展などによってではない。あらゆるかたちのアート・フォーム(芸術形式)、それが音楽であれ、絵画であれ、料理など日常生活の中のアートであれ、そうしたものを人類が持ち続けるかぎり、滅びることはないと思う」といったようなことをピートは言ったのだ。
 何よりも大切なのは人々の暮らし、誰もが自分たちなりの暮らしを続けることができ、その中で自分たちの作りたいものを作り続けていくかぎり、人類は滅びることはない、ピートの言うアートとは、「芸術」に結びつくことだけではなく、人の確かな暮らしそのものすべてを指しているに違いないとぼくは思った。

 四時間近くお邪魔して、ピートさんにはいっぱい喋ってもらい、歌も歌ってもらい、できることならまだまだいたかったが、あまり長居してはいけないと、ぼくら四人は感謝の思いでいっぱいになりながらおいとますることにした。
 ピートさんは家の外まで送ってくださり、最初に自分たちで建てたログハウスを見ながら、自分たちだけで建てるのにどれほど苦労したか、最初は水も電気もなかったけど、ウィヴァースの「グッドナイト・アイリーン」が大ヒットしたことによって、電気も水道も引くことができたなど、またまた話し始めたら止まらない。
 お別れの時には、ひとりひとりに声をかけてくださり、絵を描いているぼくの親友には、「Keep Painting(描き続けなさい)」と、あたたかいエールも送ってくれ、親友は大感激していた。
 ぼくら四人の乗ったレンタ・カーがログハウスの前の道を下りていく間、ピートさんはずっとぼくらを見送ってくれていた。

 日本に戻ってからしばらくしてピートさんから手紙が届いた。
「国崎さんと一緒に来てくれて嬉しかった。これからも連絡を取り合いましょう。また来てください、今度は一緒にクリアウォーター号に乗って川を下れるといいですね」と書かれていて、その手紙は「人類は100年後も存在し続けることでしょう、もしも人々が互いに力を合わせてひとつになれるなら。オールド・ピート・シーガー」という言葉で締めくくられていた。



中川五郎(なかがわ・ごろう)
1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。
70年代に入ってからは音楽に関する文章や歌詞の対訳などが活動も始める。90年代に入ってからは小説の執筆やチャールズ・ブコウスキーの小説などさまざまな翻訳も行っている。
最新アルバムは2017年の『どうぞ裸になって下さい』(コスモス・レコード)。著書にエッセイ集『七十年目の風に吹かれ』(平凡社)、小説『渋谷公園通り』、『ロメオ塾』、訳書にブコウスキーの小説『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、ハニフ・クレイシの小説『ぼくは静かに揺れ動く』、『ボブ・ディラン全詩集』などがある。
1990年代の半ば頃から、活動の中心を歌うことに戻し、新しい曲を作りつつ、日本各地でライブを行なっている。

中川五郎HP
https://goronakagawa.com/index.html

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