教員の皆様にお伝えしたいコト
こんばんは。ゴリィです。僕のプロフィールはサイトをご参照ください(どんどん自己紹介が雑になってる)。
さて、今回は「教員の皆さんにお伝えしたいコト」と題し、「いじめ」よりももっと残酷なことをあなた方はできてしまう、というお話です。正直辛いことですが、「伝えなければならないこと」なのできちんと伝えようと思います。
僕の生い立ち
まず、この話をする前に僕の生い立ちの話から始めることになります。まず、写真を見ていただくのが早いと思います。
これが僕の左手です。「先天性絞扼輪症候群」という病気で生まれながらにしてこのこんな感じです。これを見て「気持ち悪い」と思った方にはゴメンナサイ。
ずいぶん親を恨みました。「私の尊敬する人はお父さん(お母さん)です」なんて今でも言えません。でも、この病気不慮の「事故」のようなもので何かをしたから起こる、というモノでもないそうで、そうである以上この件で両親を責めても仕方ない、と思っています。
こうして写真を載せるのも、「自分の手のことは恥じていない」ということです。
ちなみに、この手は「障害等級7級」。障害者手帳の交付は「6級以上」なので障害者手帳は持っていませんでしたが、軽い障害者と言えるわけです。
ただ、この手の形が後に色々問題を起こしてくれるわけです。
普通学級か、特殊学級か
小学校入学を前に、当時の町の教育委員会とかなり争ったそうです。うちの両親は「普通学級に入れたい」、そりゃそうですよね。しかし、教育委員会では「普通学級では受け入れられない」との立場。
どれくらい揉めたかは聞いていませんが、最終的に「普通学級に入学」で決着しました。
ただ、それを面白くないと思う教員もいて、小学校1年のおばさん担任もそのひとりだったようです。悲劇はここから始まります。
小1担任からの「虐待」
さて迎えた入学式。恒例の入学する児童の名前をひとりずつ呼んで、児童が「はいっ!」て起立するやつですね。僕は名前を呼ばれませんでした。
当然、両親は猛抗議したようですが、声は届いていなかったようですね。
その後も、忘れ物をすると「僕だけ」家に取りに戻されるというのが始まりました。片道40分、往復すればとっくに時間割は1コマか2コマ進んでいて、取りに戻ったところで何の意味もないことは明白だったのですが、担任の言うことには従うしかなく、「なんで僕だけ」と涙しながら「家」を往復していました。
ちなみに「家」とは自宅ではありません。両親は共働きで鍵がかかっており、両親のどちらかが仕事が終わるまで預かってもらっていた「ばあちゃん」(祖母ではなく、母親の知り合いの人)の家に行っていたわけです。さらに学校からは遠く、歩いて1時間。
そして、あるとき突然おばさん担任がこんな板書をしたのです。
ともゆき × ←僕のこと
みんな 〇
まさにこの板書は意味が分からず、ただ、自分がここにいることを否定されているんだな、ということは子ども心に分かり、「ばあちゃん」にわんわん泣いて伝えました。
これに対して、両親はノーリアクション。いまだに「知らなかった」と言い張ってますが、「ばあちゃん」が知っているのに伝えていないはずはないので、この件だけは両親を絶対に許すつもりはありません。
当然、もとの障害のこともあり、そのうえおばさん担任がこんな感じだったので同級生からもいじめの対象になりました。
おばさん担任の心理を読み解いてみる
「おばさん担任、絶対に許さない!」で終わるのは簡単です。僕のポリシーでもある「相手の気持ちになって考える」をおばさん担任についてもやってみたいと思います。
まず確実なのは、「僕が普通学級にいることに否定的なスタンス」だったこと。一応「7級」とはいえ障害者等級表に入る人間だったので、現代ならまだしも約40年ほど前であれば「拒絶反応」もあったと思います。
そして、「どう接していいか分からない」という戸惑いではなく、明らかに「悪意を持った虐待行為」である点。
おそらく、僕が早々に不登校か何かになって、「ほらね、やっぱり普通学級は無理だったのよ、オホホホホ」と言いながら僕を特殊学級に回したかった、といったところでしょう。
しかし、僕がしぶとかったのでだんだんやることがエスカレートしてきてついに意味不明の板書に至った。
ちなみに、小2もこのおばさん担任でしたが、学校の統合で学年2クラスになったこともあったのか、おばさん先生はなりを潜めました。もうひとクラスの担任は歴代の児童から慕われるいい先生だったので(笑)。
今の時代なら考えられないようなことですが、40年前はこういうことがまかり通っていたわけです。
では、「悪意」ばかりが子どもの心を傷つけるのか、というとそうでもないという話を次にします。
僕だけ逆の粘土細工
小学校3年生の若い女性担任は親しみやすくいい先生でした。ただ、ひとつやらかしてしまいました。
図工の時間。文化祭で展示する粘土細工(といっても固まるとブロンズ像のような見栄えになる粘土)で「自分の左手を作ろう」という授業がありました。
さて、僕はどうしたのか?
答は、「右手を作る」。まあそうするしかありませんよね。作っている間はまあ特に何も思いませんでした。
しかし、展示してみると僕の作品だけ明らかに違和感たっぷりなんですよね。まず、それを見て悲しくなりましたし、展示を見ている人が自分の作品のところでざわついているのを見てもっと悲しくなりました。
学習指導要領で「左手を粘土細工で作る」という決まりがあったのかもしれませんが、文化祭で多くの人が目にして明らかに奇異の目で僕の作品が見られることを知っていながら、文化祭の展示テーマとして授業でやる必要があったのかどうか、いまだに謎です。
※気付いていないのであればそれはそれで「配慮不足」と言います。
持ち方を逆にした縦笛
もうひとつ、小学3年生になってつまずいたのが「縦笛」。普通に持つと、「ラシド」の3音しか出せない。そこで、左右逆に持ってギリギリ「レ」までは出せる(時々低い「ド」が出ることもある)ようになりました。
これは「音」を「楽」しむ「音楽」という観点から行くと決して間違った判断ではなかったと思います。実際、僕が縦笛のテストで低い「ド」を出したときは拍手を受けるくらいでしたから。
問題は小4のときの「鼓笛隊」。数ある役割の中で僕はやっぱり「縦笛」でした。
ある日の練習のとき、別学年の教諭が明らかに僕を指さして「なんで持ち方が逆なんだ」という感じで担任に聞いていた瞬間を見てしまったのです。教室に戻って、自分の机で給食も食べず6時間目までずっと泣き通しました。
今思えば、そもそも僕に縦笛をやらせるという時点で配慮が足りないと思いますが、全校生徒で300人もいない学校で、僕にはこういう事情で笛の持ち方を逆にさせている、という情報共有ができていなかったのかな、という思いがあります。
結果として今の僕
こういった幼少経験を通して、「①人に認められたい(負けたくない)」という感情と「②人から攻撃されると過剰反応する」という2つのパーソナリティが形成されました。
おかげさまで国立大学に合格し、就職後もさまざまなことにチャレンジする機会をいただきました。が、頑張り過ぎてストレス病の「狭心症」と「双極性障害」で、実際に「障害者手帳」を持つことになりました。
障害者手帳をもっていることに恥ずかしさはありません。むしろ、地元でタクシーの割引に障害者手帳を見せることを咎められた母親に、「自分の息子が障害者なのがそんなにはずかしいのか!」と叱りつけたことがあるくらいです。
なので、恥ずかしいと思って生きているわけではありません。そんなことから「人に認められたい」という「承認欲求」はどんどん薄れています。いっぽう、「他人から攻撃を受ける」と、幼少経験を思い出し数ヶ月引きずることすらあり、正常な日常生活を送ることができているとは言えない状況です。
まとめ
先般、とあるミュージシャンの障害者へのいじめの過去が問題視されました。どんなものだったか報じられていませんし、僕がそれを見てしまうと精神的に持たないと思うので知らないままでいたいです。
しかし、障害者をはじめ、「配慮を必要とする人」への「いじめ」「虐待」は生涯消えることのない傷になります。教員の皆さんは、やはりそれを厳しくチェックする義務があります。
が、その前に・・・
今回紹介した3例のうちの最初の例は「論外」ですが、いまだに似たようなことをやっているニュースは時々見聞きします。そして、残り「2例」を「虐待」というかどうかは別としても、配慮の足りない授業や、配慮を必要とする児童・生徒の情報共有の不足、という意図しないことでも「一生の傷」を作ってしまうかもしれない、教員の方々はそれくらい大きな力を持っているんだ、ということを忘れないでください。
子どもを守り育てるのが親と教員の役割。僕はその両方に(一時期)それを放棄されました。
僕は、結果としてある今を「不幸だ」と嘆くつもりはありません。でも、普段の何気ない生活の中に、常にこの体験が影を落としていて、その中で「幸せ」を見つけようとしているんだ、ということは知っておいてください。
末筆ながら、教員の皆様のますますのご活躍を心より祈念いたします。
今回も最後までご覧くださりありがとうございました。
轟RADIO「こころいろ」
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