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ひと月を振り返る - 心の声を聴く

自分のために始めたことが、変わっていく


自分のために、ひと月を振り返りたくなったので書いてみる。

パニック再発から2ヶ月ほど経った頃(ひと月前頃)に、いつの間にか表面的な場所にしてきた世界(fb)と、今の心との壁を「ぶち抜きたい」という衝動が来て、本名でのnoteを書き始めた。

最初は、ほぼほぼ素直に率直に書けていたような気がする。けれど、だんだんと自分でも気づけないくらいの感覚で外意識になっていって、気づいた頃には、ものすごい混乱状態にいた。

「何かおかしいな」と思ったのは1週間ほど前だっただろうか?もう少し前かな。

自分の中で、「自分の声を大切にする」ということが何より大切な時だったのだけど、本名ということで「外を意識する度合い」が増えてしまって、

特に、前の世界の引力だったり、あとは、パートナーや治療家の人やセラピストの方から聴いたヒントとが、ぐちゃぐちゃになってしまって、

自分の声なんて、遠くの遠くに。まったく聴こえなくなってしまっていた。



正解を生きて、なんとか愛されようとする「引力」①


一番大きかったのは、前コミュニティの「正解」。「やめたら不幸になっていく」的なニュアンスを何度も聞かされていたので、昨年、コミュニティを離れる時も気が狂いそうになって不眠症に。汗

その後も、自分の中にあったのは、高額の授業料を払って、さらに、荷物を下ろすどころか「こうあるべき」を増やしてしまったじゃないか!っていう怒り(自分で選んだのは間違いないけれど)。いやもう、恨みみたいなものだった。今でもふと思い出して、まだまだ、ものすごい怒りが噴出する。

だから、振り返ると、そのコミュニティの中心の人というのに、「お前のところを離れたって幸せに生きられるんだよ!」って見せてやりたいという気持ちがやっぱりすごく強かった。

もちろん、今でもそのコミュニティに所属しているであろう人も、SNSにはいるので、その人たちに向けても、そういう思いがどうしても拭えなかった。

だから、またパニックが出たことが、本当に苦しかった。恥ずかしくて、結局苦しんで生きてんじゃん!て思われるんじゃないかって怖かった。

だから、本名で書き始めた時に、「大丈夫であろうとする自分」がどうしても出てきてしまっていた。



正解を生きて、なんとか愛されようとする「引力」②


あとは、特にパートナーかな。

うちでは、毎日ではないけど、ふと、言いっぱなし聴きっぱなしというのをやっている。けれど、そういう時にでも、私が相手にとって「それはなぁ」ってことをやっている時(話している時)、あからさまに不機嫌な顔をされる。

「それはなぁ」というのは、相手にとっての「こうしていた方がいい」っていう相手の大事にしていること。今で言えば、「自分を大事にする」とか。それはそれで、もちろん素晴らしい軸なんだけど、私自身、それができない時ってあって

それ(自分を大事にする)ができない時にこそ、一人だと深刻になりすぎてしまったり混乱しているから、外にそのまま出したいし、出せる場所があるからこそ、自分の中で隙間が生まれたりして、自分でハッとできたりするのに。

でも、混乱している時に不機嫌な顔をされてしまったり、時に終了後にアドバイスなんか飛んでくると、余計に混乱してしまう。そのままを出せずに、なんだかよくわからない話をしてしまう。

あとは、治療家の人やセラピストの方から聞いて「これはいい」と思った、俯瞰するとか深刻にならないっていうのをやろうとすると、どうしても生々しい感情に触れることが難しかったりして。

そんなこんなで右往左往、それでもトライしていた日々だった。


自分のために生きるということ - 1.5人の対話から


あまりに混乱状態になった自分が立ち返ったのは斎藤学氏の本「自分のために生きるということ」だった。

読んであらためてハッとしたのは、嗜癖から抜け出すには「自分の欲望を知る」という言葉。

ここしばらく、そしてパニックになった時もだけど、外に意識が向き過ぎて向き過ぎて、今の自分には「自分の声」がまるで聴こえていないなと思った。

あぁ、そこだなと。
ようやく何か、プツンと糸が切れたような感覚だった。

対人恐怖者は、傷ついたままチャレンジをして、また同じ苦しみを反芻しやすく、そしてまた傷口を広げる傾向にあると。

だからこそ、自助グループ等があるのだけど、それに参加する準備としてアファメーションがあるということが書かれていた。

アファメーションで、だんだんと隙間ができてきて、拗ねていた子が話を始めるようになる。その子に優しくする。その子が甘えられるようにする。そうやってその子に優しい親のようになっていく。

まずは、そうしていることで、自分の中に他者(その子に厳しい親だったところから、その子に優しい存在を招き入れるような)を迎え入れていることになり、それが1.5人の対話(セルフダイアローグ)であり、対人恐怖者がもっとも恐れている「人を境界内に入れる」というはじめの経験になると。

あぁ、ここからでいいんだ。ここからでいいんだ。
ここから、はじめようと、安心して涙が出た。


まずは逃げる


まず自分が決めたことは、セルフダイアローグを一番大切にしようということ。

SNSに、とんでもなく意識が引っ張られてしまう状態にあることを認識して、まずはそこで「平気な自分」になっていくチャレンジをやめて、SNSから逃げることを決めた。(パートナーとの対話も、対話したいのかどうか、その時をより大事にするようになった。つまり嫌な時は逃げるを選択した)

そうしないともう、自分の声がまったく聴こえないくらいの依存状態なんだなと認識したからだ。

自分にとことんやさしく過ごして、だらだらしたいとか、ただただ無目的になにかやりたいとか、その時その時に内側の子がやりたい!という声や、気持ちを、しばし聞いてあげたいと思った。

それでたとえ、頭の自分が恐れている、人との繋がりを失ったり、「だめじゃん」と思われたとしても、ゼロからはじめたらいい。

私の声を聞いてあげられるのは、私しかいない。
私を幸せにできるのは、私しかいないんだから。


空が綺麗だった


そして、SNSから逃げてみて感じているのは、私は「今ここ」の目の前の世界よりも、SNSの世界を生きていたということだった。

ものすごい美しい景色を見ても、大好きな鳥を見ても、何かを食べても、いつもそれをシェアすることがよぎる。景色を撮影しにいってた時なんて、シェアする為にそこに足を運んでいたんじゃないかって、ハッとした。いや、ゾッとしたくらいかもしれない。

そして、SNSを離れて、先のアファメーションを繰り返していると、だんだん、かすかだけど自分の声(内側にいる、拗ねていた子)が聞こえはじめた。怒りや、憤りや、そういう感覚も少しずつかえってきた。〜したいとかも。

パートナーと、ご飯を共にせず1人でいたいと思ったら、それを伝えて(「自分自身と話したいから」というのが伝わることがありがたい)ゆっくり自分の中の子と話をした。

少しずつだけど、色んなところに分散させてしまっていた意識、エネルギーが、自分のところに返ってきているような感じがしている。今ここに、ストンと居るような感じ。

あぁ、猫がかわいいな。
あぁ、葉っぱの色が綺麗だな。
あぁ、風が気持ちいいな。
あぁ、太陽の日差し、強いな〜
あぁ、空が綺麗だな。

それを、「外に見せる」意識ゼロで、自分の中だけで感じる豊かさ。

自分の中の子が「これをしたかったんだよね」って言う。
「あなたに話しかけても、あなたはいつも外ばかり見てた」って。
「こうして、感じたかった。一緒に、ただ。」と。

あぁ、ごめんね。ありがとう。って、今はそんな感じのときを過ごしている。


流転するこころとともに


結局、「自分は〇〇」だとか、自分という存在を固定しようとするのは「愛されたい」から。愛される(と思い込んでいる)ために、今ここにある生き生きとした心を殺していく。

どこかで学んだり知った知識という「正解らしきもの」で着飾っても、なんの意味もない。それは、どんなに素晴らしい生き方だったとしても、在り方になる前の形式でしかなければ、また自分を殺していくだけだ。

私がなんでも一気に、ゼロか100かでやり過ぎてしまうのは、「これがいいんだ〜!!!」と飛びついてしまうから。「これがいい!」と思った瞬間に固定化がはじまる。私は固定化のプロかもしれない。笑

でも、今回のプロセスを通して、このトライ&エラーで痛いほど感じていることは、その「固定化」そのものが自分を苦しめているんだなぁということ。

パニックっ子は、「固定化」するとドッカーンと教えてくれる。なんでもいいじゃん!と。いのちは絶えず流転しているのよ!って。

光だけやりすぎるのは〜とか、かといって闇だけじゃ〜とか、バランスとりたいなとか、俯瞰していたいとか、深刻になるのはな〜とか、

色々ヒントをもとにトライしてみていたけれど、それはどれも「今ここの自分の声、自分の中の子の声」を聴くことを大切にしていたら、たぶん自然にそうなっていくことなんだなって、今は感じる。

ボディーワーカーの人もこの前笑いながら「最初から言ってるんだけどな。笑」って言っていたけど、ヒントを自分なりに実感するには、体験していくしかない。

とにもかくにも、自分の内にいる子と、友達になるような感じでしばらく対話して過ごしてみたいなと思う。


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