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違和感に気づくことと、天地のラインにいることの共通性


身体感覚を伴った天地の感覚


最近「身体の言い分」という本を読んでいる。施術家の池上六朗氏と合気道家の内田樹氏の対談本。これが面白い。

天のエネルギー、地のエネルギーなどなど、スピリチュアル界隈でもよく言われる言葉だけど、

体感の無いイメージだけの世界のそれとは明らかに違う感覚の、身体感覚を伴った天地の感覚というのは、ものすごく地に足が着いていて響いてくる。



空間的な身体感覚の共有


私は「阿吽の呼吸」とか、そういう言葉、空気感にすごく惹かれるところがあって、やっぱり言葉というものや現象として現れる前の微細な動きだったり、現象として現れている時の背景に流れるものだったり、そういうものを感じ取る時に感動を覚える。

まして、それを人と共有できている、という感覚は滅多に起こらなくても、それを感じた時の感動は、人生の中でも忘れられないものだなと思う。


そういう、何か物理的な身体ではない空間的な身体を共有できたような感覚に感動を覚えるのだけど、

この本の中での合気道や武道を表現されているのを見ると、まさにそういう世界を当たり前にやっているのだなと。

自分というものが他者を力づくで投げ飛ばすとは違う、バイブレーションを伝導させていく感覚だったり、動きの速さではなく内的な事の起こりの速さが早い方に、微細な方に、もう一方は自然とついていくしかない。

そんな一体性の中で、相手の手がまさに自分の手のように感じながら投げていたりするのだから、投げている側投げられている側なんてあるのか?という不思議な感覚になって、それが普通に語られていることが、なんとも響いてくる。


天地の軸に合わせ、自分を肯定してはじめる


まだ半分ほど読み進めたところなのだけど、一番響いたところは、天地を貫く軸、アライメントについて。

「天地を貫く1本の軸があり、その軸と自分の体軸のアライメントを合わせていく。道場に立ち、稽古の前にまずアライメント合わせることは、それは自分が正しい時正しい場所に正しい仕方でいると言うことを確認することだと思うんです。今ここにいる、自分がまさにいるべき空間の1点に、自分がまさにいるべき時にいる、自分が入るべくしているという確認をしてから稽古に入る。」

「武道の稽古はいるべき時にいるべき場所にいる人間として、今の自分をきっぱりと規定する。今ここを肯定すると言うところからでなければ何も始まらない。だから最初に合掌してまずアライメントを整える。」

出典:身体の言い分

という部分。

ここ最近の、ボディーワーカーの方とのワークにしても、内観(身体感覚に意識を向ける)しながら、天から地に引っ張られている重力の力と、それがあるがゆえの地から天の流れがあって、そこのライン(天地のライン)に自分の身体の軸を合わせられるかというのを丁寧に見ている。

文字にして書くと小難しい感じなんだけど、要は身体がちゃんと天地の支えられている時には身体は気持ちがいいので、「気持ちがいい場所」を探し続けるということらしい。

うまく言葉にまだならないけれど、天地の軸に委ねられているかを繊細に眺め続けること、身体の気持ち良さを探し続けること、身体感覚を通して今ここを肯定するという感覚が、今とても響いてきている。


違和感に気づき続ける、ということとの共通点


こうして、「身体の言い分」を読みながら、最近やっていた身体のワークとの共通点にも面白いなと感じていたのだけど、

さらにふと、ここ最近大切にしていた「違和感に気づき続ける」ということと「天地の軸上のポイントを探し続ける」の共通性を感じて、わっと感動が込み上げてきた。

外の世界を重要視しすぎて人に合わせすぎたり、ナルシシスト的に自分のことに入り込み過ぎたり、そうやって生きていると違和感を抑え過ぎて、「自分がどう感じているか」「どう生きたいのか」というところからどんどん離れてしまう。

けれど、中立に眺められる余白がある時、今起きていることを否定することもなく、違和感があることに気づける。そして、そこから「どうしたいのか」=「どう生きることが心地よいのか」ということに気づき続けることができる。


それは、身体のどこか一部に緊張が生まれている(天地の軸にいない)ことに気づき続けて、天地の軸に戻り続けることと、とても似ているように感じた。

どちらも、自分という存在に細やかに目を向け続け、そして心地よさを選び続けるという共通性を感じた。

自分をひたすら違う形へと変形させようとする努力とは違う、眺め続けているという修練は、すごくあたたかいし

なにより、生きるということに妥協なく生きている人の話が、やっぱり私は好きなのだ。


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