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サヨナラ上手の男の子


金曜の夜、外は土砂降り。昨日から頭痛は続いているけれど、あいにくロキソニンを切らしている。なにもしたくない。なにも考えたくない。雨の音すら頭に響いてきて、枕に顔をうずめた。無理。世界に雑音が多すぎる。必要ないものが多すぎる。無理。

泣くのも一苦労だ。弱音を吐くのも。自分の気持ちを表明するのも。離脱するのも。いなくなるのも。全部に労力が要る。無理。こんな世界、無理。



―――無理な時は無理って言っていいと思いますよ。


いつか言われた言葉をふと思い出す。言ってくれたのは、ナツ。ずっと弟みたいに思っていた、ずっとかわいいやつだと思っていた、大学時代の後輩。「○○っす」「あざっす」「さーせん」などと「イマドキの若者の言葉」をつかう、誰からも可愛がられる、憎めないやつ。


◇◇◇



「センパイ、手、だして」

閉店後の居酒屋の厨房で、翌日のランチの小鉢の用意をしようとしていた時、さっきまでひたすら皿洗いをしていた後輩のナツが、楽しくて仕方ないという顔で私に何かを差し出した。

「いや」

ナツの顔を見て、ひとこと返す。何か企んでいる時のナツは、わかりやすく瞳をキラキラさせている。まるで小学生の悪ガキだ。

「ヘンなもんじゃないっす、絶対たのしいっす」


ナツの指の間から白い液体が漏れているのを見てしまった。なんだこれ。絶対にヘンなものだし、絶対にたのしくない。それでも、ワクワクした顔のナツに負けて、私は両手を差し出す。

「はい」

嬉しそうにナツが私の両手にのせたのは、白くてぶにゃぶにょしている物体。掴んだ、と思ったらふにゃっと消えるような、不思議な感覚。きもちわる。眉間にしわを寄せる私に、キラキラした目でナツが問う。

「これなんだと思います」

「…」

「片栗粉と水っす、ね、たのしいでしょ」

蛇口から水を得てきたナツが、私の手にも水を追加する。また感触が変わる。私の手も、ナツの手も、白くドロドロ。うへうへと笑っているナツを見ていると、何だか私もたのしくなってきてしまった。うわ、たのし。悔しいけど、たのしい。

「センパイ、どでした」

「たのしかった」

「よかった」

ナツと居れば、結局たのしくなってしまう。ナツは、人を元気にする天才だった。



◇◇◇


普段はバイトの学生皆でご飯を食べて帰ったり、バラバラに帰宅したりで、ナツと二人きりで帰ることはなかった。ただ一度だけ、偶然ナツと二人で帰った夜があった。雨の夜、最終モノレール。車内は混んでいて、酔った大学生らしき集団が、私たちの横で騒いでいた。

「混んでるっすね」

他愛ない会話をしながらモノレールに乗り込んで、騒ぐ隣の集団に少し眉をひそめたナツは、そっと私の腕を引っ張ってその集団と私の間に距離をつくってくれた。ナツとの距離がぐんと近くなる。私の左耳に、ナツの心臓があった。うわ、ナツってこんなに身長あったんだ。そんなことを考えながら、下を向いたままナツと話した。何故か気恥ずかしくなってしまって、ナツの顔を見ることができなかった。

途中の駅で、更に人が乗り込んできた。車内はさらに狭くなる。隣の集団は、相変わらず大声で騒いでいる。私はナツの空気に、少し不安を覚えた。ナツは、曲がったことが大嫌いで、人に迷惑をかけることが大嫌いだった。混んでいる車内で騒ぐ、自分と同い年くらいの学生に対して、ナツが苛立っているのが、空気を通して私に伝わってきた。こういう時に、ナツはすぐに行動に出るタイプだ。でも、このたった数駅の時間だけのために、私は冒険をしてほしくなかった。

「ナツ」

顔を上げて、ナツをじっと見る。ナツは、わかってますよ、大丈夫です、とでも言うかのように、私に頷いた。私はほっとしてまた下を向いた。

と、その時。騒いでじゃれていた隣の集団がよろけて、私にドン、とぶつかってきた。ぶつかられてふらつき、私は今度こそナツの方に完全に倒れこむ。ナツががっちり私を受け止める。やばい。ナツが本当にキレるかもしれない。そう思った私は、ナツ、こらえて、お願い、と咄嗟にしがみついた。


一瞬の出来事だった。ナツに受け止められたまま、私は綺麗に方向転換し、何故か入口付近の安全な壁際まで移動していた。気づけば、壁とナツに挟まれて、そこは一番安全な場所だった。ナツは怒らなかった。怒らず、スマートに、なにも言わず、私を安全なところに逃がしてくれた。

ナツ、すごいね。そう言って、そっとナツを見上げると、ナツはとても複雑な顔をしていた。それはそれは複雑な表情だった。騒ぐ集団への苛立ち、私への心配、今までになかった私との距離感に気づいた焦りと戸惑い、そのほか、いろいろ。

ナツの顔を見て、私は何も言えなくなった。怒らなくて偉かった、我慢してくれてありがとう、守ってくれてありがとう、かっこよかったよ、たくさん言いたいことはあったはずなのに、何も言えずに、しばらくナツの顔を見ていた。ナツの顔を見ていると突然恥ずかしくなってきて、ばっと下を向いた。何故か耳まで熱くなって、唇をぎゅっとかんだ。


次の次の駅で人がたくさん降りていった。私とナツの距離が、いつものそれに戻る。

「大丈夫っすか」

「大丈夫、ありがと」

ナツも、私も、何事もなかったかのように先輩と後輩に戻った。

「ナツが怒らないかヒヤヒヤした」

私が冗談めかして笑うと、ナツは神妙な顔でさすがにそんなに喧嘩っ早くないっすよ、と答えた。

それから、ぽつぽつと会話をした。私が降りる駅が近づいた頃、何かの拍子にナツが言った。

「センパイ、無理な時は無理って言っていいと思いますよ」


◇◇◇


どういう話の流れだったかは覚えていない。私が何と返したかも覚えていない。ただ、ナツが言った「無理なときは無理って言っていいと思いますよ」だけが強く残っている。そしてその言葉が、あの夜ぜんぶの記憶と、ナツとの思い出をつれてくる。


その後、私が知らないうちにナツはバイトを辞めていた。シフトからナツの名前が消えていたから、ナツ辞めたんだね、と、ナツと同じ大学の後輩に聞いてみたら「あいつ大学も辞めたっすよ、もうこっちにいませんよ」と返ってきた。「地元に戻って家を継ぐらしいっす」

サヨナラはいつも突然。私たちは、サヨナラに永遠に追いつくことができない。サヨナラを感じさせないサヨナラ、ナツはごく自然にいなくなった。あまりにもサヨナラが上手かった。

ナツに、サヨナラって言えなかったな。ありがとうも。何も言えなかったな。あの夜が最後だったな。モノレールを降りるとき、お疲れ、ばいばいって、いつもみたいに手振っただけだったな、ナツも、いつものようにお疲れっした、と、ペコリと頭を下げただけだった。これからも続くと思ってたから、いつものバイバイをした、これからもずっと、先輩と後輩で、それなりに仲良くできると思っていたから。


◇◇◇


ナツへ。無理な時は無理って言っていいと思いますよって、言ってくれて、ありがとう。どうしてそんな話題になったのかすら覚えていないけれど、ナツのその言葉だけは覚えてるよ。

ぼにょぶにょになった片栗粉くれてありがとう。ほっとさせてくれてありがとう。笑わせてくれてありがとう。知ってたよ、実はちゃんとした敬語つかえることも、本当は誰よりも真面目なことも、曲がったことが大嫌いで、ナツが汚れた世の中にいちいち傷ついていたことも。バイト先ではやく一人前に料理を出せるようになりたくて、何度もだし巻き卵の練習をしていた背中、見てたよ。だれかを笑わせるためにふざけてるのも、ナツがいつも誰かのために笑っていることも、知ってたよ。

そういうこと、言えばよかったな。どうせなら、ナツの好きなとこ、たくさん言っておけばよかった。私は、ナツの前ではいつも先輩ぶってかっこつけていた。私がちゃんとナツの前で「先輩」できていたのは、ナツがちゃんと「後輩」してくれていたからなんだ。ナツもちょっとくらい本気を出せば、女の人をしっかり守ることができる立派な男なんだって、本当は知ってた。でも、ナツはいつも「かわいい後輩」として私を笑わせてくれていた。


私は、いつも「後輩」のナツに守られていた。そんなこと、あの頃は気づかなかった。



今、ナツは、無理なときに無理って言えているのかな。そんなこと考えてしまう私は、やっぱりずっとナツの先輩でいたいみたいだ。ナツにこの先会うことがないと分かっていても、ずっとナツの先輩でいたい。もし会うことがあるのなら、その時は「センパイセンパイ」って尻尾振ってほしい。

私は、「後輩」のナツに感謝している。ナツにたくさん助けられて、ナツにたくさん笑わせてもらった。ナツのお陰で、私は「先輩」することができた。思いっきりかっこつけて、強がって、先輩ぶって、大丈夫なふりをしていた。ナツのお陰で、私は随分と大丈夫になった。強くなって、ちょっとしたことなら乗り越えられるようになった。でも、ナツは多分知っていた。「無理なときは無理って言っていいと思いますよ」って、何を思って言ったのだろう。ナツがあの頃なにを考えていたかなんて、私にわかるはずもないんだよなあ。今も、分からないよ。多分、ずっと分からない。





ナツ、ありがとう。ずっと大好きな後輩だよ。





ゆっくりしていってね