見出し画像

半拍違う世界で生きられても

 イージーリスニングのピアノ曲集を買った。目当ての曲を一度譜読みした後に、他に良さそうなものがないかパラパラとほかのページをめくっていると、思い出深い曲と偶然再開してしまった。幼い頃に、親戚の家の時計が時刻を告げていた曲。ポール・モーリアの「涙のトッカータ」。時刻の長い針が12にやってきたら奏でられる曲、はじめて聴いたとき、好きだと思った。曲名が分からず、たまにメロディだけを鍵盤でなぞってみたこともあったけれど、子ども時代の続きで本物に出会うことがなかった。その楽譜に、20年経って偶然出会った。そういえば私、この曲をずっと探していたんだった、もう何年もすっかり頭からそのメロディが抜け落ちていたにもかかわらず、長いこと探していた気持ちでそう思った。

 曲名を知ったので原曲を聴こうと思いたった。原曲を聴いてみてひどく驚いた。私の記憶の中の「涙のトッカータ」は、八分音符ひとつぶんズレていたのだ。

 昔から、楽譜を読まない子どもだった。自由が好きで、整わない、めちゃくちゃな音楽を弾き散らかしていた。音感が良く、リズム感が壊滅的だった。この曲もそうだった。メロディラインはドレミで歌うことができたのに、リズムが半拍違っていた。半拍ズレていたのに何となくすんなり4拍子の曲としておさめていた。どうやっておさめていたのだろう、今歌ってみても、なんとなくおさまっている。都合の良いリズム感なのだ。

 原曲(ほんもののリズム)と、自分の記憶の中の曲(八分の一ズレ)が絡み合って、立っている地面がゆらゆらする。程よく良い耳と、これまた程よく都合の良いリズム感を持ってしまっていた私は、この「ゆらゆら」と何度も向き合わなければならなかった。向き合う時に必要なのが楽譜だ。

 原曲を聴きながら、楽譜を追う。自分が置いていたアクセントが、全て八分音符ひとつぶん後に置かれていたことに気づく。そして、自分がイメージしていた「ひたすら切ない曲調」ではなく、「切なさよりも切迫感、近づいてくる哀しみ、問い詰めるような痛み」のイメージが強い曲だったのだと知った。八分音符ひとつぶん違うだけでこんなに世界が違う。知っている気がしていたのに何も知らなかった。私は26歳にして初めて「涙のトッカータ」という曲に出会った。

 半拍遅れのほんものの世界に慣れたらあとは簡単だった。その世界のリズムに乗って揺られるだけ。数十分の集中で手に入れた「涙のトッカータ」を、私はまるで最初から自分のものであったかのように弾き歌う。八分音符ひとつぶん先を歩いていた昨日の私は、今の私を知らない。


 もしも私が八分音符ひとつぶん早い世界を生きていて、もしもあなたが八分音符ひとつぶん遅い世界にいるのならば、そして私とあなたが同じメロディを歌っていたのなら、世界は同じに見えますか?同じ歌を歌って、同じ言葉を選んだとしても、タイミングが違えば分かり合えないことだってありますか?もしそうならば、すこしだけ希望が持てる気がする。上手くいかなくても、タイミングが違っただけだよと自分を許すことができる。同じ響きでも半拍遅れの世界がこんなに違うと知っていれば、そのリズムに出会うまで諦めずにいられる。どんなペースで歩いても走っても、いつかしかるべき誰かと、いつかしかるべきしあわせと、きっと出会える。



#チーム午前二時 、12月29日



チーム午前二時:2020年12月3日、夜中に思いつきで突如発足。部員一人。夜中に起きている人は誰でも入部可能。フィクションもノンフィクションも雑談も日記もハッピーもネガティブも全部。内容も設定もブレブレ。クリスマス付近までは毎日投稿の予定。あくまでも予定。

ゆっくりしていってね