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東京の日の出 すごいキレイだなあ


私の言葉は不自由だった。

英語は苦手という意味での不自由、日本語は語彙力がないという意味での不自由、でもそれよりもっと不自由だったのは心だった。

飛行機の窓から見えたどこかの街の夜、光の集合体で街が出来ていた。あの光の中には人が生きていると考えると何故か少しだけ涙が出た。出会えない人の方が多いのだ。こんなに急いでも焦っても怒っても悩んでも、この世界の中で私は出会えない人の方が多いのだ。

今見ている景色、ちょーキレイだな、と思った。こんなに泣いてしまう程に美しいと感じても、「ちょーキレイ」としか言えない自分に少しだけ腹がたつ。誰かに教えたい。出来ればあの街の誰かに。あなたの生活はこんな風に光って見えるんだよって教えてあげたい。一人一人の事情は知らない。でも遠くから見ればこんなにも綺麗だ。このくらいの綺麗事は許されたい。

上を向いてまばたきをして、もう一度窓から街を眺めた。やっぱり、ちょーキレイ。


私の言葉は不自由だった。

日本で生まれ育ったのに、美しいことばも難しい漢字もそれほど多く知らない。大学で一応外国語学部だったということを職場の人に秘密にしているくらいには英語が苦手だし。

でもそれ以上に、最近の私は心が不自由だった。ちょーキレイなものを「ちょーキレイ」とすら言えない私の心では、その先の表現なんて無かったのだ。

ちょーキレイ、でも良いから、私は私の感受性を生き返らせなければならなかったのだ。


「感受性豊かすぎて疲れる」「なんか良く分からないけれど難しく考え過ぎじゃない?」「色々考えてて大変だね」「そういう捉え方をしたのはあなたがはじめてよ」「不思議な子だね」皆と同じように息していたかったのに、何考えてるか分からないと言われてしまう。すごくすごく悩んで出した結果を周囲は考え過ぎだと言うし、伝えようと一生懸命自分の気持ちを言葉にすれば「なんか良く分からないけどすごいね」になってしまう。どうして同じ温度で伝わらないの?って私はいつも拗ねていた。

だから、書いていた。この拙い言葉でも、誰かひとりにでも同じ温度で伝わればいいなと思って、書いていた。全て重ならなくても良い、あなたの円と私の円が少しだけ交わって色が濃くなれば。


忘れていた。私はすぐに大事なことを忘れてしまう。大事なことから順番に忘れてしまうのは何故だろう。誰かに無理に合わせて心を殺さなくていいのだ。私の感受性は私だけのものだった。そんな簡単なことを。ちょーキレイ、でいい。今の私には、ちょーキレイ、で十分だ。考えてみれば、25年間私の心に言葉が追い付いた日は一日もなかった。きっとこの先も追い付かない。私の心は言葉の随分前を走っていく。そういう性分なのだ。仕方がない。


私の言葉は不自由だった。

だけど書いてきた。不自由な言葉で、少ないボキャブラリーで、ぼんやりとした表現で書いてきた。私の書いたものを読んで誰かが頷いてくれた。ずっと私の言葉は不自由だったけれど、誰かがその私の言葉を拾ってくれた。それは私の心をほんのちょっと救ってきた。

私は私なりのやり方で、自分の拙い言葉を駆使して最終的に自分を救おうとしてきた。やり方はダサいけれど、効率は悪いけれど、伝わらないといつまでも拗ねていても始まらないから。自分以外の誰かも出来れば救える日がくれば良いな、なんて思うのはまだおこがましいかな。


この先の私へ。眠れないあなたのために書いてるよと、いつか誰かに言えますか。今はまだ眠れない自分のために書いているけれど、いつか誰かの夜がつくる光を遠くから眺めてこんなに綺麗なんだよって教えてあげられますか。


♪スピッツ「けもの道」(今日のタイトルは内容と全く関係ありません。夜の景色ちょーキレイ、って思った瞬間に「東京の日の出すごいキレイだなあ」と歌うスピッツのことを思い出したので。こんな風にどストレートに歌うスピッツの言葉の強さを改めて感じる...)

ゆっくりしていってね