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短編小説「おでん屋さん」

「アツアツな感じでしてくれん?」

酔いが回って呂律がまわらない。

千鳥足でベッドに向かい、背広ジャケットをしわくちゃにして仰向けになった。

スタンドライトの薄灯りに照らされ、赤ら顔がぼんやりと黒に浮かんだ。向かいには行儀良く女性が座っている。

「じゃあ、いただきます。」

ほっほふほふぉ、あっつーい!汁だくだぁ!ジュボボボ出汁が効いてる〜!

下顎を小刻みに揺らし、一滴も残さず頬張ろうとせん女性の仕草。

頭がまわらない。意識が遠のいていく。

大根。彼女が今口にしているのは、アツアツの、大根。

いつかの冬の、ある朝のこと。目が覚めて戸を開くと、昨晩の豪雪が嘘であったかのような快晴が広がっていた。毎年この頃になるとひっきり無しに雪が降り、家から一歩も出られない憂鬱なひと時が続く。深い青が美しい。新鮮な空気が鼻腔を通り、大きく白い息となり吐き出される。久方ぶりの晴れ模様に胸が高鳴った農夫の男は、寝巻き姿で家を飛び出し、マッチ箱を片手に野山へ足を運んだ。

町は森閑としていて、雪の積もった林道の先には野うさぎが一匹佇んでいた。耳を立てて二本足で突っ立っていた。迫り来る危険に注意を払っているようにも見えた。男は野うさぎが見つめる崖の方に視線を向けた。するとそこには奇妙な塊が見えた。男はその正体がはっきりと分からず、無性に気になって側へゆく事にした。

近づいてゆくにつれ、塊の様相が少しずつわかってきた。子どもの砂遊びによる仕業か、にしては高さが2メートルほどもあり大層な仕上がりだな。焦茶色をしたその塊は、大量の松ぼっくりが積み重なってできたオブジェであった。うまくバランスがとれていた。そう思った矢先に先ほどの野うさぎかが、後ろから突進してきた。そのまま速度を落とさず、オブジェの中腹に突っ込んでしまった。オブジェは頂点からガラガラと崩れてしまった。

毛並みの整った白いうさぎは胸の間にうまく松ぼっくりを抱え、かさの先っちょを鋭い歯で かじっていた。散らばった松ぼっくりを雪上にかき集めて尻敷きにし、うさぎの隣に腰を下ろした。松ぼっくりのケツにマッチの火を焚べてひとつずつ燃やしていった。火元の雪を暖かく照らし、パチパチと燃え続けていた。マッチ箱にある本数が残り一本となってしまった。最後まで使い切りたくない性分のため股間のあたりをまさぐり、陰毛を抜いて火種として使った。

松ぼっくりをすべて燃やし終える頃には、すっかり陽が落ちていた。白うさぎはとっくに姿を消していた。煤だらけになった手をはたき、飛び火のせいで穴の空いた足袋を煤で黒く塗りつぶした。家内の漬けたきゅうりが恋しくなったので、重い腰を上げ来た道を戻ろうとした。道標となる街灯の灯りは一切なく、一寸先は暗闇であった。しかし歩けていた。歩いているというよりも、体が家まで運ばれてゆくような自動加減を感じた。

ひょんなところに灯りが見えた。冷気でかじかんだ手を温めるようにして息を吐いた。通り道の先にあるのでそのまま歩いて近づいた。灯りの正体が屋台であることがわかった。暖簾の内からはあたたかい明かりが溢れ出て、その光を頼りに「おでん」の三文字が読めた。ここはおでん屋さんなのだと納得した。細い色白の指で菜箸を据え、具材をいじくる様子が隙間から伺えた。割烹着を着た主婦がひとりで店を切り盛りしているのだろうと思った。数秒立ち止まり、暖簾をくぐった。

「いらっしゃい」若女将だった。こちらを一瞥しすぐさま調理に注意を戻した。妖美な瞳に吸い込まれるようにして、目が離せなかった。古典の女教師に片思いを馳せた、叶わぬ恋に明け暮れし高校時代を思い出した。森閑とした林の奥深くで、男と若女将は2人きりになっていた。互いがたがいを認めなければ、その一方が生きている証明をすることができないほどに、密着した濃密な空間だった。「女将は、俺に気づいているのか?」若女将の反応の無さから、男は少々不安を感じた。だがたしかにこちらに向かって、いらっしゃいと声をかけてくれた。ならば是非もないこと。漆が塗られて麗しく気品漂う椅子に腰をかけた。

「子供はいるのか?」わたしは尋ねた。「いません、独り身です」湧き出てきた生唾を飲んだ。30代前半だろうか。ふっくらとした頬にはハリがあり、女盛り真っ只中ですといわん色気がムンムンと溢れている。しかしなぜだろう。年頃の色気と表裏一体についてくる焦りのようなものが感じられない。「そうですか」冷えたからだに乗せて冷静に返答した。茹った出汁を手塩皿に掬い、口元に運ぶ。可愛らしい仕草をしとる。顎先の肉がぷっくらと突き出し、くちびるには薄い紅が塗られていた。

せっかく若女将が調理してくれたのだからたらふく飲み食いしたい次第である。しかし持ち合わせがない。どうしたものか、と腕を組み卓の木目に目をやっていると女将の声がした。保温のためガスコンロに火をつけようしようとしたらしいのだが、うまくいかないという。点火装置に故障があるようだ。なんて幸運。「少し見せなさい」席を立ち外から回る。先にあけた足袋の穴から雪が入り込み、素足の3本指を濡らした。

高さを同じにして女将と並んだ。正面からでは見たくとも見れなかったやわらかい黒髪が、三角巾の裏側からしっかりと見物できた。うなじから伸びた和毛にこげ に鼻息をふっと吹きかけた。女将に上目で見つめられた。煤汚れた右手を握って見せて開き、マッチ箱を女将に渡すと、莞爾 かんじとした笑顔を私に見せてくれた。先に残った一本のマッチを使って点火することができた。

「お礼にどうぞ」華奢な細指で菜箸を挟むようにして輪切りの大根を宙に浮かせた。そうしてひと口頬張った。つゆだくの大根から汁が溢れ出て、収まりきらなかったダシが女将の頬をつたった。悶々とした何かが沸き起こってくる。一口かじった大根をこちらに仕向けた。両手で皿をつくるように言って、私の手のひらに置いた。凍えたからだを温める大根の湯気。耐え難い熱さであったが、ここで離す訳にはなるまいと意地を張った。「いただくとしよう」煎餅を丁寧に持つようにして両の指で挟んだ。そうして大きくひと口に、全てを入れた。俺はこの女に惚れている。そう納得した。「晴れた日に、またいらしてください」

「_さん。」

おい、今なんといった。男は真正面に飛んできた聞き覚えのない呼び名の矢に戸惑い、閉口した。女将は足元の戸棚に調理器具をしまうようにしてかがみ込んだ。空間が歪み出した。世界の外側にいる何かに引き剥がされてゆくのがわかる。男の座位置から女将の姿が消えた。どこだ、どこに行った。膝裏で椅子を弾き飛ばすように勢いよく立ち上がる。意識が朦朧とする。つま先立ちになり湾曲した机の端をなんとか掴み、厨房の底を覗き込んだ。途端に視界一面が暗黒に変わった。

「たかおさん」

半開きの瞼の隙間からとろんとした目が姿を表す。薄い半透明のグミで覆われているような、角膜にベタっと貼りついた何かが徐々に去っていく。おぼつかない意識で目を見開き、あたりにピントをあわせる。どうやら、見覚えのない部屋で寝かされているらしい。ここはどこだ。どれほど時間が経ったのだろう。まあどこであろうと時間が経っていようと構わない。そう思えるほどの気持ちの良い夢を見ていた。内容は定かでないが、若女将と屋台で会話を交わした景色は覚えている。この夢を見ることが私の天命なのだとさえ思えてしまうほど、気分の高揚する心地のよい寝覚であった。

仰向けに晒されたビール腹のついすこし下、股間が少々ムズムズする。誰かわたしの偽名を呼ばなかったか。

「たかおさん」

首を曲げるようにして下腹部を見ると、くたびれた様子の息子が萎れていた。しかし水をやった蔓草 つるくさのように湿っていた。何が起きているのか、ふらつく頭で考えた。露出の激しい女性がたわわな胸をボロンさせている。局部を白タオルで隠し内股をこちらに向けている。大体を察した。

「どうだった?私のアツアツ演技」
「演技?」
「頼んできたんじゃん」
「覚えてないな」
「ビンビンなまま目つぶちゃって」
「ずっと起きてたの?」
「いいや、夢をみていた」


そうか、彼女が俺を夢へ連れたのか。おちんちんをアツアツな体でしゃぶって、夢中の俺に刺激を与えたんだ。そうして夢をつくりだしたんだ。不思議だ。言葉による中身の詰まらない感動の追体験ではない、生身の感覚だ。想像力は一切いらない。あるがままに、夢に浸っていた。出会ったことのない視覚情報がゼロからつくられていくこの感覚をどう形容すればいいのだろう。と、そんな小賢しい妄念を馳せる隙間など、幸福に満ちた俺の脳には空いていなかった。

まさに夢のような体験をさせてもらったお礼に、嬢にチップを握らせた。ドアノブをしっかり握り扉を開けて部屋を後にする。「夢の続きは、また今度にしましょ」このひと言に全てが包みこまれた。こんなクソみたいな世界に、まだ一筋の光があったのかと、残っていたのか!と感動した。なんて素晴らしい仕事をしていらっしゃるのだ。俺は思わず道の真ん中で立ち止まり振り返る。そび え立つビル街を見上げ感嘆の息を漏らしてしまった。「また来ます。」

紺色の背広が街の薄明かりに溶けていく。夏の夜風が、心地良い。

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