恥かかされたわ(汗 ③
読者諸賢に考えてもらいたいことがある。大層な社会問題について論究しろということではない、1に1を足したら幾つになるか、といった瞬間的に答えが導き出せる問いなので良ければ参加してほしい。
気乗りせず頭を働かせるのが億劫な9割9分の読者は、引き続き清々しく読み進めていただいて構わない。
「これって〇〇行きですか?」
この質問の意図を、字面と、今からなす状況説明を踏まえて、考えてみてほしい。
〇〇に入る語句は、ただいま私とマダムらが乗っている電車の、おおよその進行方向を示す、終着駅の名称である。例を出すとわたしの居住地域がバレる恐れがあるので慎重にいきたい。
あくまで例えです。秋葉原駅からマダムと私が乗り合わせて、JR京浜東北・根岸線で東京駅に向かうとする。この場合、マダムが尋ねてきた文言の〇〇には「大船」「磯子」などの終着駅名が入る。
「これって大船行きですか?」
こんな質問を投げかけられたとしよう。
次に私の境遇についての説明。右隣の席に座すマダムが先の質問を投げかけた時、俯いたわたしの視界には、わたしの方に画面が傾けられた、マダムのスマホがあった。そしてそのスマホには、乗り換え案内のアプリが立ち上げられており、画面をのぞくと「大船行き」と書かれている経路が示されていた。
「これって大船行きですか?」
5秒、時間を空けます。
あなたなら、どう答えますか?
「はい、大船、だと思います」
差し当たり、こんな受け答えを思い付かれる方が多いと思う。疲労が取っ払われ冷静にものごとを処理できる頭で考えれば、わたしもその1人である。マダムが発した「これ」という指示語は、すなわちスマホに表示されている乗り換え案内を指し示している。そしてその案内には、見紛うことなき「大船」の文字が記されている。5秒と間を置かずともすぐに「はい」と応答することできる。実際わたしはこう答えた。
「おおふなー」
ちょっとつまづいた。おおふなー、と間延びした返答をしてしまった。「はい」と断言することができなかった。
断言できなかった理由もあるにはあるので、言い訳させてほしい。当時のわたしは、「これ」がどうも乗り換え案内を言い示しているようには思えなかったのだ。マダムが言い放った「これ」が、乗り換え案内ではなく、私たちが乗っている電車自体を指していたとしたらどうだろう。「大船行き」の文字を見せられて、「これって大船行きですか?」と尋ねられた。いや、そうですけど。大船って書いてありますけど。果物のりんごを見せつけられて「これってりんごですか?」と聞かれているようなものだった。哲学だった。
問いに対するあまりに明快な答えがすぐさま浮かぶと、逆に不安になり答えられなくなるといったことは、いろんな分野で往々にしてあるはずだ。そうした点を考慮して、「はい」と断言できなかったわたしの胸中を想像してほしい。
恥の話は、まだ続く。
その後マダムから、察しの悪い私のために、質問の補足がなされる。マダム曰く、いま乗っている電車が「大船行き」かどうかを尋ねたいのだとか。
うっわ!!
🐣「?」
マヌケだっただけだ、おれが!!
そういうことかー、だから俺はすぐに答えられなくて、あいつは俺より先に答えられたのかー。そうじゃん、②で自分で語ってるじゃーん。
いや、まあね。補足が加えられたところで、いま乗ってる電車が大船行きか否かなんて、わたし、知らないですよ。慣れ親しんだ駅のプラットホームホームから出発する電車に乗りさえすれば、自宅の最寄駅に辿り着けるという認識しか無いですよ。終着駅がどこかなんて気にしたことないですよ。
🐣「わからんわからん」
間延びしたまま言い淀んでいると、突然、わたしの左側に座していたひとりの女性が
「合ってます、合ってます」
わたしに代わり受け答えをし始めた。
え?
いやいや、なんで?
疑問に思う点は大きく2つある。第一に、なぜ、左隣の女性は、わたしに代わり、マダムの受け答えをしているのかという点。マダムに尋ねられていたのは、わたし以外の何者でもないのに。女性は、わたしとマダムの会話に無断で立ち入り、この電車が大船行きか否かの問いに「合ってます、合ってます」と、言い淀んでいた私とは対照的に、華麗に、回答を与えたわけだ。
女性の不躾な言動に当惑しつつ、裏腹に、なんて甲斐性のない人間なのだろうと、左隣の女性と、右隣のマダムが、わたしを挟んで絶妙な距離感で言葉を交わすさまを見ながら、わたしは自分を、恥じた。
そして第二に不可解な点が、左隣の女性の凄みである。マダムの問い掛けに対する反応が、異常なほどはやかった。女性が「合ってます、合ってます」と答えたその時わたしは未だにマダムの質問の意図がつかめておらず、「おおふなー」と間延びした返事を遮るようなタイミングで、女性はレスポンスをしたのだった。
今のいままで、この疑問が解消されなかった。しかしつらつらと言葉を重ね状況を整理し直すと、これが凄みの真相なのではないかと合点のいく答えが導き出せた。ヒントは本稿②にあった。
わたしの頭の働きが鈍かったから、相対的にはやく感じられただけなのかもわからない。あるいは、右隣のマダムと左の女性はなんらかの繋がりあるグループであり、洗練された計画のもと、絶対にこいつに恥をかかす作戦通称ZKHが実行されその結果、わたしは恥をかかされたのではないか、規模の小さい陰謀が企てられたのではないか。
先まではこのような、疑問に対する答えの仮置きを据えていた。
やっと、世界の真実に、辿り着いた。
🐣「大袈裟だな」
あの女性は、ずっと、マダムらの会話を聞いていたんだ。疲労により、マダムらの発する声が右耳から左耳へと抜ける。内容は当然覚えていない。そして、わたしの左耳から抜けた音の波を、左隣の女性は、しっかりと受け取っていたんだ。本稿②に、こんなことが書かれている。
「どうやら、マダムらは、電車の上り下りの分別をつけることなく、出発間際の列車を見るやすなわち、急いで乗り込んでしまう習性があるらしい。」
この内容をわたしは記憶しておらず、女性は記憶していた。記憶している女性の方は、「これって大船行きですか」の問いかけの文言にある「これ」の意味が、スマホに映されている経路案内の「大船」の文字ではなく、いま乗っている電車を指していることを明確に察することができたんだ。
恥かかされたわ(汗
沈黙が流れる。しばらくして、東京駅に着く。
降車の準備をする。
座席を立つ。
わたしは、莞爾とした笑顔をマダムに向ける。
「ありがとうございます」
深い意味はない。
こうしてわたしは、列車を後にした。
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