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掌編『湖畔での奇跡』

 日曜日の朝に立ち寄った湖には大小さまざまな魚がたくさん泳いでいたが、わたしの目には美しく映らなかった。彼らの容姿は些かグロテスクで、じっと睨みつけても臆することなく呑気に遊泳している。しかしよく見るとその中に一際美しい人魚が混ざっていることが分かった。わたしはじぶんに言い聞かせる。これは夢なのだと。或いは、心の病が悪化したことにより、幻覚を見ているのだろうと。人魚は水飛沫を上げて端麗な顔立ちを覗かせる。紅色のロングヘア―に透き通るような真っ白な肌。水底の方へ沈む下半身はもちろん魚そのものである。周辺の魚たちはまるで主役を引き立てるかのように湖から姿を消してゆく。わたしは狼狽えながらも人魚に話しかける。
「わたしには家族がいない。先月事故でみんな死んでしまった。もう寂しくて寂しくて、今日は身投げしようと思ってここにきたんだ」
 すると人魚は微笑んで、
「ハッピーバースデー」
 と囁いた。すっかり忘れていた。今日がじぶんの誕生日であるということを。次の瞬間、湖の中から見覚えのある人間たちが這い上がってきた。わたしは仰天した。彼らは死んだはずの家族だったのだ。皆、満面の笑みで抱擁してくる。
 ——夢でもいい、幻でもいい、これ以上、最高の日はない。
 礼を言おうと、水面を見やると人魚は消えていた。わたしは頬を涙で濡らしながら湖畔に立ち尽くす。やがて陽が頭上に昇ると、さっきよりも明瞭な影が作られる。じぶんひとりではない、確かなる影が。

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