荻野NAO之 【伊東市 day5】 「魚と鳥と」
また朝となった、5日目である
晴れ渡る空の下、こんなに広大な空間の中で富士山を見たのは初めてかもしれない、前後に何も遮るものが無く、左右に広がる広々とした空間の中に富士山が一つそびえている
穏やかに見えるこの景色ではあるが、元来が旅人伊豆半島が南の海から本州に突き刺ささりながら陸地を拡大しつつある変動帯の顕れで、穏やかという表現は正しくはないのかもしれない
地球の反対側では、数週間前に、それまで噴煙のようにして燻っていたウクライナ国境付近のロシア軍が堰を切ったようにしてウクライナに侵攻し、今ヨーロッパは、いや世界中の国際政治、地政学もしくは地経学が大きな地殻変動に直面し、今日の今も治まりどころを知らないままに揺れ動き続けている
ここ15年ほどの間に、いろいろな写真フェスティバルで招待をいただいて、私はウズベキスタン、アルメニア、ジョージアや、個人的に訪問したエストニア、ラトビア、モルドバなど旧ソ連圏に10度ほど訪問したが、常になんとなくロシアと西側諸国との狭間で緊張感が漂っていた
その気配だったものが今回一気に表出してしまったようで、そんなことが今回の伊東市での旅の最中にふと頭を過ると、この今私のいる伊豆衝突帯の存在が艶めかしく感じられてしまってどこか複雑な思いになる
これは私の気持ちの持ちようのせいということではあるが、ここ伊東市のある伊豆半島の、日々動き続ける変成帯の、日本列島を日々拡張し続けているエネルギーのようなものをどこかで感じ取って、その見えない力の大きさについ戸惑ったあらわれなのかもしれない、それだけにここ伊豆衝突帯のエネルギーは地球規模の壮大なものなのだと思う
震災の時前後から、今は方丈記に書かれている時代の気配と似た不穏さがあると感じることがある
その方丈記を記した鎌倉時代の旅人鴨長明がこんなことばを残している
魚は水に飽かず、魚にあらざれば、その心を知らず
鳥は林を願う、鳥にあらざれば、その心を知らず
私には国際政治の中で地政学や地経学という地形、しかも往々にしてかなりローカルな地形を中心に見て旅する旅人である各国の政治家たちの結果責任として現れ出る地形の姿をなかなか素直には受け取れないものがある
まだしも鳥や魚の心の方が分かることができるのではないかと思ったりもするが、鳥たちの目線の高さから木々を見て…魚の身を目の前にして…やはりその心は分からない
旅人鴨長明は、閑居を進めた、雑踏を離れて静かに暮らすことを勧めていた…
このコロナ禍で世間が大号令したことに繋がっているようであり、今起きているヨーロッパの歪の根幹、地政学、地経学の地形の歪に対しても有効なススメであるように思われる
さて、いろいろと私の心が身を置き去りにして、地球の裏側や鎌倉時代へまで旅してしまいがちで、心ここにあらずのようになっていたが、滝を旅する水たちのお陰で一瞬にして今ここに戻った
別のところから持ち帰りつつあった穢れのようなものをスッと流してもらった感覚は、とても清々しい、良しと思った
伊豆半島の豊かな自然の中を旅すると、霊振りのような体感を得ていることに気がつく
今日は一日、鳥の目になってみたり、魚の身になってみたり、ヨーロッパの地政学を鳥瞰してみたり、地殻プレートの下のマグマの中を泳いでみたり、そんなことをしている間に時は流れ、こうしてまた夕となった