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三浦雨林「土器と桜」(2日目)

 今日は短く書こうと思っていたのに、やっぱり爆長になりました。


10:00~ 遺跡の調査室

 ホストの和田さんが調整してくださり、河津町の発掘に長年携わっている宮本さんの元へ。一般公開していない調査室に入れていただき、河津にある段間遺跡と宮林遺跡についてお話しを伺った。今日最終日の北林さんも一緒だった。本当は遺跡の現地に行きたかったが、段間遺跡は現在小学校のため、感染症対策で外部の人は入れないらしい。
 河津町では、約3万年前の石器が発見されている。今回見せてもらったのは約8000年前〜4000年前くらいの縄文土器が主だった。河津町では神津島などから運ばれてきた黒曜石が250kg以上も発掘されており、土器などと交換していたのでは?という説があるらしい。『河津加工の黒曜石』として、矢尻やナイフにブランドをつけて交換していたのかもしれない。

 発掘について一番驚いたのは、「現代ではなるべく手をつけず、出来るだけ未来に残す」という概念。段間遺跡のある小学校は、校舎を立て直す敷地のみの発掘調査で、掘り返す必要のないグラウンドなどはしていないらしい。何故かと聞くと「しなくてもいいところは、出来るだけ技術が発達するであろう未来に残しておくんです」と教えてくれた。知らなかった。建物をたてる度に発掘しなくちゃいけないなら、予め日本全部発掘しといた方がいいじゃんとか愚かなことを考えていた私が恥ずかしい。手をつけずに未来に残すという考え方が考古学の見地から出てくるのはカルチャーショックだった。考古学は過去に向かっていく学問ではないのだ。

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左:縄文時代に作られた矢尻。実際に使用されたかはわからない。
中:神津島から運ばれた黒曜石。端っこは鋭利で、このままでも切れそう。小学校では外で普通に遊んでいるだけで見つけるくらい出土していて、見つけたら遊んでぽいしてたとの話を聞き、なんて贅沢なんだ…と思った。
右:土笛。一番欲しかった。ホーという音が鳴るらしい。どんな時に鳴らしたんだろう。こんなに丸いと無くしそうだけど、紐をつけてたりしたのかな。

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 縄文時代の斧。このまま振り下ろしたら皮膚くらいならスパっと切れそう。ギャートルズで見たことある形すぎて感動した。本当にこういう形だったんだ。

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 発掘途中にユンボで削ってしまった傷がある石棒

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 祭事用の土器。祭事や葬送のために使用する土器は、普段使いとは別に作られるとのこと。左の土器は出来上がってから下部の穴を開けたらしい。物に対しても生と死の区別をつけていること、あえて欠損させるという行為にかなりグッときた。何かのために欠損させる。考えたこともなかった。
左:埋葬用。墓から出土。下の部分に穴が空いている。穴を開けたりすることで道具としての用途を変容させることを「仮器化」というらしい。
右:祭事用。もっと小さいミニチュアみたいなサイズのものもあった。

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 宮本さんによると、全体がわかる部分があれば修復は可能らしい。私には見えないものが宮本さんには見えている。宮本さんの現前には完全な土器があるのに、私にはカケラにしか見えない。すごい。私には見えないものが見えていると思うこの瞬間は、いつも大きなショックを受ける。昨日の北林さんの絵を見つめる目もそうだ。私には見えない世界。だけど、見えないままにしたい。同じ世界を見ることの出来ないまま対話をするというのは、そのまま相手を信頼するという行為に直結していると思う。

 現代でもかわいい文様を見て、縄文時代にも土器アーティスト・黥面アーティストとか絶対いたよね、と北林さんと話した。「◯◯が作った土器持ちやすいわぁ」「◯◯の描く文様イカしてるわぁ」という会話、絶対あったと思う。

 また、縄文時代の人骨を見せてもらった。宮本さんは「解析するまで動物の骨だと思って、調査室で一緒に寝てたよ」と笑っていた。以前自分の戯曲に、「庭に投げた歯って何万年後とかに発掘されるのかな」というようなセリフを書いたが、どうやらかなりの好条件ではないと骨は残らないらしい。残念。

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 宮本さんへの最後の質問として、恐竜の化石について尋ねた。どうやら、サンゴの化石はあるが、それ以外は見つかっていないらしい。伊豆は元々火山島で古い地層がなく、プレートによって移動して今の位置になったと言われている(詳細)。プレートテクトニクス地元の科学博物館にプレートの動く大きな地球儀があって、それがすごく好きだったことを思い出した。陸が移動してきて、ぶつかると陸が立体に隆起して山々になるあの地球儀。何度も何度も見た。まだ現役だろうか。
 私の故郷もかつては海で、大きなカイギュウが見つかっている。そういえば、私が小学生の頃、父の仕事の関係で何度か化石の発掘をさせてもらったことがある。夏休みの自由研究で自分で発掘したタカハシホタテガイを提出したのを覚えている。ていうか、家の庭にもアンモナイトがごろごろ置いてあった。今思うと、なんだか特殊な幼少期だったのかもしれない。

 こういう、今までの人生で経験したことや得たものが新たに何かと結びつく瞬間は、自分の人生が肯定されたようでいつもすごく嬉しい。

13:00~ 河津町

 なんでもないお昼ご飯を食べて、河津町に繰り出す。お借りした自転車が東京で乗っているメーカーと同じだった。

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 民家の軒下に柱状節理の石を見つけた。伊豆半島にも柱状節理のすごい場所がいくつもある(詳細)。今回の旅では行けないけれど、いつか見に行きたい。
 この軒下の岩が伊豆半島産なのかはわからないが、そうじゃなければこんな置き(飾り)方をしないんじゃないか。城崎の温泉街の古い家々や護岸にも、今はもう採石出来ない玄武岩が使われていた。
 どこの土地に行っても、柱状節理を見つけるとテンションが上がる。兵庫の玄武堂、宮崎の高千穂峡、北海道の層雲峡。柱状節理ではないが、青島の鬼の洗濯板(隆起海床)もめちゃくちゃよかった。旅先ではよく岩や地層を見ている。規則的な自然物というだけでまずカッコイイし、時代がわかるのもロマンがある。

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 そして、古そうな方法で石切されている石塀を見つけた。旧天城トンネルと似ていると思ったけど、どうだろう。ちょっと違う気がする。石切の方法的には同じような年代だと思うが…。地域的にも、これってもしかして伊豆石?と思って調べてみたら、旧天城トンネルにも使われているのはもちろん、伊豆の国市の韮山反射炉にも使われているらしい。二年ほど前に行ったので「見た見た!」とまた繋がってちょっと嬉しい。
 でもやっぱり詳細はネットで調べても全然わからない。図書館に行ったら何かわかるかな。
 そういえば3年くらい前に茨城の大谷資料館にも行っていた。石とか岩とか地層とか、わからないけど気になるものは詳しい父にすぐ聞いてしまうし、本格的に好きな気がしてきた。

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 河津桜の原木を見に行ったら、蕾がなんだかピンクになっている気がして、じっと枝を一本一本見ていくと、やっぱりいくつか咲いていた。
 まだ12月!と思ったけど、伊豆は暖かいしこれが普通なんだろうか?昨日に引き続き、やっぱり普通がわからない。

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 きれいだった。原木の河津桜を見れて嬉しい。
 桜を後にして、河津町をゆっくり進み、北林さんの居る今井浜に向かう。

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15:00~ 今井浜

 海沿いを自転車で走る。波の音が近づいてきて、いきなり目の前が開ける。海には悪魔的な魅力がある。

 北林さんは昨日と同じ場所にいた。電車の時間もあり、撤収を初めていたけれど、描いた絵を見せてもらえた。わ〜素晴らしい〜と思って見ていたが、完成じゃないらしかった。目の前に砂だらけになりながら横たわっている大きな絵は、北林さんの目には違うものが見えているようだった。北林さんにも、私には見えないものが現前している。撤収して、今井浜海岸駅まで一緒に歩く。もっとゆっくり作品についてや興味のあることを話したいと思っていたら、「また会いましょう!」と言ってくれた。LINEを交換して、大きな作品を持って駅の階段を登って行った。iPhoneを取り出した時、北林さんの右手は塗料だらけだった。

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 北林さんと別れる直前、近くの美味しいパン屋さんを教えてくれたが、海の見える温泉に吸い込まれてしまって行けなかった。すいません。

 暮れていく海を見ながら露天風呂に入った。遠くの船が右から左に移動し、空が水色から橙色になるまでゆっくり浸かった。
 受付のお姉さんのまつげがバチバチで可愛かった。

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 初めての自転車でお尻が痛すぎる!と布団に倒れていたら晩御飯を作り損ねた。

 今日も書きすぎた。

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