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山本晶大「蒲原散策(4日目)」

1週間の滞在も折り返しに入った。

今日の午前中は大澤さんから紹介いただいた、蒲原の地域や子供のための活動などをされている若手世代の石原さんとお話をしながら蒲原の街を散策。

「ここも空き家です」と教えていただきながら歩くと、町中に空き家がたくさんあることがよく分かる。普段私が町を歩くときは、電気メーターやガスメーターなどを見て空き家かどうかを判断しているが、家の持ち主やその子供が定期的に家のメンテナンスをしに来ている場合は、ぱっと見ただけでは空き家かどうかはっきりと分からないことも多い。二階の雨戸が閉め切られている家などはまだ予測がしやすいが、雨戸もない比較的新しい家の空き家となると説明してもらわないと分からない。

蒲原の空き家事情について尋ねたところ、やはり仕事が少なく、大学などに進学して外に出て行った若い世代がそのまま帰って来ず、親が高齢になり高齢者施設などに入って空き家化してしまうパターンが多いとのこと。

蒲原での仕事先として工場や漁業などはあるが、大学を出てまでわざわざ地元に戻って工場勤めをしようとはならない気持ちも分かる。静岡市など近隣の都市部までは車で30分ほどと近く、通勤しようと思えば問題なく通える距離でもあるのだが、同じ通勤条件の場所は他にもたくさんあり、あえて蒲原を選ぶ理由に欠けるのだろう。

また、私にとっては古民家が残っていることは蒲原の魅力の一つだが、普通の新築に住みたい人にとってはマイナスポイントにもなりうる。町家は隣の家と密接して建てられているため、一度壊して建て直そうとすると、隣の人の了承が得られない場合、現在の法規制にしたがって隣の家の境界線から50cm以上の隙間をあけないといけなくなる。そうするとただでさえ細長い町家の敷地に、さらに細長い家を建てることになってしまう。建て直さずに中をリフォームして住むなら家がさらに狭くなってしまうということはないのだが、新しいものの方がいいという価値観の人には新築の方が魅力的に映るだろう。

こうした古民家には、古民家の良さを理解し、その良さを活かしながら補修や改修を行なってくれる人に住んでもらうのが一番いいのだが、せっかくそのような理解ある人がいても、貸したり売ったりする気がない所有者が多いという問題もある。特に代々受け継いできた歴史ある家や思い入れのある家ほど、自分の代で家を手放して他の人にまかせてしまうのは忍びないと感じる人は多い。だからとりあえず後継に譲るまでは貸したり売ったりせずに手元に置いておこうとして、不動産にも載らない空き家になってしまう。そうした家を継いだ子供も、別の場所に住んで仕事をしていて家を管理できなかったり、誰かに貸そうにも親が住んでいたときの荷物がそのままで片付ける余裕もなくて、人に貸せるような状況でなかったりもする。やがて人が住んでいない家の状態はどんどん悪くなっていき、貸すことも売ることもできなくなって取り壊すことになってしまうというのがよくあるパターンだ。

私がよく活動している尾道の斜面地のような、車が入らず不便な場所で、空き家化して取り壊すことになると解体だけでも数千万円もかかるような場所であれば、空き家として放置し続けることに所有者が危機感を抱きやすく、空き家を減らすことにも積極的になるのだが、蒲原のようにそこまで不便というわけでもなく、住んでみたら悪くないというところほど、空き家を放置することに対する危機感は抱きづらい。そしてこのままでは家が倒れてきそうで危ないという深刻な事態になってはじめて周囲が動き始めることになりがちなのだが、その頃には誰が譲渡されて所有者になっているのかも不明で、すぐ対応できないなんてことも多い。

そうなる前にどんどん古民家の魅力を生かして活用してもらいたいところだが、歴史ある街並みとして売り出せるほど街並みが残っているかと言われたらそうでもなく、現状では古民家を活用したカフェやお店などを沢山作っても、観光客などをあてにした収入を見込むことができないのも蒲原の難しいところ。

しかし、営利目的とは別の理由で、蒲原にはもっとカフェやお店などの人が集って交流できる様々な場所が必要だと感じる。特に若い世代にとっては、気軽に息抜きに行けるお店や所属できるコミュニティの数が少なく、選ぶことができないということが地域での生きづらさを感じる大きな要因となりやすい。

蒲原にはいくつものNPOや民間活動を行なっているグループがあるが、そこに参加している人は70代前後が大半であり、若者世代が入り込む余地はあまりない。また、人間関係が重複しているグループが多く、どこか一ヶ所で人間関係が悪化すると、他のグループにも居場所がなくなってしまうリスクも高い。そのことは上の世代の人たちも理解していて問題視しているが、若者世代が入り込めない主な原因となっている価値観や感覚の違いまで理解することはなかなか難しい。

これは蒲原に限らず、日本の地方自治体あるある話で、若手が何かをしようとすると、上の世代が悪気や自覚なしにそれを潰してしまうということがよく起こる。特によく聞くのが「なんで私たちには何も声がかからないのか。」「何かをする前にちゃんと話を通して欲しい。」「あの人に話をする前になぜ私に言わなかった。先に私に話を通すのが筋だ。」など、あらかじめ声がかけられなかった上の世代の人々が怒ったりいじけたりして、若手のやることに非協力的になってしまう事態だ。これは上の世代VS若手世代という構図だけでなく、地元住民VS移住者という構図でもよく起こる。そして先駆者達が活動的で自分たちのやってきたことに誇りを持っているほど、こうした軋轢が起こりやすいというのも厄介な点だ。

結局のところ、「私たちが築き上げてきたものに敬意を払って欲しい、好き勝手して私たちが築き上げてきたものを壊さないで欲しい」という気持ちから生まれる問題なのだが、若手やよそから来た新参者からすると、先駆者達の派閥や序列などをいちいち細かく把握して、角が立たないよう根回しを行って欲しいと要求される方が無茶な話だとも言える。もちろん周囲の理解や協力を得るために話を通していったり根回しを行ったりすることはとても大事であるし、それができれば色々とスムーズにことを進めていけるのだが、そういった根回しが得意だという人ばかりではないし、上下関係や根回しをストレスに感じて活動が楽しくなくなり、モチベーションが下がってしまう人も多い。

若手や移住者などの新たな層は、先駆者達のやっていたことを引き継いでいきたいという動機で活動をしていることは少なく、ただ自分たちが生きやすい場所を作っていくために活動をしている場合の方が多い。そしてその中で先駆者達の築き上げたものが自分たちにとって良いものであればそれを引き継いでいくし、それが自分たちにとって望ましくないものであれば拒絶し、打ち壊そうとする。これは先駆者達も同じ道を辿ってきたはずだが、自分はまだ現役だと思って活動的に動いている先駆者ほど、自分がいつの間にか保守側になってしまっていることをなかなか自覚できず、無自覚に後進を抑圧してしまっていることがある。

若手や移住者からしたら、ヘタに地域活動に積極的な先駆者がいるより、ある程度無関心で好き勝手やっても自由に放っておいてもらえる場所の方がかえって動きやすい。

だが、抑圧してしまう側の気持ちもよく分かる。
最近、私が住んでいるところにまちづくりをしたいという人が引っ越してきたのだが、その人がグラフィティ系のアーティストを呼んで来て町の壁やシャッターに絵を描いてもらうと言い出した。自分の所有する物件に絵を描いてもらうのならその人の自由だが、それを町のいたるところに描いてアートの街にするのだという。壁などに海外にあるようなグラフィティが描かれていることが好きな人もいるだろうが、町中がその人のグラフィティだらけになると明らかに町の雰囲気が悪くなるのではないかと私は感じてしまう。しかもその作家のグラフィティは町の歴史や文脈とは何も関係なく、アートに携わる者として眉を顰めてしまう。
私も移住者であり新参者に過ぎないが、そのグラフィティアートによるまちづくりプランには流石に賛同できない。
その人からしてみれば私も理解がなく鬱陶しい先駆者の一人なのだろう。

どちらにも悪意があるわけではなく、むしろどちらも町のためにいいことをしていると思っている。ただただ価値観や感覚が違うだけ。特にまちづくりなどの公共性の強い分野だと異なる意見や価値観がぶつかってしまうことが多いが、できればお互い干渉し過ぎずにある程度自由に動ける場所がいくつもある地域の方が、若い世代には生きやすい。それが田舎や地方だと難しいから、都会で生活する人が多いのだろう。

石原さんは浜松の方の出身で、結婚した際に蒲原に来られたそうだ。蒲原に来てみると、子供達がとても素直で、挨拶も気持ちよくしてくれ、とてもいい町だと感じたという。そしてこの町で育った子供がまた戻ってきて子供を育てられるような町になって欲しいとの思いから、まちづくりや子供に関する活動をされているのだが、やはり世代間の軋轢は蒲原の町にもいろいろあって、肩身の狭い思いをすることもあるそうだ。大きなイベントを行うと目立って軋轢が生まれることが多かったため、今は周囲から何か言われてもあまり気にせず動けるように、規模の小さなイベントを細かく開くなどの工夫をしながら活動を展開しているとのこと。今までお会いしてきた蒲原で活動している人は上の世代が多かったが、やはり異なる世代の人からお話をお聞きすると見え方もまた変わってくる。

そうした苦労話も聞かせていただきながら蒲原の町を歩き、入り組んだ場所にある分かりづらい路地裏も案内してもらって、路地裏を探索する楽しさなどについても話が弾んだ。教えていただいた路地裏には煉瓦造りの蔵などマニアにはたまらない建物もあってテンションが上がる。

4日目レンガ蔵


静岡の名産といえばうなぎということで、お昼は蒲原でうなぎといえばこのお店という「よし川」でうな重をいただいてきた。タレはさっぱり目で、山椒の実をペッパーミルで挽いて振りかける。うな重といえば甘いタレやどっしりとした食べ応えのものが多いが、ここのはあっさりとしていてペロリと完食。肝吸いは肝の味がしっかりしているのにエグみはなくて美味しい。付け合わせの漬物には削り節がかかっていたが、この辺の特産の削り節だろうか。あと、「やましち」さんでご飯をいただいたときにも思ったが、この辺の料理屋で出てくるお茶がおいしい。さすがお茶所として有名な静岡だなと感じる。

4日目うな重


午後はまた自転車で旧東海道を走る。昨日は東の岩淵まで行ったので、今日は西の由比方面へ向かって薩埵峠まで。蒲原の外れから岩淵までの間は古い建物はほとんど残っていなかったが、蒲原から由比にかけては街道に古い建物が残っているところも多く、走っていて楽しい。特に国道一号線の脇道を走る、山際の寺尾や倉沢あたりの集落は古い街並みの風情も残っている。よく地図を見て場所を確認しておかないと絶対に見落としてしまうような狭い脇道に入っていかないと通れない、あまり交通の便の良くない場所だからこそ、他の場所より街並みや風情が残っているのだろう。

4日目由比

倉沢を過ぎると、峠という漢字通りの坂道が続く。ゲストハウスでお借りした自転車にはギアがついていないので、自転車を押して坂道を登っていくが、急勾配の坂も多くて中々キツイ。薩埵峠まではもう古民家もなさそうだし、引き返そうかなと悩むが、どうせここまで来たのだからと頑張って薩埵峠まで自転車を押して行った。昔の参勤交代では、これよりももっとひどい舗装のされていない道を大名の乗っている駕籠を担いで人が歩いていたのだろうか。

4日目薩埵峠

薩埵峠にたどり着き、駿河湾を一望したあと帰路につく。帰りは下り坂が多く、あっという間に峠から倉沢まで戻り、あれだけしんどかった道のりが一瞬で終わってしまった。ただ、帰りはガードレールのない曲がりくねった急な下り坂が多いので、これはこれで恐い。

今日は遠くまで足を伸ばして結構疲れたので、体をほぐしてからゆっくり寝よう。


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