たったひとこと、miwaの“声”

 1年ほど前、数ヶ月だけ働いていた当時の職場で初めて「VIPのお客様」というのを経験した。
 その日の朝はみんなが少しソワソワしていたように思う。当然わたしもそうだった。今日来店する顧客の一覧とタイムテーブルの表を見る。他の欄には「タケウチ様」などと名前が書かれているのに、VIPのところは「VIP様」としか書かれていない。

 新人のわたしはもちろん、職場で1番下っ端だった。そもそも正社員が顧客の接待や打ち合わせ、アルバイトはその下準備という構図で成り立つ仕事であったがゆえに、話題のVIPが気になったってわたしはお目にかかれるかどうかすらも分からない。

 それでも上京してから2年、まだ2年。「VIPのお客様」には正直途方もないほど夢を抱いた。わたしが接近できる唯一のチャンスは受付からVIPルームへのご案内だけ。そこから先、ひとたび接待が始まればアルバイトは完全に蚊帳の外へと閉め出される。


 そして午前10時、VIPの来店予約時刻。

 先輩のお姉さんたちが順繰りにお店へと来るお客様をそれぞれの部屋へ案内していき、受付前にはわたしとレセプション担当のお姉さんだけになる。
 お姉さんが持った顧客リストで、まだ「来店済み」のチェックがついていないのはVIPを合わせて残り2組。数分後には半々の確率でわたしがVIPをご案内していると思うとさすがに少し緊張した。

 程無くしてお店のドアがまた開く。やってきたのはベビーカーを押し、まだ幼い赤ちゃんを抱っこバンドで抱えた小柄なお母さん。瞳がくりっと可愛らしくて黒いショートヘアには艶がある。そしてもう1人、付き添いと思われる女の人も一緒にいた。

 わたしは「ご来店ありがとうございます」とお辞儀をし、レセプションのお姉さんも「ご予約のお名前を頂戴します」と言葉を続ける。
 だけどそのお母さんはきゅっと僅かに両の口角を上げたまま、じっと黙ってみせるだけだった。どうして名乗らないんだろうかとわたしが不思議に思った矢先、先輩のお姉さんはその沈黙を正しく察する。

「VIP様でいらっしゃいますね」

 わたしは驚いてお姉さんを、そして“VIP様”を見る。嘘でしょう、この可愛らしいお母さんが? もっとこう、サングラスやスーツなどでカチッとキメた“VIP”を想像していたわたしは内心たまげる。どこかの会社の女社長か、それとも某財閥のご令嬢か。
 思わず眉をひそめそうになってしまうが、こくりと頷きその唇から紡ぎだされた彼女の“声”を聴いた瞬間、わたしは一層おったまげることになる。

「はい、そうです」


 miwaだ~~~~!!!!!

 それはmiwaの声だった。VIPのお客様とは歌手のmiwaだった。そういえば結婚して子どもが産まれたのだと少し前にTwitterで。あのロングヘア―をさっぱり短く切ったのだとツアーの広告で知ったことを思い出す。
 わたしがまだ小中学生だった頃に1番好きでさんざん聴いたあの女性アーティスト。ライブに行ったことはないけどまさかこんな形でお目にかかれるだなんて。

「え~~~~!!!」と叫びそうなのを我慢しながら、わたしはお姉さんの指示を受けてVIPルームにご案内する。今この瞬間、miwaがわたしの背中を道しるべに歩いている事実に感無量を噛み締める。

 しかも「片想い」なんて切ない曲を涙ながらに歌っていたいつかのmiwaが、今や結婚してお母さんになっているのだ。
 つらい恋愛もあっただろうに、幸せになれたみたいで良かった、となぜか勝手に謎の立場でしみじみ祝う。完全にオタクの考え方である。

 だけど一方、容姿でも佇まいでもVIPの肩書きでもなくて、自身の“声”をたったひとこと聴かせるだけでmiwaだと気づかせてくれたことにもひたすら感動した。それも「声で分かった」だけでなく、振動を伝う空気の色さえ一瞬澄ませた。

 数年前まで綺麗なロングと重めのぱっつんだったmiwa、アコギを抱えて歌うmiwa。そして今目の前にいる、ショートヘアーで前髪を少し横に流したお母さん、赤ちゃんを抱いたお母さん。
 一見かけ離れた2人。だけど「はい、そうです」のひとことだけで、1本の弦が奏でる波長に重なっていくようだった。もう何年も聴いていなかったはずなのに、一瞬で全て繋がった。

 ああ、この人は自分の“声”で誰かを魅了できる力が確かにあるんだな。間違いなく本当の意味でシンガーなんだ。そんな感動が溢れていく。


 無事にVIPルームへ案内した後、「担当者をお呼びします」と伝えたわたしの“普通”な声はきっと震えていたのだろうし、おそらく噛んでもいたと思う。
 miwaの前を歩きながら、感動がゆえに1人で表情をコロコロとさせたわたしはさぞかし滑稽だったはず。

 だけどどんなにわたしが可笑しくたって、あの感動とmiwaのすごさは忘れちゃいけない。たったひとことで空気を染められるほどの魅力を。ああいう力は己の“声”で惹きつける人の本領というか、神髄みたいなものかもしれない。素人ながらにそう思う。

 あの日の帰りの電車はもちろん、懐かしのmiwaを聴いていた。わたしにとってのシンガー・miwaは、今までよりも他よりも、少し特別な存在になっていく。



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