見出し画像

刺激への尽きない欲求と、亀の泳ぎの穏やかさ


月に1本程度の頻度で続いていたエッセイも、すっかり筆が止まっていた。


書きかけては自分で書いたものが面白くなくて、まとめ上げる余裕もなくて、下書きに溜めまくっている。書けない焦ったさを感じている。
しかし私の書くものはそもそも大したものではない。とにかく今は上手く書こうとするよりも、何でもいいから書き切ることのほうが先決な気がしている。


最近のことを書き記しておこうじゃないか。



気づいたら30歳になっており、20代を振り返ることも、30代の抱負を考える間もなく過ぎていた。

同い年たちは、30になるまでにこれをやり遂げたいとか、そういうことを考えている人も多いみたいだけど、私はそういった目標を立てることも、自分に期待をすることもなく、ただ日々に忙殺され、無為に過ごしてしまった。
そもそも今までだって年齢に捉われることはほぼ無かったのだけれど、それでも捉われてなさ過ぎることに焦っているという変な状態になっているかもしれない。

ここ数年、誕生日の後にはよく体調を崩す。季節の変わり目ということもあるが、今年もまた吐き気やら熱中症やらのお祭り騒ぎだった。
そうでなくても頻繁にダウンするのに、こんな中ではメンタルダウンも激しかった。

仕事でもプライベートでもプラスアルファで向き合わなければならないことが多く、気力が出ない、エネルギーが足りない云々と目を逸らしてしまう自分への罪悪感が、しんどさに拍車をかけた。

職場では先輩と話しながら、先輩の言葉に刺激されて、感情が昂って泣いてしまった。完全にキャパオーバーしていた。
職場や学校(に限らずだが)で、堰を切ったように涙が溢れ出すのは今回が初めてではない。だからもうそういう自分に驚くこともないし、
「あぁまた今回もこういう感じなのね、あなた。はいよ!」
と自分に思ったし、自分はこういうふうにしか出来ないのかと半ば諦めの心境。ある意味泣いている自分を思い切り突き放していて冷静だった。

ただその割には小出しに吐き出すやり方を知らな過ぎるのだろう。
もう何年も前からこの問題については繰り返し頭を悩ませており、それなのにストレス解消法も、生き抜く術も、仕事を減らすことも上手くならない。

時間はどんどん過ぎていくのに、「私は何もやってない」と強く思ってしまう。

だったら行動しよう!というお言葉は聞き飽きている。身体も頭も心も動かない、ということがあるわけで。基本的に仕事中は朝から夕刻近くまでノンストップ過集中でパワーを使い果たしてしまい、次にまた取りかかる時に億劫に感じたりする。それがわかっているならどうにかしたいが、どうにかする方法を考える余力も残っていない。

同僚の誰それはもっとやっている、私よりスパスパ捌ける、という焦りとプレッシャーにずっと苛まれていった。

今日一日頑張ったこと、よかったことを振り返る時間、久しぶりに作ってみたほうが良いんだろうなと思ったものの、それも続いていない。

こう書いているとただただ凄くダメ人間みたいじゃないか。



そんな日々の中でも、なんだかんだ色んなところに行っていた。


大好きなバレエダンサー2人が、珍しくペアを組むということで、この廃れた気持ちを幸福感で上書きするべく2人の主演舞台に通い詰めた。
そこでも感情を揺さぶられる出来事があった。

詳細を説明することは避けるが、バレエは瞬間の芸術で、バレエを鑑賞するという行為は、一瞬の生の灯火が爆ぜるか否かを目撃しに行っているようだと、言葉通りに感じる出来事となった。
超人のように見えるダンサーも人間で、毎日の鍛錬の末に私たちが触れる舞台があり、音楽と戯れるような舞踊や、それによって紡ぎ出される豊かな瞬間はそう簡単には生まれない。

バレエを長いこと観ていると、どうしてももっと奇跡的な瞬間を観たい、想像の範囲を超えてくるものを観たいと欲が出てしまい、最近はあまりバレエの舞台に満足することができなくなっていた。
舞台も、観客の感情も、演者の感情も、その時限りのもの。2度と同じ状況は起きない。
そんな奇跡などそう簡単に起きるものではない。しかしいつ起きるかわからないから何度も立ち会いたいと思ってしまい、そうすると新鮮さを失ってしまう。ジレンマだ。

この満足できない感覚に嘘をつきたくはないし、もしかしたら自分の価値観の変化が要因かもしれない。
舞台で満たされても、翌日にはその潮は引いてしまうことも多々ある。(これはバレエ以外の出来事でもそう。)
刹那的なことや一過性のものばかり信じていて、信念のような一貫した継続性のある気持ちが近頃の自分には全然ないなと思う。年々飽き性度合いが増している。そんな自分にうんざりする。

難しい。


また全く別の観点だが、悉く自分は自分のことしか考えられない人間だと突きつけられた。

相手のことを想像すればするほど、何が相手にとってパワーになり、逆に負担になるかがわからなくなった。
でも結局、自分が相手に何かしたい!感激の気持ちを伝えたい!という欲求をキャンセルすることはできなかった。

大好きで応援しているダンサーおふたりの舞台が無事に行われること、更にその舞台で心が揺さぶられること。それは本当の意味で奇跡的なのだと感じた時、そのことに感謝したくなったし、心から敬意を示したくなった。

だけど観客は、拍手で伝え続けるのが一番良いのだろうなと思う。


自身に対するモヤモヤを解消できないまま、また日常に身を浸すしかなかった。



2週間後には沖縄に居た。

沖縄の海の中で遭遇したアオウミガメのことが忘れられない。
物理的に至近距離で見たわけでもないので、あの姿をはっきりと捉えられていたのか、自信がない。
その時の衝撃で思い出を美化してしまっているとは思うのだが、あの存在が深く私の脳天に刻まれた気がしている。

おおらかにゆったりと手を動かして泳いでいる。かと思えば、ひと掻きで想像しているよりもずっと遠くへ進んでしまう。必死に追いかけようとしている内に、その姿は海の暗い方へと消えてしまった。

あのカメは何を考えて、何を思って、日々何を楽しみに生きているのだろうか。そもそもカメに思考や感情はあるのだろうか。

そう思って調べてみると、基本的なレベルに限定されるものの、学習能力や認知機能を持ち、恐怖や快適さなどの感情も持つことがわかった。更に、繁殖期以外は単独行動をし、基本的に餌や休息場所の確保も孤独に行うようだ。


広くて深い海の中で、身体を覆う水と一体となって進む様だけが、ただただ眩かった。


最近、無職だった期間のことをふと思い出して恋しくなる。
あの時は金銭的にきつかったから、その面では二度とごめんだけど、でも手の届く範囲の中で生活を楽しみ、限りなく穏やかに、機微を捉え、内省しながら日々を営んでいた。

だけど最近は人間を辞めたくなることがある。
余計なことを沢山考えて、誰かを傷つけ、誰かに傷つけられ、プライドが自分を邪魔し、かといって身体がもたなかったりする。ぐだぐだ悩む。

陸地で、資本主義界の人間の隙間を生き抜くために、金を稼ぎ、金を稼ぐ中で他の人間と付き合わなくてはならず、不得手なことも乗り越えざるを得ず、身体も心も無理させる時だってある。

誰かを尊敬したり、向上心を持ったり、そういう感情は人間特有の素晴らしい財産だけど、それすらどうでもいいなと思ったりすることがある。あまりに疲れ過ぎているのかもしれない。もっともっと穏やかに生きることはできないものか。

人間には少なからず社会性というものが備わっているけれど、それでもこの社会というものからさっさと離脱してしまいたくなる。


無職の期間を終えて、今の家に住み始めてちょうど1年が過ぎた。

隣の芝が青く見えるかの如く、あのカメのようになりたいと思う日がある。それは、この「人間」を捨てられない者が勝手に思い描き判断しているカメの一部にしか過ぎないのだが。



より強い刺激への欠乏感にモヤモヤしたり、穏やかな日常を求めたりを繰り返していたら、30歳になって早数か月が経過していた。

刺激を外に求めるのは不健全な気がしてきている。エンタメをサブスクで一気に消費したり、SNSで言葉を消費したり、コンビニ飯で食べ物を消費するように、味わい深く過ごす時間というのがどんどん無くなってしまう。
もっと刺激が欲しい、もっと驚くべき舞台を観たい‥‥。そんなふうにしていても、ただ消費者の視点にしか立てていなくて、満足できないことに対しても外に不満を持つだけで終わってしまう。
それは健康的ではない。
自分が本当に力を尽くしてみたい!と思えることに、じっくりゆっくり没頭する時間を設けたい。


また、もっと余裕を持ちたい。心にも体調にも余裕を残しておけば、豊かに感じたり、味わったりすることももっとできるのではないかと感じる。無為に過ごす時間が増えるということは即ち、思考停止するほど疲労しているということであり、思考停止すれば自分が何を感じて今日を生きたかもわからなくなる。そもそも感じられているのかすら怪しくなる。心を亡くしてしまうのはもう嫌だな。


とにかく、毎日が楽しいな、と思える日を1日でも多く増やしていきたい。結局何年も同じような目標を立てているのかもしれないが。


半年近く放置した散らかり切った部屋。茹だるような暑さの中、急に片付けたい衝動に駆られた。掃除をし、山脈状態になっていた洗濯物たちを畳んだら、非常にスッキリした。
清々しい気持ちで帰省しながら、今後の生き方について考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?