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クルアーンのみに基づくイスラム実践  (其の二)

はじめに

 本題に入る前にまずは前回のおさらいをしたい。

 このシリーズの主題であるクルアーン主義とは、筆者が編み出した持論でも独自解釈でもなく、クルアーンの明確な記述のみに従い、外伝の影響を排したクルアーン理解およびそれに基づく立場というシンプル極まりないものだ。

 重要なので繰り返したい。クルアーン主義そのものは、筆者個人のつくった主張や解釈ではない。確かに日本ではこれまで殆ど知られてなかったが、もともとイスラム圏の言語または英語で “Quranism” “Quran only” などのキーワードでネット上を検索すれば容易に見つかるものだ。クルアーン主義そのものは、クルアーンの啓示と同時に始まった思想なのである。

 クルアーン主義的見解を紹介するやいなや、いわゆる一部の強権派から連日執拗なバッシングを受けるハメとなった。こうした強権的な原理主義者らは自分たちの信条・伝統に反する一切の異説を認めないし、受け入れようともしない。筆者は図らずして日本の強権的な原理主義者たちを暴き出してしまったのであるが、忘れて欲しくないのは、これはイスラム史の最も初期から受け継がれてきた輝かしい思想であり、実践に他ならないということである。このシリーズでは、そこを徹底検証していく。

イスラム実践の源流を辿る

 では本題に入る。まず少し想像してみてほしい。ムハンマドの死後、どういった経緯から本来禁じられていたはずのハディースが収集され、それを元にシャリーア法が構築され、「二次的啓示」として預言者のスンナが人々に認知されるに至ったのかを。前回も述べたが、ムハンマド没後、聖典としてのハディースが正式に書物として出回るまでのおよそ230年以上にわたり、はたしてイスラム圏はそれまで何をもとに信仰を堅持し、イスラムの実践をしていたのだろうか。

 結論を言おう。

 イスラムの実践行為はアブラハムの慣行を元とするものに他ならない。そう、イスラムの実践をもたらしたのは預言者ムハンマドではないのだ。イスラムの実践は、ムハンマドの誕生よりも遥か昔から、アブラハムによって既に確立されていたのである。

 言い換えるなら、イスラムの実践における宗教的義務行為は、クルアーンの啓示と共にムハンマドにもたらされたものではなく、全てアブラハムの時代から脈々と現代まで受け継がれてきたものなのである。ムハンマドが新たに導入したイスラムの崇拝行為は、シャハーダ、礼拝、断食、喜捨、巡礼を含め、一切存在しない。

 ムハンマドの使徒としての唯一の役割は、そうした情報を確証するクルアーンの啓示を伝播することだけであることは、クルアーンにおいて明示されている。

使徒の任務とは,正に啓示の伝達に他ならない。
(5章99節)
あなたの任務は啓示の伝達に他ならず,
清算はわれの行うことである。
(13章40節)
もし彼らが背き去っても,
われは彼らへの見張り人として,あなたを遣わした訳ではない。
あなたの任務は啓示の伝達のみである。
(42章48節)

 こうした情報がクルアーンとして啓示され、確証された上で、ムハンマドの時代に完全な規範として完成に至ったのだ。

今日われはあなたがたのために,あなたがたの規範を完成し,
またあなたがたに対するわれの恩恵を全うし,
あなたがたのための規範として,イスラームを選んだのである。
(5章3節)
かれこそは,導きと真理の規範をもって使徒を遣し,
たとえ多神教徒たちが忌み嫌おうとも, 
すべての規範の上にそれを現される方である。
(9章33節)

「イスラム」=「アブラハムの信条に基づく実践」

 イスラムにおける、いわゆる「六信五行」と呼ばれる信条の内、シャハーダ・礼拝・断食・喜捨・巡礼といった「五行」とされる実践は、全てアブラハム由来であることがクルアーンから判明する。

そこでわれはあなたに啓示して,
「純正なアブラハムの信条に従え」と(告げた)。
(16:123)
アッラーに真心こめて服従,帰依し,善い行いに励み,
純正なアブラハムの信条に従う者以上に優れた者があろうか。
(4章125節)
彼らは言う。「あなたがたは正しく導かれたいならば,
ユダヤ教徒かキリスト教徒になりなさい。」
言え。「いや,わたしたちは純正なアブラハムの信条に従う。
かれは,多神教徒の仲間ではなかった。」
(2章135)

 アブラハムは、カアバ神殿の基礎を築き上げて礼拝の方角が定められた後、ムスリムとしての実践方法を示すよう、神に祈っている。そしてその後、巡礼などの実践を人々に説くよう命じられている事実をクルアーンは示す。

われが人々のため,不断に集る場として,また平安の場として,
この館(カアバ)を設けた時を思い起せ。(われは命じた。)
「アブラハムの立った所を,あなたがたの礼拝の場としなさい。」
またアブラハムとイシュマエルに命じた。
「あなたがたはこれを回巡(タワーフ)し,御籠り(イアテカ―フ)し,
また立礼(ルクーウ)し,拝跪(サジダ)する者たちのために,
わが館を清めよ。」
(2章125節)
アブラハムとイシュマエルが,(カアバの)礎を定めた時のこと。
(二人は言った。)「主よ,我々(の奉仕)を受け入れて下さい。
本当にあなたは全聴にして全知であられる。
主よ,我々両人を,あなたに帰依する者(ムスリム)として下さい。
またわたしたちの子孫をも,あなたに帰依する民(ウンマ)として下さい。
わたしたちの崇拝の実践を示してください。」
(2章127〜128節)
(アブラハムよ、)人々に巡礼(ハッジ)するよう呼びかけよ。
彼らは歩いてあなたの許に,またはあらゆる運輸手段を用い,
遥か遠方より到来する。
(22章27節)

アラブ王朝時代が及ぼした影響

 ところが、クルアーンの述べるこうしたアブラハムの慣行ではなく、ムハンマドの慣行(スンナ)を、彼自身の遺志に反して伝統権威化し、それを巧みに政治利用してしまった勢力が現れた。アラブ人部族のみが正統な支配権を持つと主張し、それを制度化(カリフ制)し、支配下のムスリム共同体を「スンナ教団」化させた勢力である。それはムハンマドが属したクライシュ族出自の権威者らだ。これらクライシュ族系の氏族であるウマイヤ家(ウマイヤ朝)とそれに続いたハーシム家(アッバース朝)は、661年から1258年に至るまでの約六百年間に渡り、「イスラム帝国」として「イスラム」圏の拡大・統治に努め、その教義を伝播した()。

 まずクーファのムスリム共同体に対抗し、ダマスカスに本拠を置いたウマイヤ朝であるが、いわゆる正統カリフに対して武装蜂起し、カリフ位を簒奪した反乱王朝である彼らは、その支配に歯向かうものは同じムスリムであれ一切容赦しなかった。彼らはウマイヤ朝の宗教的権威と正当性を認めないメディナの民を虐殺・略奪し(683年ハッラの戦い)、さらにメッカを侵略しカアバ神殿を二度に渡り破壊(683年/692年メッカ包囲戦)することをも厭わなかった。このような圧政を敷く勢力が歴史を歪曲し、自らに都合の良いハディースを捏造しないほうが不自然である。

 アッバース朝では一時の繁栄を謳歌したものの、統治者であるカリフが腐敗を極め、神権政治を行うようになり、宗教弾圧や公式教義の制定など、独裁宗教国家としての硬直化が始った途端、イスラム世界全体が衰退を始めてしまう。これらウマイヤ朝・アッバース朝を発端とするスンナ派・シーア派などのハディース主義者らが、イスラムを「ムハンマドの宗教」に仕立て上げた黒幕なのである。

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 ウマイヤ朝・アッバース朝時代に起源を遡る伝統的スンナの教えは、その後も惰性的に、神学者や法学者らがハディースを元にシャリーア法体系を構築し、伝統として培われ、現代まで継承され続けてきた。そうしたシャリーア法体系は、もちろん預言者ムハンマドの時代には存在しなかったものである。クルアーンに厳密に則してない限り、これはもはや神の法と言うよりかは、人定法と言っておいた方が正確である。

 他宗教においても、預言者や教祖とされる人物の教えが、その死後に時を経て著しく改変されてしまう事例は、仏教やユダヤ・キリスト教などを見ても顕著だ。例えば神の存在を否定し「空」の概念を説いた仏教の始祖ゴータマ自身、後に偶像化され崇拝対象となっているし、イエス・キリストも自身の神格性を明確に否定したものの、結局は人々によって偶像・神格化され崇められるに至った。二人とも、自身が説いた教えとは正反対のものが、後の追従者により正統教義とされてしまった好例である。

 イスラムの最も際立つ特色とは、神の唯一性への飽くなき追求心であり、それ以外の宗教的権威や偶像的存在の一貫的な排除姿勢である。ユダヤ・キリスト教においても、特に口伝律法の「タルムード」や使徒伝承の「正伝」などの外典を付加した上で、聖職者らがそれを正統的かつ権威的教義として認定するところは、真正ハディース集と伝統派ウラマーの果たした関係性や役割と酷似する。こうした他宗教の影響と思われる部分の詳細は次回述べたいと思う。

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ハディース主義派らによる反論

 クルアーン主義的観点から見るなら、スンナ派やシーア派は、過去の一神教徒の轍を踏み、聖典化させた外典を啓示に対して混入させてしまった結果、イスラムを特定の時代・解釈に束縛される、中世的伝統宗教に収斂させてしまっている。そしてそれは厳密かつ客観的に見るなら、もはやクルアーンの説く規範や枠組みからは逸れてしまったものだ。以下の章句を読むと、クルアーン主義を掲げるムスリムにとっては、彼らを同じ啓典を認める「啓典の民」と認識し、相手にしない方が得策なのかもしれない。

実に,アブラハムに最も近き者たちとは,
彼とこの預言者(ムハンマド)に追従する者たち,
そして覚知する者たちである。
アッラーは,覚知する者たちを護るのである。
啓典の民の一派は,あなたがたを迷わせようと望む。
だが彼らは自分自身を迷わすだけで,自らはそれに気付かない。
啓典の民よ,なぜアッラーの章句を拒否するのか。
あなたがたは(自ら)その証人ではないか。
啓典の民よ,あなたがたはなぜ虚偽で真理を覆い,
(悪いことと)知りながら真理を隠すのか。
(3章68〜71節)

 なぜかというと、SNS上ではクルアーン主義に対し、それを新奇な異端説あるいは「宗教的刷新(ビドア)」であると非難したり、偽善者・偽ムスリム(ムナーフィク)、背教者(カーフィル)呼ばわりし、攻撃的な言葉で排除を試みる輩が散見されるからである。彼らの執拗な粘着と憎悪に満ちた行為は、「異端」に対するスンナ派の態度をよく表しているが、そうした精神性はハディースに由来するものだ。

 以下はスンナ派において非常によく知られた、宗教的刷新(ビドア)の悪質性およびそれが地獄の業火へとつながることを主張する代表的ハディースである。

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ハディースという名の「宗教刷新(ビドア)」

 ビドアという語彙自体、クルアーン内に存在しないことは言うまでもないが、面白いのは彼らがクルアーンに基づいた考え方や実践をビドアと呼ぶ点である。そしてムハンマド本人にしてみれば、およそハディース級の「ザ・ビドア」もないはずである。23年間の年月に渡り啓示され続けたクルアーンの記録との混同がないよう、ハディースの記録を禁じていたムハンマド本人にとってみれば、全く謂れのない言動を勝手に捏造・記録され、それを後世にまで残されてしまっては、それ以上の名誉毀損と宗教的刷新も無かろう。ちなみにアラビア語の「ハディース」には「新たなもの」という意味合いがあることも周知されるべきだろう。クルアーンの中での使われ方もハディース=「新たな奇説・言い伝え」の意味合いが強い。

 皮肉なことに、ビドアを忌み嫌い、「ビドアの民は異端者だ」「地獄行きだ」と息巻く彼らハディース主義者らこそが、このビドアに陥っているという自己矛盾に陥っている事実を、果たして彼らが自覚できる日はやってくるのだろうか。灯台下暗しとはよく言ったものである。

 想像力をもう少し働かせてみてほしい。ムハンマドは神の唯一性を証言し、自身の人間性を強調し、人類の平等性を訴え、神以外に何一つ並べてはならないと説いたのに、後世のアラブ至上主義者らが権力正当化のため、その血筋を誇示し、利用したとすれば、彼は心底落胆しないだろうか。彼ら権威主義者らの影響で、何百年も伝統を頑なに守るムスリムたちが、礼拝中に神に自分の名を並べ、そして語りかけてくる行為(タシャッフド)に対し、ムハンマド自身は一体どう感じるだろうか? 伝統派は、ムハンマドが教友たちに礼拝作法を教える際「ここの部分では、私にこういう風に語りかけよ」と命じたというのだろうか。

 では、前置きが長くなり過ぎてしまったが、本稿の主題である、クルアーンのみに基づいた崇拝行為の実践について見ていこう。

預言者たちの真のスンナとは

 現実的にはクルアーン主義者たちの中にも様々な解釈があり、見解が統一されているわけではない。繰り返すように、クルアーン主義は党派としてまとまっているわけではなく、神の啓示を正しく理解し実践しようとする、あらゆる党派から独立した思想・立場である。伝統派がやるように、人工的に創作されたハディースの伝える意味と擦り合わせようとしたり、それと矛盾のないよう整合性を保たせるために伝統的クルアーン注釈書「タフスィール」を採用したりすることはない。

 誰にでもわかるように明確な表現で紐解かれた啓示は、注釈書を必要としない。クルアーンを「神が教える」(55章1〜2節)通りに、その直接的理解、あるいはクルアーン内のクロスレファレンスにより、その内容に忠実な「アブラハムの信条」の実践、すなわち「預言者たちの真のスンナ」を見極めようとする試みがクルアーン主義の目指すところなのである。

(言え。)「どうしてわたしがアッラー以外に裁きを求めようか。かれこそは,詳細に説明された啓典をあなたがたに下された方ではないか。」
(6章114節)
われはまさに啓典をかれらに下し,知識によって詳しく述べた。
(7章52節)
これは全知全能者により,
その章句が完成され、解明された啓典である。
(11章1節)
知識ある民のため,その章句が解明された啓典が,
アラビア語のクルアーンである。
(41章3節)
このクルアーンは,アッラー以外によって捏造されたものではなく,
それ以前のもの(諸啓典)への確証であり,
全世界の主による疑惑の余地なき啓典の解明なのである。
(10章37節)
これは捏造されたハディースではなく,
以前にあったもの(啓典)の確証であり,
凡ゆる事象の詳細な解明であり,
また信仰する者への導き,慈悲ともなる。
(12章111節)

 ではクルアーン主義者における、最も中庸でバランスの取れていると思われる実践について紹介していきたい。

クルアーンのみに基づく実践例

 まず、礼拝、断食、喜捨、巡礼などの崇拝行為は、上述した通り、ムハンマドが新たにもたらしたものではないという事実を再確認しておきたい。ムハンマドにより始まった行為でも、ムハンマドがそれをハディースで説明するためにスンナを残したわけでもない。

 これらの宗教行為はアブラハムの時代から続いてきた慣行なのである。つまりムハンマド生誕前から、アラブ社会で広く行われてきていたものだ。それゆえ上述の16章123節では、ムハンマドに対し、アブラハムが伝えた信条に従うよう告げるのである。

・礼拝

 礼拝の方法に関し、クルアーンが言及することは、まず礼拝前に水で身を清めること(ウドゥー)、方角を定めること(キブラ)、直立姿勢(キヤーム)から始めること、その中でクルアーンを誦むこと、深く腰を屈め(ルクーウ)、地に額をつける(サジダ)こと迄である。基本的な所作は、世界中のムスリムが行う礼拝と全く同じである。ノンムスリムから見れば、伝統派のそれと区別はつかないであろう。

 肝心なのは、伝統派によって広められている礼拝から偶像崇拝的影響を排除することだろう。最も重要なところとしては前回指摘した、ムハンマドへ直接挨拶しつつ神の名にムハンマドを並べる証言「シャハーダタイン」、そしてムハンマドへの祝福祈願を唱える「サラート・アラン=ナビー」、その次に神以外への挨拶「タスリーム」をしないことだろうか。幸いなことに、それらは一部スンナ派においても義務ではないため、省いたとしても彼らの枠組みの中(少なくともハナフィー派)で礼拝が無効とされることはない。

 以上のことから、クルアーンのみに基づいた礼拝をする場合、ハディースによって組み込まれた、クルアーンに反する言動や要素を排除することをまず第一に意識すべきである。これにより、本来の崇拝対象への意識がより高まるのではないだろうか。

 だいたい、アブラハムの時代から継承されてきた崇拝方法を、ムハンマドが勝手に脚色したりするだろうか。ハディースによればムハンマドは「私が行う通りに礼拝せよ」と教友たちに命じたそうだが、彼は自分に対して語りかけ、祝福祈願(サラート・アラン=ナビー)せよと教友たちに命じたりしただろうか。

 ところでスンナ派をやめてクルアーンのみに基づくイスラムを実践しようとする場合、その人にとって問題となるのはおそらく礼拝の中の反復動作(ラクア)の回数だろう。クルアーンはその回数に言及しないが、以下の節から七節(第1章アル=ファーティハ)を唱える行為を対(二回)として行うとみなす見解もある。

われは二対の「七」(節のアルファーティハ章)と,
偉大なるクルアーンをあなたに授けた。
(15章87節)

 また礼拝そのものの回数についても、一日三回説と五回説がそれぞれ存在するが、本稿では五回説を採る。

 前回も見たとおり、礼拝方法はハディースをベースとした「シャリーア法学」の構築とともに、中世以降は各宗派独自の所作が追加されている。筆者は現在、暫定的にこれまで行ってきた礼拝所作と回数を続けているが、「シャハーダタイン」「サラート・アラン=ナビー」に関しては真っ先に排除し「シャハーダ」のみとしている。集団礼拝時での最後の「タスリーム」は、一人での礼拝時は行わず、集団礼拝時にのみ、後続者へ礼拝の終了を知らせる合図として行っている。ハディースに則らない礼拝方法は「誤って」おり、「イスラムではなく」、「不埒な」「異端者」がやるものだという考え方や、それにより「地獄に落ちる」というクルアーンとは無縁な強迫観念から脱却し、積極的に偶像崇拝的要素を排除していかなければならないと思う(上述の礼拝所作のクルアーンにおける典拠については、本稿の末尾参照)。

・断食

 ラマダン月の斎戒期間については伝統諸派と異なる部分はない。ただしラマダンの開始や終了を判断する新月観測についてはクルアーンにその根拠を見いだせない。月周期の計測法は紀元前から確立しており、極めて高い精度で予測可能である。新月の目視による決定は、毎年ラマダン明けのイード祭などをめぐる党派主義的な論争や分裂が巻き起こる原因でもある。

信仰する者よ,あなたがた以前の者に定められたようにあなたがたに斎戒が定められた。…(斎戒は)定められた日数である。だがあなたがたのうち病人,または旅路にある者は,後の日に(同じ)日数を(斎戒)すればよい。それに耐え難い者の償いは,貧者への給養である。…ラマダーンの月こそは,人類の導きとして,また導きと(正邪の)識別の明証としてクルアーンが下された月である。それであなたがたの中,この月(家に)いる者は,この月中,斎戒しなければならない。病気にかかっている者,または旅路にある者は,後の日に,同じ日数を(斎戒する)。アッラーはあなたがたに易きを求め,困難を求めない。…あなたがたは斎戒の夜,妻と交わることを許される。…また自糸と黒糸の見分けられる黎明になるまで食べかつ飲め。その後は日暮れまで斎戒を全うしなさい。…このように アッラーは,人びとに印を説き明かされる。(2章183〜187節)

・喜捨

 伝統諸派によれば、浄財となる喜捨(ザカート)は年に一度だけの支払い義務があり、資産の種類によって率が異なるため、正確なザカート額を知るためには、各宗派の法学的見解を参考にする必要がある。

 こうした年に一度の考え方はハディースベースであり、2.5%の率も王朝によって臣民に課された税率の可能性が高い。それは伝統的な最低額であるとみなすべきで、そこにこだわる金持ちはもはや慈善家ではなく吝嗇家である。もちろんクルアーンにそうした定めはない。率は任意であり、金銭を含めた自らの所有する富を他者に分け与えて浄化する慈善行為(ザカート)は、継続的に行うべき重要な義務行為なのである(6章141節、7章156節)。貧者や困窮者への金銭的な施しの額も固定されておらず、クルアーンのガイドライン(2章219節、17章29節)に基づいた個人の判断に委ねられている。

・巡礼

 巡礼期間はズル=ヒッジャ、ムハッラム、サファル、ラビーウル=アウワルの四ヶ月間に渡る(2章189節・197節)ことをクルアーンは明記する。伝統諸派によるズル=ヒッジャ数日間限定の旅は、ハディースベースである。このやり方は世界中から数百万人規模で巡礼地メッカに殺到する現代ではかなり無理があると同時に非常に危険であるし、巡礼中に一度に数百人レベルが将棋倒しで圧死することも珍しくない。カアバ神殿そのものや、そこに埋め込まれている黒石を拝んだり、キスしたり、その扉にぶら下がる行為もあからさまな偶像崇拝である。

・食規定

 ユダヤ食規定に基づく「コーシェル認証」を真似て、「ハラール認証」がなければ口にできないという風潮が広まりつつあるが、ムスリムが基づくべき基準はクルアーンのみである。

あなたがたに禁じられたものはただ,
死肉,血液,豚肉,およびアッラー以外に捧げられたものだけである。
しかし,誰でも自ら求めず,また限度を超えず,
必要に迫られたのならば,罪はない。
本当にアッラーは,寛容にして慈悲深い御方である。
(2章173節)

 クルアーンによるなら、以下の四基準に該当するもの以外は全てハラールである。また必要に迫られて食す場合に罪はない。至極シンプルである。

 1. 死肉(自然死・事故死などの既に死んだ状態の動物)
 2. 血液(流血の摂取)
 3. 豚肉
 4. 偶像へ供えられた肉

 飲酒に対してはそれを直接禁じる記述はないものの、それは「大きな罪」かつ「穢れた悪魔の行い」であり、酩酊した状態で礼拝をしてはならないこと、それがお互いの憎悪と敵意を煽ること、またその有益性よりも有害性の方が高いため「それから遠ざかる」ことを命じている(2:219, 4:43, 5:90-91)。

 資本主義に乗っかり、ユダヤ教起源のコーシェル認証モデルを採用したビジネスマンらは、もともとハラールな食物だけでなく、飲料水や電化製品にまで高額な認証やコンサルテーション費用を課し、莫大な金を稼ぎながら「認証がなければ消費できない」と多くのムスリムに強迫観念を植え込んでいる。

・ヒジャーブ

 一般的にヒジャーブと呼ばれる頭髪を覆う頭巾は、古代より続く、ユダヤ・キリスト教、そしてアラブへと継承された伝統である。中東地域では女性だけでなく、男性も伝統的民族衣装として直射日光や砂塵を防ぐために頭巾・ターバン等を着用する。クルアーンにおいて登場する「ヒジャーブ」の語彙は「ベール」「カーテン」「障壁」などを意味する。これはクルアーンにおいて計七回(7:46, 17:45, 19:17, 33:53, 38:32, 41:5, 42:51)登場するが、女性の頭髪を覆うスカーフの意味合いを持つ場面は一つもない。

 以下のようにクルアーンで述べられる女性の服装規定は僅か二点である。

 1. 胸部を覆う
 2. 長衣の着用

覚知する女性たちに言え。伏目を心がけ,貞淑を守る様に。
露わになる部分以外は,色気を際立たせない様に。
そして胸部を覆う様に。
(24章31節)
預言者よ,あなたの妻,娘たち,また覚知する女性たちにも,
長衣を着用するよう告げよ。
それで認められ易く,悩まされずに済むであろう。
(33章59節)

 女性の頭髪を完全に覆うことが本当に宗教的義務であるなら、クルアーンの中ではっきりと何ヶ所にも渡り述べられているはずだ。疑念の余地が一切残らぬよう、重要な事は何度も繰り返すのがクルアーン全編に一貫したスタイルだが、そうした記述は一切ない。上記24章31節では胸部を覆うよう求めるが、ここで使用される語彙は「覆い」を意味する語根「Khamr」の複数形名詞「Khumur」であり、「ヒジャーブ」も「頭部」も「頭髪」も一切言及されない。

 クルアーンで述べられる女性の服装規定は、上記のように二点のみに集約される。伝統的な衣服を好む者もいれば、好まない者もいるだろう。それは状況に応じて臨機応変に使い分けるべきであり、宗教と伝統は完全に切り離されるべきである。女性がスカーフを着けたり顔を隠したりしたいのであれば、それは個人の判断に任されるべきだろう。クルアーンでは信教の自由と、宗教に強制は一切無いことが大前提として明記されているのだから。

 中東の気候や文化に則した伝統的衣装に宗教性を帯びさせ、神の命令ではないものを強要し、それが神の命令であると偽るだけでなく、合法・非合法性を恣意に決め、あたかも自らが神であるかのように振る舞う行為は、明確な涜神行為かつ偶像崇拝ではないだろうか。

アッラーの(道の)ために,真に努力しなさい。
かれは,あなたがたを選ばれる。
この教えは,あなたがたに苦業を押しつけない。
これはあなたがたの祖先,アブラハムの信条である。
かれは以前も,またこの(クルアーン)においても,
あなたがたをムスリムと名付けられた。
(22章78節)

イスラムはサステナブル

 さて以上を読んだ感想の一つに、「なんだクルアーンが詳細を網羅するとか言っときながら〇〇学派みたいな細部の説明がスッポリ抜け落ちてるじゃないか」と思われた方も多いだろう。筆者はそういう伝統至上主義的考え方を「スンナ脳」と呼びたい。これこそがカルト的な思考回路に毒されてしまった証拠である。クルアーンが完全であると主張する以上、それで完全かつ十分、満足すべきではないだろうか。それ以上を求めること自体が不遜であり、良い加減その傲慢さに気づいた方が良い。前回も述べたが、イスラムの神髄とも言える部分はそこでは無いはずである。

   またいくら強調しようとも、筆者がスンナ派から分派し、何やら奇抜な新宗派を始めているふしを疑う人々も一定数存在するようだ。マジョリティを「正統派」と信じ込む、あまりにも軽薄ではあるが強い思い込みと、民族的アイデンティティとも結び付きが深いことから、ハディースを神の啓示として受け止める彼らにとって、自らの盲点に気付き発想の転換に至ることはなかなかハードルの高いことなのだと思われる。

 またクルアーン主義により、「自分勝手な都合の良い解釈」ができるようになると主張する者たちもいる。それによって「各々が独自の見解を持つだろう」「共同体がカオスに陥ってしまうじゃないか」「学者の長年に渡る知的努力の結晶であるシャリーア法体系を足蹴にするのか」などと大上段に構えて不快感をあらわにするのが彼ら伝統派の常である。これぞまさしくアンチクルアーンの極みである。ムスリムと称しておきながらクルアーンを馬鹿にするのはやめろと言いたい。だが、スンナ派やシーア派を始めとするハディース主義者らのいう「都合の良い解釈」というのは、単に彼らの置かれた立場からすると「都合の悪い解釈」であることの裏返しに過ぎない。

 また筆者は個人的な思いつきや気まぐれでスンナ派やハディース主義を否定している訳でもない。筆者もハディースの中に真実はあるかも知れないと思い、それに甘んじていた時期もあった。しかしいくら自己欺瞞で正当化しようとも、その矛盾性は自己の中で確執を深めるばかりで、結局はいつも八方塞がりの袋小路に闇堕ちしてしまうばかりであった。

 またクルアーン主義的解釈が100%正しいと言っているわけでもない。「より確からしさ」と「普遍性」のある解釈を追求した結果、辿り着いた最も確からしい一つの答えであり、それは蒙昧と頑迷を深めるハディース主義者らにとっての唯一の呼吸口であると確信するが、もしかしたらクルアーン主義的解釈の中にも間違いがあり、別の解釈が判明する可能性もあるかもしれない(それはもちろんハディースにはないのだが)。理性と論理を駆使した知的努力を惜しまぬようクルアーンは促すが、ハディース主義者らはどうも理性や論理、宗教的議論の類には全て蓋をし、徹底して封印してしまいたいかのように映る。

 フューチャリスト的観点から、長期に渡ってサステナブルなイスラム実践について鑑みた場合、偏向性と矛盾性を排したフレキシブルな解釈を可能とするのはクルアーン主義だけである。

   一方ハディースから汲み取られた伝統諸派の教義は、中世由来のテキストを厳密に適用してクルアーンを事実上上書きしてしまう。実際、彼らは傲慢にも「スンナがクルアーンを必要とするよりも、クルアーンはスンナを必要としている」と主張する程だし、たとえクルアーンの明示に反していたとしても、ハディースの記述を優先させるという教義を持つ。それは現代地球文明との摩擦を引き起こすだけでなく、非寛容と好戦性を引き出し、実践者の人格を破綻させる、極めて巧妙に仕掛けられた陥穽なのである。

 完璧なクルアーンを啓示したはずの全知全能の神が、ハディースのような捏造外伝が現れることを把握していなかった事などあり得るだろうか。人類への最終啓示を「あらゆる腐敗から必ず守る」とその中で宣言する神が、あえて外伝の入り込む余地を与えるだろうか。ハディース主義者らは、なぜクルアーンのなかで「ハディース」の語句を目にするやいなや、「ここのハディースは別の意味だ!解釈が違う!」と恣意的に歪曲して受け止めるのだろうか。

これらは,われが真理をもってあなたに読誦するアッラーの章句である。
では、アッラーがその章句を啓示した後になり,
一体いかなるハディースを彼らは信じるというのか。
(45章6節)

 結局のところ、クルアーンの本質を覚知し、ただそれのみを規範として受け入れる覚悟をクルアーンはムスリムに対して求めているのである。


本シリーズは其の五までを予定。
其の三 ムハンマド及びその子孫の偶像化問題 (仮)
其の四 ハディースの矛盾とその捏造の歴史(仮)
其の五 クルアーン主義のメリット・デメリット(仮)


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クルアーンの典拠

以下では参考のためクルアーンにおける礼拝関連の典拠を列挙する。

【前提知識関連の典拠】
礼拝義務は、喜捨と同時に言及されることが多い
・礼拝(サラート)の務めを守り,喜捨(ザカ―卜)をなし,立礼(ルクーウ)に勤しむ人たちと共に立礼しなさい。(2:43)
・われがイスラエルの子孫と,約束を結んだ時のことを思い起せ。(その時われは言った。)「あなたがたはアッラーの外に,何者をも崇めてはならない。父母に孝養をつくし,近親,孤児,貧者を親切に扱い,人々に善い言葉を語りかけ,礼拝の務めを守り,喜捨しなさい。」だが,あなたがたの中少数の者を除き,背き去った。(2:83)
・礼拝の務めを守り,喜捨をしなさい。あなたがたが自分の魂のためになるよう行ったどんな善事も,アッラーの御許で見出されるであろう。誠にアッラーは,あなたがたの行うことを御存知であられる。(2:110)
・「あなたがたの手を控えなさい。そして礼拝の務めを守り,喜捨をしなさい。」と告げられた者を,あなたは見なかったのか。いざ彼らに戦闘が命じられると,見よ。彼らの中の一派は,あたかもアッラーを恐れるように,人間を恐れ始める。寧ろそれよりも酷く恐れる。そして言う。「主よ。あなたは,なぜ私たちに戦闘を命じられますか。なぜ暫くの間,私たちを猶予されないのですか。」言ってやるがいい。「現世の歓楽は些細なものである。来世こそは,(アッラーを)畏れる者にとっては最も優れている。あなたがたは,少しも不当に扱われないのである。」(4:77)
・アッラーの(道の)ために,限りを尽くして奮闘努力しなさい。かれは,あなたがたを選ばれる。この教えは,あなたがたに苦業を押しつけない。これはあなたがたの祖先,アブラハムの信条である。かれは以前も,またこの(クルアーン)においても,あなたがたをムスリムと名付けられた。使徒はあなたがたのための立証者であり,またあなたがたは人々のための立証者である。だから礼拝の務めを守り,喜捨をなし,確りとアッラーに縋りなさい。かれは あなたがたの守護者である。何と優れた守護者,何と優れた援助者であることよ。(22:78)
・礼拝の務めを守り,喜捨をなし,アッラーに立派な貸付け(信仰のための散財)をしなさい。あなたがたが,自分の魂のために予め行う,どんな善いことも,アッラーの御許でそれを見い出そう。その(善行の)報奨は,最善にして最大である。あなたがたはアッラーの御赦しを請い求めるがいい。本当にアッラーは寛容にして慈悲深くあられる。(73:20)
・災いなるかな,礼拝する者でありながら,自分の礼拝を忽せにする者。(人に)見られるための礼拝をし,慈善を断わる者に。(107:1-7)

礼拝では神のみを祈念・追憶する
・(祈って) 言え。「私の礼拝と奉仕,私の生と死は,万有の主アッラーのためである。」(6:162)
・本当にわれはアッラーである。われの外に神はない。だからわれに仕え,われを心に抱き礼拝の務めを守れ。(20:14)

礼拝は人を醜行・悪事から守る
・あなたに啓示された啓典を読誦し,礼拝の務めを守れ。本当に礼拝は,(人を)醜行と悪事から遠ざける。なお最も大事なことは,アッラーへの弛まぬ意識である。アッラーはあなたがたの行いを熟知する。(29:45)

礼拝は生涯を通し継続する
・またかれは,わたしが何処にいようとも祝福を与えます。また生命のある限り礼拝を捧げ,喜捨をするよう,わたしに御命じになりました。(19:31)
・(彼らは)自らの礼拝を常々(守りつつ)行う者たち。(72:23)
・また礼拝を厳守する者。(72:34)

【実践関連の典拠】

クルアーン内に登場する名称は三つ。ファジル、ウォスター(ズフル+アスル)、そしてイシャー(マグリブ+イシャー)。その中で礼拝を捧げるタイミングは計五回。
・ファジルの礼拝前… イシャーの礼拝後…(24:58)
・太陽の傾き(ズフル)から夜のとばりが降りる(マグリブ)まで,礼拝の務めと,暁のクルアーン(ファジル)を守りなさい。(17:78)
・各礼拝とウォスター(ズフル+アスル)の礼拝を守れ。(2:238)
・礼拝は日照の両端(暁と日没),そして夜の一部(イシャー)に,務めを守れ。(11:114)

礼拝は男女共通の務め
・男の信者も女の信者も,互いに仲間である。彼らは正しいことをすすめ,邪悪を禁じる。また礼拝の務めを守り,喜捨をなし,アッラーとその使徒に従う。(9:71)

礼拝は冷静な心持ちで臨む
・覚知する者たちよ,あなたがたが酔った時は,自分の言うことが理解出来るようになるまで,礼拝に近付いてはならない。また大汚の時も,旅路にある者を除き,全身を沫浴した後でなければならない。またもしあなたがたが病にかかるか旅行中であり,または誰か廁から出るか,あるいはあなたがたが女と交わって,水を見つけられない場合は,清い土に触れ,あなたがたの顔と両手をなでなさい。(4:43)

礼拝は身を清めた上で臨む
・覚知する者たちよ,あなたがたが礼拝に立つ時は,顔と,両手を肘まで洗い,頭を撫で,両足を踝まで(洗え)。あなたがたがもし大汚の時は,全身の沐浴をしなさい。またあなたがたが病気にかかり,または旅路にあり,また誰か厠から来た者,または女と交わった者で,水を見つけられない場合は,清浄な上に触れ,あなたがたの顔と両手を撫でなさい。アッラーは困難を,あなたがたに課すことを望まれない。ただし,あなたがたを清めることを望み,またあなたがたへの恩恵を果される。(5:6)

礼拝では定方位を向く
・あなたの顔をマスジド・ハラームの方角に向けなさい。あなたがたは何処にいても,あなたがたの顔をキブラに向けなさい。(2:144)

礼拝は直立した状態から
・敬虔にアッラーの御前に立て。(2:238-239)

礼拝では啓典が読誦される
・あなたに啓示された啓典を読誦し,礼拝の務めを守れ。本当に礼拝は,(人を)醜行と悪事から遠ざける。そして最も重要なのは,アッラーへの弛まぬ意識である。(29:45)

発声は控えめな声量で
・礼拝の折には,声高に唱えてはならない。また(余り)低く唱えてもいけない。その中間の道をとれ。(17:110)

ルクーウからのサジダ
・覚知する者たちよ。ルクーウしサジダして,あなたがたの主に仕えなさい。(2:77)
・あなたは,彼らがルクーウしサジダして,アッラーからの恩恵と御満悦を求めるのを見よう。彼らの印は,額にあるサジダによる跡である。(48:29)

必要ならば短縮可能
・あなたがたが地上を旅する時,もし覚知しない者たちに,害を加えられる恐れのある時は,礼拝を短縮しても罪はない。(4:101)

礼拝を自らの家庭に課す
・またあなたの家族に礼拝を命じ,そして(あなたも),それを耐えなさい。(20:132)

合同礼拝
・覚知する者たちよ,合同礼拝の日の礼拝の呼びかけが唱えられたならば,アッラーを念じることに急ぎ,商売から離れなさい。(62:9-10)

ラクア数(反復回数)
※クルアーンは、礼拝における「ラクア数」を指定しない。全てのイスラム伝統諸派は最小単位として2ラクアの総意があること、全ての信者が毎日欠かさず行う最も頻繁かつ根本的な崇拝行為が礼拝であることから、ラクア数に限って言えばハディース的な歪曲の入り込む余地が少ないと思われ(以下の章句のクルアーン主義的解釈も踏まえ)、生きた実践としてこれまで正しく継承され続けた可能性がある。それでも一部のクルアーン主義者たちは現在広まっている形は伝統諸派の影響とみなして礼拝数やラクア数に拘らない様だが、アブラハムの伝統が改変されずに保持され続けていると仮定するなら、一日の礼拝回数及びそのラクア数は伝統諸派と共通させることが無難だろう。

われは二対の「七」(節のアルファーティハ章)と,
偉大なるクルアーンをあなたに授けた。
(15章87節)

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