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クルアーンのみに基づくイスラム実践  (其の一)

 全五回からなるこのシリーズでは、「ハディース」の影響を排し、クルアーンのみを用いたイスラムの実践が成立するのかどうかという点について、クルアーンの記述のみならず、ハディース主義者らの主張も交えて検証していきたい。

 まず今回は、「クルアーン主義」的な観点によるハディース主義(スンナ・シーア派の根本教義)の批判、そして古典的比較法学書「ビダーヤトル=ムジタヒド」(イブン・ルシュド著)に記された、ハディース主義者らによる実践行為の矛盾点などをクルアーンと照らし合わせていく。


ハディースなくしてイスラムは成り立つのか?

 クルアーン主義を標榜し、ハディース批判の立場をとるムスリムに対し、多数派であるハディース主義者(スンナ・シーア派)たちが真っ先に投げかける疑問の最たるものに、

 「ハディースによる説明なくして礼拝のやり方が分かるはずがない」といった、一方的な思い込みに基づくものがある。

 ムスリムにとって、礼拝のやり方は日々のイスラム実践における最も重大な関心事の一つである。一般信徒はその追従する法学派の枠組みの中で、過去の法学者らがハディースを通して導き出した見解に基づき、決められた文言を暗唱し、決められた動作を繰り返して崇拝行為をするからだ。

 しかしクルアーン主義的な立場から見るなら、ハディースは全く根拠のない、捏造された言い伝えに過ぎず、それに基づくイスラムは「本来のイスラムではない」どころか、ハディースには「他宗教から輸入された偶像崇拝的要素が満載である」と暴き出してしまうものだから大変である。

 自分たちが最もピュアかつ厳密な一神教を実践していると思い込む、スンナ派を始めとするハディース主義者らからすれば、それをトンデモ論だと捲し立てて大騒ぎするのは無理もない話なのだ。

権力者にとって邪魔な存在、クルアーン

 こうしたハディースを信奉するハディース主義者(スンナ・シーア派)たちは、現代イスラム圏において圧倒的マジョリティを占めている。そしてクルアーン主義という考え方は、その性質上、イスラム圏の支配者階級および聖職者層の持つ既得権益、そしてその正当性を根本からひっくり返してしまうポテンシャルを秘めている。

 クルアーンに加え、ハディースをも「神の啓示であり、聖典である」とする彼らハディース主義者らにとってみれば、クルアーンだけに立ち返る思想は自分たちの地位と名誉を脅かす「異端」的論理に他ならない。過去にはその提唱者に対する不信仰者認定(殺害の合法化=タクフィール)を通した徹底的な排除・収監・暗殺すらも行われてきた。

 イスラム圏でのこうした議論はタブーであり、正に命懸けなのである。

 さて下記のように、クルアーンのなかではクルアーンこそがイスラムを紐解く「完全」かつ「完璧」な唯一の啓示であり、それ以外の宗教的権威を並べてはならない、ということが幾度となく明言されているのだが、ハディースを少しでも批判しようものなら、スンナ派をはじめとするハディース主義者らは臆面なく「クルアーンは礼拝のやり方を説明しない」と猛反発し、アンチクルアーンな涜神発言を繰り返すのが常である。

啓典の中には一事でも,われが疎かにしたものはない。
(クルアーン6章38節)
どうしてわたしがアッラー以外に裁きを求めようか。
かれこそは,詳細に説明された啓典を,
あなたがたに下された方ではないか。
(クルアーン6章114節)
あなたの主の言葉(クルアーン)は,真実と正義において完全である
(クルアーン6章115節)

「アンチクルアーン」思想を隠そうともしないハディース主義者たち 

 実際、礼拝のやり方はクルアーンの中で十分に説明されているのだが(これについては次回、じっくり見ていく)、彼らがシャリーア法と呼ぶ伝統的ハディース学問に沿った彼ら好みの事細かな言い回しや瑣末な作法などが記されているはずもない。

 そうした背景から、伝統派の聖職者・法学者を始め、クルアーンを最もよく熟知するはずのハーフィズ(クルアーンを丸暗記し平信徒の尊敬を集める者)といった宗教権威でさえ、

 「預言者ムハンマドが我々のために示したハディースがなければ、礼拝その他の義務行為を実践することは絶対に不可能である」と断言する。

 だが、イスラムを「完全に解き明かす」クルアーンにおいてそれが語られていないということは、つまりそれは意図的に詳細が伏せられているということに他ならないのである。

 彼らはハディースがクルアーンを補足するものであるとし、その権威を持ち出すことにより、クルアーン自体が宗教的な手引書として不足・欠落したものであるとみなす。それに対するクルアーンの記述はこうである。

覚知する者たちよ,もしそれが明らかにされれば,
かえってあなた方を損ねてしまうような物事について尋ねてはならない。
クルアーン啓示の際にそのようなことを尋ねれば,
それは明示されてしまうだろう。
アッラーはそれらを恩赦したのである。
アッラーは寛容にして寛大である。
(クルアーン5章101節)

瑣末な詳細を求めるという大きな過ち

 これに関連し、クルアーンの2章67〜71節では、神による単純明快な命令に楯突き、形式張った細かい儀礼上のことを過度に気にし、論争を巻き起こした末、結局は道を踏み外してしまう古代イスラエルのユダヤ人にまつわる逸話も登場する。

 神に牛の屠殺を命じられたにも関わらず、彼らユダヤ人がその実行を躊躇したのは、エジプトでの奴隷時代、彼らが現地民の影響を受け牛を崇拝するようになっていたからである。こうした試練を課されたユダヤ人たちの教訓がクルアーンにおいて言及されているにも関わらず、崇拝行為の本質からかけ離れた形式的事柄を過度に気にするという過ちを犯してしまっているのである。

 ここから分かる通り、啓示に対する追加や更なる詳細を求める行為は、過去に古代イスラエル人がやらかした過ちの前例、そしてそこから汲み取るべき教訓としてクルアーンには言及済みなのである。

外典の混入による異教化

 礼拝その他の宗教行為のうわべの実践を求めて、形だけ従おうとするのは、そもそもクルアーンに対する確信が欠けている証拠である。神の唯一性への覚知と、クルアーンへの理解を疎かにし、それだけでは満足できず、他所から追加的要素を補おうとするから、権力者による典拠の捏造を許し、ハディースという外伝が介入してしまう余地を与えてしまったのではないのか。

 これと全く同じことは、過去に他の一神教でも起きたのだ。

 クルアーン以外の宗教的典拠を持つということに関し、アッラーがそれを「偶像崇拝」として厳しく戒めているという事実を、ハディース信奉者は一体どうやって釈明し、正当化するのだろうか?

(ムハンマドよ)言え。「何が至高の証言(シャハーダ)であるか」と。
「アッラーは私とあなたがたとの間の証言者だ。
このクルアーンが私に啓示されたのは,それによってあなたがたやそれが届く人々に警鐘を鳴らすためである。」と言うのだ。
しかしあなた方は正に,(クルアーン以外の典拠を掲げ)
アッラーに他の神々を並べて証言(シャハーダ)する。

(ムハンマドよ)言え。「私はそのような証言をしない。」「神は唯一である。私はあなたがたの偶像崇拝とは無縁である」と言うのだ。
(クルアーン6章19節)

 ハディース主義者らはクルアーンによる明示を頑迷に無視し、先祖代々伝えられてきた伝統や文化に固執し、マジョリティであることに慢心し、何があっても考え方を断固として変えないつもりなのだろうか?

かれらに「アッラーが啓示されたところに従え」と言えば,
かれらは「いや,わたしたちは祖先の残した伝統に従う」と言い放つ。
(クルアーン2章170節)

「シャリーア法」における礼拝作法の矛盾例

 では次に、スンナ派の初期法学者らがハディースを典拠として創作した、いわゆるシャリーア法の礼拝作法における矛盾点の例と、シャーフィイーの果たした役割についていくつか見ていこう。

・タシャッフド

 ここで、現代のスンナ派が礼拝中に唱えることを必須の義務とみなす、「タシャッフド」についてまず見ていきたい。タシャッフドは、以下の二つの要素で構成される。

①ムハンマドに対する祈祷を捧げた上で、自己の信仰を証言する「シャハーダタイン/Shahādatayn」
②ムハンマドとアブラハムの子孫に対する祝福祈願である「サラート・アランナビー/al-Ṣalāt 'alā al-Nabī」

上記①には、スンナ派の五行と呼ばれる最重要行為の一つであり、一般的に信仰告白とも呼ばれるシャハーダタインが含まれる。これは彼らによる宗教実践の根幹を成す、いわゆるイスラムの支柱であるのだが、なぜかその前にムハンマドに対する直接的な語りがけが行われる。そして上記②では、ムハンマドおよびアブラハムの家族・子孫への祝福祈願をする部分がある。
(タシャッフドの文言と意味に関しては下図参照)

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 このタシャッフドについてだが、比較法学書における古典を参照してみると、そもそもアブー・ハニーファマーリク・ブン・アナスといった初期スンナ派四大法学派の学祖たちですら、実はこのタシャッフドを礼拝における義務とはしていなかったのである。こうした信条は、どうやら後世の法学派形成期に、政治的後押しを受けて整備されたようであり、今ではそれがあたかもスンナ派の統一見解という風にみなされているのだ。(下図はそれを示す、イブン・ルシュド著「ビダーヤ…」の記述)

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 一方、シャーフィイーおよびその弟子イブン・ハンバル(ハンバリー派の始祖)はタシャッフドを義務化しているが、啓示の二元論(つまりスンナもクルアーンと並ぶ神の啓示であるとする重要教義)を広めたシャーフィイーに限っては、タシャッフドのなかで上記②の預言者への祈願(サラート・アランナビー)なくしては礼拝そのものが無効となってしまう義務行為として定めている。(下図はそれを示す、イブン・ルシュド著「ビダーヤ…」の記述)

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 シャーフィイー学派の祖としても知られるこのシャーフィイー(ムハンマド・ブン・イドリース・シャーフィイー)は、アッバース王朝時代にはイエメン総督に任命されており、アッバース朝の地方統治者としての経験も持つ。彼は啓示の二元論といった法理論の整備や、「類推」をシャリーア法源として適用した、スンナ派の法学基礎の形成に極めて重要な役割を果たした人物であり、宗派としてのスンナ派に最も貢献したと言っても過言ではない。

・シャハーダタイン

 また重要な関連事項としては、スンナ派において信仰証言として確立されたシャハーダタインは、クルアーンにおいて全く登場しないことである。シャハーダタインはシャハーダ(証言)の双数形で、日本語にすると「二つの証言」を意味する。つまり、一つ目のシャハーダは神の唯一性を証言し、二つ目のシャハーダはムハンマドの使徒性を証言する。

 クルアーンで言及される本来のシャハーダは、神の唯一性のみを証言する「ラー・イラーハ・イッラッラー」のみ。これに続き、神の名に並べ、偶像崇拝的かつ党派主義的な要素「ムハンマド・ラスールッラー」や「アリー・ワリーユッラー」などの文言が、各宗派のハディースに基づいて付け加えられたものがシャハーダタインである。

 クルアーン63章の冒頭の章句は、シャハーダに何か別の要素が加わる唯一の場面となるが、ここではまさに上記を裏付けるかのように、偽善者たちがムハンマドを訪れ、彼を神の使徒として「アシュハドゥ・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー」と証言する場面が挙げられている。

偽善者らがあなたの許にやって来ると,
我々はあなたがアッラーの使徒であると証言する」と言う。
アッラーは,あなたが確かに使徒であることを知っている。
そしてアッラーは偽善者らが嘘言の徒であると証言する。
(クルアーン63章1節)

 さらに39章45節では、クルアーンの記述に反し、神を差し置いて別の仲裁者を立てる偶像崇拝者らについて述べられる。

言え。
「全ての執り成しは,アッラーにのみ属するのである。
天と地の大権はかれの有である。
やがてあなたがたはかれの許に帰される。」
アッラーだけしか言及されないと,
来世を信じぬ者たちは憤慨する。
だがかれ以外(の他の名)が言及された途端,
かれらは喜ぶのである。
(クルアーン39章44〜45節)

 またスンナ派では、ムハンマドが来世における神の仲裁者としての地位を担っている。罪深いムスリムの罪を赦してもらうために、ムハンマドが神の執り成しをするのはスンナ派における重要な信条であり、礼拝前(アザーンの後)にその仲裁者としての地位をムハンマドに授けるよう神に祈願する慣習は一般的だ。

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 ちなみに、スンナ派に「シャハーダタインの偶像崇拝性」を指摘しようものなら、キリスト教徒に対して「三位一体の偶像崇拝性」を指摘した時とほぼ同様の反応が帰ってくるのは興味深い事実である。

・タスリーム

 礼拝作法に話を戻すと、礼拝の終了間際、締めとして唱えることが義務とされる行為にタスリーム(左右への挨拶)というものがある。これに関して、アブー・ハニーファとその門弟は義務とはみなしていない。(下図はそれを示す、イブン・ルシュド著「ビダーヤ…」の記述)

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 タスリームは天使や人間への挨拶であるとされ、誰の目から見ても神の崇拝とは関係のない偶像崇拝的要素を含むが、これももちろんクルアーンの中に一切言及のない、党派主義を正当化させるための添竄である。 

・タクビール

 実際、礼拝開始時の義務行為とされるタクビール(”アッラーフ・アクバル”と唱え挙手する行為)についても、スンナ派伝統法学者の中に義務ではないという見解がある。預言者ムハンマドやウマル・ブン・ハッターブは一人での礼拝時にタクビールをしなかったとする伝承が存在するからだ。それについてイブン・ルシュドは、「集団礼拝時において、後方の追従者が先導者の行う礼拝の動作が知ることが出来るよう、合図的にタクビールの発声をするようになったのではないか」と記している。(下図はそれを示す、イブン・ルシュド著「ビダーヤ…」の記述)

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 またタクビール時に発する「アッラーフ・アクバル」という文言自体についても、法学派の形成初期においては学者間の総意がなかった。シャーフィイーはそれ以外に「アッラーフ=アクバル」の文言を許した一方で、アブー・ハニーファは比較的自由に「アッラーフル=アアザム」や「アッラーフル=アジャッル」などの文言を許したが、マーリクだけは厳密に「アッラーフ・アクバル」のみに限定していた。(下図はそれを示す、イブン・ルシュド著「ビダーヤ…」の記述)

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 これまで述べてきたものは、ほんの一部の例に過ぎない。お分かりのように、クルアーンで言及されない部分は、全てハディース由来の付加的動作や、何も考えずに暗唱すべき形式的な文言である。礼拝の目的および本質は、暗記をひたすら復唱するだけの形式的な言葉や動作ではないはずだ。なぜならクルアーンは、礼拝時の意識ポイントや心がけるべき精神状態がどうあるべきかをはっきりと述べるからである。

あなたに啓示された啓典を読誦し,礼拝の務めを守れ。
本当に礼拝は,(人を)醜行と悪事から遠ざける。
そして最も重要なのは,アッラーへの弛まぬ意識である。
アッラーはあなたがたの行いを熟知する。
(クルアーン29章45節)

多数派であることは正義に直結しない

 こうした議論に対し、それは「イスラムを破壊する」だとか「カオスをもたらす」などと宣う輩がいるが、イスラム圏のマジョリティとして振る舞う彼ら「スンナ教団」こそが、現在進行形でイスラム圏に破壊とカオスをもたらしている諸悪の根源であるという自覚はないのだろうか。果たして彼らは自らムスリムであると称しながら、クルアーンのみへの追従姿勢が「イスラムを破壊し、混乱をもたらす」と言っているのだろうか。

 クルアーンによるなら、マジョリティが完全に正しいということはありえないのだが、その多数派性を何よりの誇りとすスンナ教団は、ハディースに則り「我らマジョリティは虚偽において合意することはない」と宣言し、マジョリティ離脱者の殺害を以下のハディースで正当化するのだ。↓

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 しかしながらもちろんのこと、クルアーンが述べることはそれとは全くの逆なのである。

あなたがいかに切望しようとも,人類の大半は覚知しないものである。
(クルアーン12章103節)
彼ら(多数派)は,同位者を並べることなく神を覚知することがない。
(クルアーン12章106節)

 そして注目に値するのは、上記の章句から少し読み進めると、この第12章の締めとなる111節では、なんとハディースを聖典とするスンナ教団への当て付けであるかのように「ハディース」の語句が登場するのだ。 

これは捏造されたハディース(言い伝え)ではなく
以前にあったもの(啓典)の確証であり,
あらゆる事象の詳細な解明であり,
また信仰する者への導き,慈悲ともなる。
(クルアーン12章111節)

 クルアーンに背き、過去の王朝権威の管理下で組織化・硬直化し、「スンナ教団」化してしまった彼らの教義は、その殆どがムハンマドの死後およそ200年後に編纂された「聖典ハディース集」の導入により創作された、空論と虚構で占められている。

 だが幸いなことに、ハディースに対する抵抗運動、そして断固とした拒否姿勢はイスラム史の最も初期から存在し、今なおクルアーン主義という形をとって存続し続けているのである。

 その動かぬ証拠として、ムハンマド自身がハディースの記録を禁じたことは、他でもないハディースとして報告されているほか、二代目後継者ウマルの時代まで、ハディースは焚書処分されていたことが伝えられている。その後もムゥタズィラ学派やアハルル=カラームといった神学者らがハディースを拒否し、当時から敢然たる批判を繰り広げている。その詳しい経緯を知りたい方は、Wikipediaのハディース批判ページを参照してほしい。

 筆者は改宗して17年が経ち、以来ハディースの孕む問題については常に頭を悩ませてきた。またサウジアラビアにイスラム留学した経験から、彼らハディース主義者らの思想・論理についてもある程度は熟知しているつもりである。党派主義と権威主義に盲従し、排他的思想と後ろ向きな考え方を止めようとしない彼らにはいい加減に見切りをつけ、スンナ教団とハディース信奉者へは永遠なる離別をここに宣言する。

 さいごにマディーナ・イスラム大学の法学の授業で、イブン・ルシュドの古典ビダーヤトル=ムジタヒトを3年間みっちりと学べたことが、留学における最も大きな収穫の一つであることは補足しておきたい。

 それでは次回は、クルアーン内に記述されている礼拝の実践方法などについて見ていく。


本シリーズは其の五までを予定。
其の二 イスラム実践はアブラハム由来
其の三 ムハンマド及びその子孫の偶像化問題 (仮)
其の四 ハディースの矛盾とその捏造の歴史(仮)
其の五 クルアーン主義のメリット・デメリット(仮)


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