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幻想小説 幻視世界の天使たち 第12話

この篠原ミカからのメールを読み終えると、ユースフは両腕を頭の後ろに回し、研究室の天井をじっと睨んだ。ボイドが推してくる女性だけあって、その立てた仮説は説得力がある。ユースフは彼が幼い時に見た強烈なスーパーセルに固執しすぎたかも知れない。ボイドもこのミカの説には賛同しているようだ。しかしこの説を採るにしても、それを実証するのはどうすれば良いのだろうか。彼はまたしばし考え込んでしまった。そしてやがて独り言を言った。「やるしかないか」そして立ち上がり研究室を出ると、ゆっくりとした足取りで、いつ目覚めるともわからぬまま病院のベッドに眠る息子の許へと向かった。

ユースフは自らの身体を使ってミカの仮説を検証する人体実験を行うことにした。研究室にビデオカメラを持ち込み、部屋の中央にあるテーブルの前に設置した。テーブルの上にはポットとティーカップ、記録用の大きなノートとペンを置いた。ユースフはボイドにピジョンこと篠原ミカの立てた仮説を検証するために、ユースフ自身が赤い花の根を服用し、そのために起こる変化を見ることで、モンゴル帝国軍に起きたことの再現実験とすることを提案して了解された。
ユースフはテーブルの前で、上着の内ポケットに入れた二通の手紙に服の上から触れた。一通はこの実験に立ち会う予定のボイド宛である。ボイド宛の手紙には、この実験が成功したと認められるが、ユースフに何かが起こり二度とボイドと連絡が取れない事態となったときに、賞金の百万ドルを誰に渡すのかが示されていた。この手紙はまもなくこの場に現れるボイドに直接手渡すつもりであった。もう一通は、今はウリグシク大学病院のベッドに眠る彼の息子のジンに宛てたものであった。
ユースフはテーブルの上に置かれたポットに赤い粉とケトルで沸かしたお湯を入れた。それはこの一ヶ月程かけてウリグシク高原の岩場にごく僅かに自生するキジルグルの根から、古文書にある手順に従って精製したものである。但、この粉末の成分を大学の同僚である化学者に分析してもらったところ鉄分をはじめいくつかの栄養素が検出されただけで、幻覚を引き起こすような成分は検出されなかったと報告を受けた。このことをボイドに告げ、実験の延期を申し入れたがボイドからは予定通り実験を行うように、そしてボイド自身も実験に立ち会う旨連絡してきた。
やがて、研究室をノックする音がして、ボイドが入ってきた。片手には旅行用の鞄を、もう一方の手には布製のバッグを持っていた。
「しばらくぶりですね。教授」
「ボイドさん今日はよろしくお願いします。只、まだ私が抽出したこの薬剤の効果に今ひとつ自信がないのですが。それともう一つすっきりしていないことがあって……」
「それは何ですか」
「ここに記録用のビデオやノートを準備しました。でもこれではピジョンの仮説を検証するために、この薬剤を私が摂取した後に私の脳の中に現れるイメージを再現するのには間接的です」
ボイドはにやりと笑った。
「薬剤のことですが、私たちもあなたに事前に送っていただいたサンプルを分析したところ効果が弱いというか……不明な部分もありました。ただ、これはこれでまず、やってみるしかないでしょう」
ユースフは少し落胆して言った。自分から言い出したことではあるが不安の色は隠せない。
「……そうですか。しかたがないですね。しかし人体実験は私の身体で行うのですよ。あなたにとっては人ごとかも知れないが……」
「大丈夫です。これは体に悪影響は無さそうです。ウリグシク高原に咲く青い花モビイグラの葉から抽出した解毒剤も準備して、ここに置いて置きます。それと何よりも、私も一緒に今日、人体実験を行いますから。安心してください。そしてそれがあなたの二つ目の懸念への答にもなると思います。私も一緒にイルージョンを見ることができれば、ピジョンの集団催眠説を検証することになるでしょう」
ボイドは持っていた布製の袋から長方形の板状のものを取りだした。それは真ん中で折り畳むことが出来る横幅七十センチほどのアンティークな飾りのついた板で、折り目を境に二つの楕円形の鏡がはめ込んであった。ロイドはそれを真ん中のちょうつがいのところで、少し内側に曲げた形でテーブルの上に置いた。
「いや、これを見つけるのにロンドンの古道具屋をさんざん探しましたよ。二人でのぞき込むのに丁度良い形のものがなくてね」
ボイドはそう言うと鏡の前に座り、ユースフに隣に座るように言った。
そして呟くように言った。
「お子さんが直ると良いですね」
ユースフはボイドからそんな言葉が聞けるとは思ってもいなかったので少し面食らったが、静かに頷いた。

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