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幻想小説 幻視世界の天使たち 第13話

ユースフは話を戻して続けた。
「ピジョンのメールには触れられていなかったが、私が調べた古文書の中には、鏡を見る事によって幻視が始まり、加速させ、また鏡を見ることによって現実に戻るということが書いてあった。何故だかよくわからないのだが、右と左が反対の自分の姿を見ることで、感覚が研ぎ澄まされた脳に何らかの影響があるのかもしれません。ボイドさん、いずれにしても道具立てをそろえて頂き感謝します」
そう言うと、ユースフもボイドの横に座って、鏡を覗き込んだ。
「こういう風に男二人で並んで鏡の前に座ると、ロンドンの下町の床屋みたいですな」
ボイドが楽しそうに言った。それを聞くとユースフも口許を少しほころばせた。
「しかし、この鏡も年代もののようですね。私は父親と一緒に床屋に行ったことを思い出しますよ、私の顔もだんだん父親に似て来たたからかな」
ボイドが尋ねた。「父上はご健在ですか」
ボイドは家族のことをよく口にするなと思いながらユースフは答えた。「いや、だいぶ前に、そうですね二十年以上前に亡くなりました」
ボイドが、まずいことを聞いたという面持ちで言った。
「そうですか、つまらないことを聞きました」
ユーフスはそれを打ち消すように言った。
「いや気にしないでください。では、始めますか」
「そうですな」とボイドが言うと、ユースフはまるでお茶を入れるようにポットに入っていた液体を二つのカップに注いだ。その一つをロイドの前に置いた、ボイドはそれに持参した小さな瓶から液体を二滴ほど入れて、更に手を延ばしユースフのカップにも入れた。そしてユースフに向かって言った。
「これはバラの花びらの香料です。香りがするだけで無害です。実験に花を添えようと思いまして」
ユースフは「はっは」と声を出して笑った。
「これも英国式ですかね」
ボイドはウインクしながら言った。
「さようですな、実験に幸あれ。紅茶カップで乾杯というのもおかしなもんですが」
と言ってカップを目の高さまで持ち上げて、中身を飲み干した。ユースフも同様にカップの液体を飲んだ。

ユースフとボイドは、しばらく二人でテーブルの前の鏡と睨めっこしながらお互いの学生時代の話などをして、やがて襲ってくると思われる感覚の変化への恐れを紛らわしていた。しかし十分経っても二人に特段の変化はなかった。テーブルの鏡には研究室のドアが写っていた。旅の疲れからか、次第にボイドは目を閉じてうたた寝をし始めた。ユースフも眠気が襲ってくるのを感じた。
突然研究室のドアにコンコンという小さなノックの音が聞こえた。ユースフは座ったまま「どうぞ」と少し大きな声を出した。ドアを開けて、元気に駆け込んできたのは何と病室で寝ているはずの息子のジンであった。
「ジン? 目が覚めたのか」ユースフは思わず声をあげた。ジンはうんと言ってにこにこしながら元気に頷いた。ジンは病院で着ているパジャマでなく、学校に通う時の半ズボンに大きな襟の付いたチェック柄のシャツを着ていた。あれはジンのお気に入りの服だが、病院には持って来ていないはずだ。
「ジン、そのシャツはどうしたのだ」そう言った時、ユーフスはこれが幻視であることを悟った。ジンの後ろには何年も前に死んでしまったはずの彼の妻が立っていたからだ。彼の妻は優しげに微笑んで、「私が持ってきたの」と口を動かしたように彼には思えた。しかし彼の妻の姿はジンが生まれるよりもずっと前の、彼と恋人同士で会った時の姿に見えた。妻の名前を呼ぼうとした時、妻の顔は最初の実験が失敗に終わった後に研究室を退職した秘書のローラの顔に変わった。実験の事故で大学に損害を与えた後、大学の経費削減運動のあおりを受け、最近はさしたる成果のないユースフ・アリシェロフ教授には秘書は認められず、泣く泣く辞めていただいたのだ。さぞや私を恨んでいることだろうとユースフは思ったが、ローラはいつもの愛想のよい顔になり「お客様です」と言った。客?一体誰だろう。それを思い浮かべる間もなくドアを開けて小柄の男性が入って来た。男はユースフの父であった。「父さん」とユースフは思わず声を出そうとした。父はこちらを見てニコニコはしているが声は出さない。しかしボイドの方を見ると「ジョン坊やじゃないか。元気にしていたか」とボイドに話かけた。寝ていた筈のボイドはニコニコして言った。
「やあ、おじさん。あのスーパーセルの時は助かりました。おじさんは本当に命の恩人です」

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