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終戦記念日に寄せて② 母の話

昨年は父の戦争体験でしたので、今年は母と戦争のことなど。

母も戦争については、ほとんど口にすることはなく、テレビの中から空襲や空襲警報の音がすると、さっと消してしまう人でした。
戦争をテーマにしたドラマや映画なども避けていたようで、私は子供の頃そういう番組を母と見た記憶がありません。

そんな母から長い年月の間にこぼれた言葉を積み重ね、時々聞き返して私が知ったことをまとめてみます。

母は、東京の品川に生まれ育って、空襲で家を焼かれたそうです。
当時、19歳くらい(いつの空襲か聞かなかったので)。

60歳くらいの母親と、両親を亡くした兄の子供たちの手を引いて火の中を逃げたそうです。

こっちだ!と直感で歩いた方向で助かったと話していました。

14歳上の姉の嫁ぎ先が青梅にあり、大事なものは先に疎開させてあったのだけれど、行ってみれば食料に変わっていたとか。

お雛様も綺麗な着物もみな無くなっていた、と言っていました。
ちょっと姉の事を恨んだようですが、その頃は仕方なかった食料事情だったのですよね。
(叔母は後々には何かと援助してくれ、私が生まれた時にも可愛い洋服をたくさん送ってくれたようです。)

母は、何も無くなってすごく自由だった!と言っていました。
周りもみんなそうだったから。助け合ってみんな親切だった、とも。

そのことを話す母の顔は、思い出しているのでしょう、とても明るく輝いていました。

終戦前か後かわかりませんが、家がなくなった母たちは、親戚を頼って疎開しました。
疎開先では、やはり農家の方々は強かったようです。
たた、職場が配給関係だったので比較的食べ物に困らず良かったとか。

職場まで何キロもある道を毎日歩いて通い、朝一番に行って掃除していたそうです。体の弱い人だったのに、そこでちょっと丈夫になったのかもしれません。

東京から疎開してきた女性たちで楽しくしていた様子もあります。

そこへ父が終戦から少したって(南方でオランダ軍の捕虜になっていたため)帰ってきて、知り合って結婚に至った訳です。

父は、大恋愛したと、誇らしげに言っていました。

当時はお見合いの時代。
たぶん、家を焼け出されてコブ付きの東京モンの女の子なんかと、大反対もあったのでしょうね。

母に聞いてもツンとしてたので、大恋愛は父だけなのかな?とずっと思っていたのですが、母の法事の時に姪(母の孫)が「お婆ちゃん、大恋愛だったんだよって言ってたよ」と。
ツンデレ?違う?

そういえば、母が亡くなってから片付けていると母の部屋の本棚には、父が軍服姿で白馬に乗った写真が飾られていました。

「お父さんは、最初の頃は軍服を着て帽子をかぶっていたから、カッコ良かったのよ。」とも言っていましたっけね。(復員後も、軍服を着ていたみたいです)
その後に、「帽子とったらオデコだった。がっかり」とか言うのが残念でしたけど。💦

軍服萌えだったのかもしれません。

それに、写真で見るに南方で飢餓を越えてきた父は、頬がこけて確かに母好みの細面でした。

やはり母も大恋愛だったのかと、娘としては両親亡き後になって安心しました。

父母は、新婚の新居に祖母も甥姪も一緒に住んだそう。戦後の当時ならそういうものだったのでしょうね。
長男が生まれ、配給の中での子育てなど大変だったようです。

(父親は終戦頃まで生きていたはずですが、母の口から戦前以外に父親の話しは出てきません。)

こんな風に戦争がなければ、出会わなかったろう父と母。
生きていたから出会えた父と母。
そして、平和な日本、兄たち私がいます。

その時代の中で、生きていくしかない人間。
時により辛い厳しいことはあるけれど、生きていると幸せをつかむこともできます。

戦死された方はそれを奪われた。

生きていれば、、だからこそ、戦争はしてはいけない。楽しい日々を守りたい。

今年は、私は今までで一番、戦没者追悼式をTVでしっかり見て黙祷しました。
この感染症拡大の時だから、そうしたくなったのかもしれません。
戦争で亡くなった方々を思い、戦災を越えて立ち直った日本を大事に、今を生きようと思いました。

そして身内に聞く戦争の話は、切れ切れでも特別に思えます。ファミリーヒストリーであり、自分の今につながる事を感じます。

聞ける人がいたら、ちょっとだけでも聞いてみませんか?
、、ただ話したくない方もいらっしゃるでしょう。それは、それほどに戦争の酷さを感じてしまう事でありますね。。

平洋戦争で亡くなった全ての方のご冥福を、心からお祈り致します。


*ヘッダー写真の全体↓

戦後父母ほか_001

疎開先の職場でのお友達と、船遊びに出かけた時のものだそう。
どうやら、父母はもう交際している様子。一緒にいる女性たちは疎開組だと思います。

おさげ髪の女子挺身隊姿の母の写真を載せたかったのだけど、見つからない。
代わりに、これは戦後でしょうね。疎開先の職場の庭かな。服は、たぶん和服を自分でリフォームしたものだと思います。
パーマしている!?

座る母

母の白馬の王子さま。

白馬の父 川沿い_002

*昨年書かなかったことで、父は南方に向かう船に乗っている時に、攻撃を受け、周りでは沈められた船もあったそうです。
父たちは、攻撃によって大揺れする船の中で、柱に足を絡めて酒盛りをしていたとか。
他にやることがなかったからと、軽そうに語っていましたが、生きていたから語れる話。沈むかもしれないなかで、最後の酒の酌み交わしだったと思います。*


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