何故『千と千尋の神隠し』は愛され続けるのか?【千と千尋の神隠し編 5の巻】

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◆其の弐 物語の総括をしてみる

改めて、素晴らしい作品だなと思いました。今まで『千と千尋の神隠し』は何十回も観てきていますが、変化の著しい幼児期・児童期から青年期・成人期にかけて観ると、感じ方や発見が成長に合わせて増えていくため、非常に作り込まれた作品だと思います。

自己中心的で我の強い性格をしている私ですから、幼少期はおどおどする千尋に共感できませんでしたが、色んなことを知って成長していく度に視点が増えていき、共感や尊敬の気持ちが芽生えるようになりました。

また、倫理を学ぶことで知る「八百万の神々」の感覚。そんな難しい内容を幼少期から観ることができた理由として、神様たちを見える形で描いているからだと思います。

児童期の子どもは自由な発想と実念論的な思考を持っています。神様が具現化して描かれていることで、それらを神様として認識しない、キャラクターと同等に見ることができるのではないでしょうか。

◆其の参 音楽について

劇場で鑑賞して思ったのですが、『千と千尋の神隠し』はかなり挑戦的な作品なのではないでしょうか。

従来の作品であれば、映像の”バック”グラウンドミュージックとして音楽があったと思います。例を挙げるとするなら、『魔女の宅急便』より『海の見える街』です。若干の展開の変化はあるものの、映像に音楽が付いていくような感覚があります。

ですが、『千と千尋の神隠し』では映像と音楽が対等にあるのです。

時に”音楽が映像を喰ってかかる”ようなシーン何度もありました。まるでディズニーの『魔法使いの弟子』のように、元々あった音楽に映像を付けたのではないかと思うほど音楽が作品を支配していたと思います。

そしてこの「映像と音楽の対等」によって、意外とポンポン話を進めることが可能になります。音楽によってその場に波ができて、視聴者が展開についていくことができるからです。『千と千尋の神隠し』のストーリーだけに注目すると、結構ポンポコ話が進んでいます。それに気づかないほど映像と音楽が調和しているとも言えます。

ジブリ作品では、このような映像と音楽の融合が『千と千尋の神隠し』以降から顕著に表れるようになったと感じます。『崖の上のポニョ』や『風立ちぬ』はその傾向が強く表れていると感じます。(この2つも挑戦的な作品だなと思います。ポニョは背景の一部が色鉛筆だし、水の表現が独特。風立ちぬは物語が大人向けであり、SEがすごいんじゃ。)

1~4でも書きましたが、音楽の展開に多用されるティンパニという楽器。「ティンパニは第二の指揮者」と評されるように、音楽の展開を促進する起爆剤的役割を担っています。

(関係ありませんが、サントラにティンパニが多用される作品として『新世紀エヴァンゲリオン』が挙げられます。鷺巣詩郎さんの音楽もめっちゃかっこいいです)

◆まとめ

元々映画館で放映するために製作された作品ですから、映画館で見るべきでした。その機会をくださった関係者の皆様ありがとうございました。

『千と千尋の神隠し』苦手な人の理由が分かりました。油断していると作品に喰われます。

他作品も劇場で観ます。

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