人生に一度は映画館でジブリを【千と千尋の神隠し編 4の巻】

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○電車

ここのシーンがどことなく『銀河鉄道の夜』に似ているなと思います。行きっぱなしであるところ、乗客が幽霊っぽいところ、途中のネオン(三角標っぽい)、など… ですからこの電車のシーンは”死”を意識してしまいます。

※追記:窯爺の「昔は帰りの列車があった」という発言は、「昔は死を身近に感じていた。お盆でお墓に行ったり、家に仏壇があったけど、最近はない。」という意味なのではないかと思います。

神道では、亡くなった方の魂は山奥に行くのではなかったかな?高校の倫理で習った気がします。違ったらごめんなさい。

○沼の底の家

この辺から千尋が銭婆のことを「おばあちゃん」、窯爺を「おじいちゃん」と呼んでいます。この時点で交わした契約(呪縛)は解けつつあったのかなと。

窯爺は銭婆のことを「恐ろしい魔女」と評していましたが、そんな怖くないじゃんって思いますよね。恐ろしいというより、慈悲深い感じ。

○ニギハヤミコハクヌシ

ここ、何度も見ないと理解できなかったです。

千尋川に溺れる→ハク様助ける(靴拾おうとしたんだよ^^)→埋め立てられる(><)→ハク様油屋へ→湯婆婆の手先になる→物語へ

…なんで手先になった?ってことなんですけど、ただ力が欲しかったのか、千尋の運命を知っていたから助けるためなのか…

○大当たり~!

千尋が完全に湯婆婆を「おばあちゃん」呼びしています。この時点で従業員の千ではなく、千尋としての子供らしさを取り戻しています。最初は基本的な挨拶もできず、エレベーターの外を興味津々に眺める千尋ですが、おにぎりの後から大きく変化しているように見えます。おクサレ神に一礼したり、油屋にいることが日常になっていたり。働くことで大人になって独立することが、「帰る場所が分からなくなる」「名前を失う」ということなのでしょうか?

だけど、子供らしさを取り戻した千尋が帰る場所は両親の元。だから、「ここにはお父さんもお母さんもいないもん」という答えを出したのかな。この時の千尋は「この”おばあちゃん”が何を言っているのか分からない」というような表情だった。このころにはもう、油屋で働いた記憶も薄らいで、両親が豚になったことすらも分からなくなっていたのではないでしょうか。

(確かに働くということは色んなことを学びます。私も大学入学以来様々なアルバイトを転々としてきましたが、領収書の書き方一つ取っても全く知りませんでした。私も知らなかった時間があったはずなのに、知らない人に対してつい冷たい態度を取ってしまっていました。部活動の後輩への態度とか最悪だった。だから、千尋のことを素直に可愛がってやれる窯爺やリンのことが羨ましいのかも。)

○最後

一言で、涙腺崩壊のシーン。千尋の「またどこかで会える?」という問いに対してハク様は「うん、きっと」と返し、千尋も「ええ、きっとよ」と繰り返して案外あっさり会話が終わります。

ジブリの好きな理由の一つとして言葉選びがあるのですが、この「きっと」に込められた思いに関しては色々考えてしまいます。

きっとって、もう、会えないじゃん。

どこかで会う、というより、感じ取ることはできないけど会いに来てね、くらいの意味なんじゃないかと思っています。

このシーンは、千尋が見せた最も子供っぽくて、大人っぽい表現だなと思います。

※ジブリの言葉選びと言えば、『魔女の宅急便』です。飛べなくなったキキに対して青い家のおばあちゃんは粋な計らいで「魔女の女の子に伝えておいて(=また調子を取り戻したらいらっしゃい)」と声をかけます。(確か) その後涙をこらえきれなくなって顔を隠したキキに対して、おばあちゃんが「…キキ?」と囁く、というシーンがありまして。この囁きでいつも泣いちゃう。ってだけです。

5弾に続く




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