8 パヴェルを追って―ブシュチェフラット編
菅寿美(『ボヘミアの森と川 そして魚たちとぼく』訳者)
ブシュチェフラットの町には池が二つあった。両方の池はポプラのはえた土手と道路で分けられていた。
(「お前を殺すかもしれないぞ」より、p.38)
パヴェルの父レオはユダヤ人であった。そのため、第二次世界大戦がはじまると、パヴェルの一家は、プラハからレオの出身地であるブシュチェフラット(Buštěhrad)の町に移動することを余儀なくされた。父と二人の兄が強制収容所に入れられてしまったあと、オタはその町で母と二人っきりの生活を送った。
2011年8月、冷たい雨がそぼ降るなか、ブシュチェフラットの町を訪れた。プラハから工業都市クラドノ経由の小旅行だ。着いたのは霧雨の煙る森閑とした城下町だった。
バス停のそばに町の案内図があった。それを確認して、まず、町の中心部である、二つの池に向かって道を下って行った。オタが戦時中に人目を忍んで鯉を釣り上げていた、あの池だ。池は想像していたよりも大きかった。その池を中央で左右に区切るように、石畳の道が伸びている。向かって右が“古い池”で、左が“新しい池”である。“古い池”の右手奥には、レンガ造りの大きな廃墟があった。この“古い池”の鯉たちにビールかすをやっていた、あのビール工場の跡とのことだった。かつては、チェコの中でも有数の歴史を誇る醸造所だったらしい。
(古い池)
(新しい池)
池のすぐそばに小さな博物館があった。オタ・パヴェル博物館(Muzeum Oty Pavla)だ。一見民家のような、それと注意して見なければ、すぐに通り過ぎてしまうような、こじんまりした博物館である。中には、パヴェル一家やプロシェクおじさんの写真、家系図、父母の婚姻証明書、パヴェルが愛用した机、タイプライター、それに釣り道具などが展示されていた。ほかに見学者はおらず、受付のお姉さんも所在なげに外を見ていた。
(オタ・パヴェル博物館(旧))
(博物館展示物 釣道具)
(博物館展示物 オタの父母)
(博物館展示物 プロシェクおじさんとホラン)
(博物館展示物 オタの机)
(博物館展示物 ルフの渡し場)
池のそばには、パヴェルの父レオの家も残っている。現在では別の家族が購入して生活しているようだった。
池からやや南に下った高台で、ブシュチェフラット城の痕跡が見られる。城塞跡に上っていく道は人気がなく、くすんだ黄色や灰色の石組みの城壁はひっそりと雨に打たれていた。興味深かったのは、城の名残である古い石組みが、飲み込まれるように、そのまま現代の住居と融合していることだ。いや、順序から言えば、現代(と言っても17世紀ごろからの建築だとのこと)の住居が古要塞の名残をうまく利用しているというべきか。
(要塞跡)
ブシュチェフラットの町はあまり人気がなく(雨だったせいかもしれないが)、心躍るような見どころがあるわけではないが、少年オタが生活していたそのときの様子が随所に残っている。強固なものは形を変えつつ徹底的に利用し、いよいよ手の施しようがなくなれば朽ちるにまかせる。そんな姿勢にこの町の生に対する真摯さを感じた。もしも、パヴェルの作品に魅了されてチェコ旅行を計画する方がいらっしゃれば、プラハやクシヴォクラートのみならず、ブシュチェフラット散策もいかがだろうか?
ブシュチェフラットの町では、その後さらに整備が進み、オタ・パヴェル博物館は、2015年にクラデンスカー通り(Kladenská ulice)207番地に拡張移転している。城跡や教会のほか、パヴェルの池、オプルトさんの居酒屋やブラーホヴァーさんのパン屋の跡まで含めた町の史跡を示す案内板はリニューアルされているようだ。
(史跡案内板)
(史跡例)
1)ブシュチェフラット町のウェブサイト
https://www.mestobustehrad.cz/
2)オタ・パヴェル博物館のウェブサイト
http://www.bustehrad.cz/muzeum/
3)新しい案内図のサイト
http://www.bustehrad.cz/stezka/zastaveni-na-stezce/
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