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エッセイ 近況報告にかえて

工藤正廣

*今回は『いのちの谷間』(「アリョーシャ年代記」第二部)を書き終えたばかりの頃(2019年5月頃)の工藤正廣さんが書き置かれたエッセイを紹介します。ラーラ・プレスコット氏の『あの本は読まれているか』(東京創元社刊)が話題の昨今、作中で重要な役割を果たす『ドクトル・ジヴァゴ』日本語訳者でもある工藤さんの、翻訳の道中のことについても触れられています。

 わたしは小説作家ではもちろんないし、またそうであろうと思ったことは一度もないが、散文作品としてはあれこれと書いて来て、どうしても満足がいかなかったのは、どういうことだったろうか。ところで、先ほど、やっと、長篇「アリョーシャ年代記」(仮題)の第二部を脱稿して、分かったことがあるので、書いておきたい。第一部は400字詰め原稿用紙に換算すれば500枚、ゲラにして300頁、そして第二部は、ほぼ400枚になった。都合900枚ということになる。しかしこれは肉筆手書きではないことを言っておきたい。パソコンで肩腕を痛めた。理想は、書く態度としては藤村の『夜明け前』であることは言を俟たない。ところで、わたしはあくまでも詩的言語としての散文といった矛盾した方向性をめざして来た。簡単に言えば、散文で詩(ポエジー、詩情)を書くことだ。詩は自由詩が日本にはあって、しかしその自由詩で散文を書くわけにはいかないし、だれもやらない。詩で小説を書くというようなことは、たとえばロシアならば十九世紀文学の始まりにおいてプーシキンが韻文小説『エヴゲーニー・オネーギン』を書く。これは厳密な韻文詩で全章を書くのだから大変な労苦だ。脚韻一つが見つかるまでは先へと進まれない。それなら散文で書いた方がもっと楽なはずだが、散文の物語では、暗誦に耐えられまい。プーシキンにならって、二十世紀になっても、詩人パステルナークは韻文小説を書くといった暴挙(物凄い試み)に出ている。というのも、あちらには革命ロシアという状況があって、時代を主題にした叙事詩を書くことがおのずと時代の詩人的使命ともなった。しかし、同時代で、パステルナークほど厳密な、魔術的韻律を駆使して叙事詩を書きあげた詩人はいない。マヤコフスキーなどは韻文詩ではなく自由詩だった。叙事詩といってもある意味では限定的なものであったというべきだろう。こうしてロシアに限って見ると、韻文による小説→散文による小説への道が見えて来る。周知のようにパステルナークの散文による長篇小説『ドクトル・ジヴァゴ』は、もしあれを全篇韻文で書いたならどうなっていたろうかと頭が破裂しそうに思うが、パステルナークはあれを散文で書いた。詩は散文である、という確信があった。逆に、散文が詩であるとは限らないのである。で、ジヴァゴを邦訳してみて分かったことは、それが散文で記述されていてもすべてが詩であるという発見だった。定型の韻文詩では書かれていないが、すべては詩だった。従って、革命の複雑な状況や出来事を描くについては、そこへ深く分け入らなかった。それらは散文小説作家がいくらでもやったことである。彼は歴史のドキュメントを書いたのではなかった。歴史における詩を書いたのだと言い替えていいだろう。

 前置きが長くなった。わたしは今回、この老齢になってであるが、去年の一冬、冬を凌ぐ手立てにもと、「アリョーシャ年代記」を、はたと思いついて書きだした。三か月ばかりで書き終えた。舞台は中世ロシア、動乱の時代を背景にして、ロシア大地に投げ出された孤児の物語をビルドゥングスロマンのようにと思ったのだった。もちろん、狙いは、ジヴァゴをどのように日本語で越えられるだろうかという試みだった。所謂歴史物語ではない。わたしにはその知識も少ない。しかしロシア的自然を描きたい。で、わたしはモチーフとして数多くのモチーフをロシア語作品の名作の中から経験した記憶をパラフレーズして作品の中に投入した。もちろんわたしは小説作家ではないので、詩を書く立場から沢山のモチーフを織りこんだ。わたしは総じて小説的プロットには関心がいかない。それでも、多くの織りこんだモチーフから、そのモチーフたちの絡みあいから、黙っていても複数のプロットが生まれてくるのが分かった。従って、それらのプロットは作者が考え出したものではなく、ことばたちがじぶんたちで生みだしてくれたものだった。作者は、どちらに進むのか、二者択一の岐路においのみ、右顧左眄することなく、決断するだけだった。これは実人生においても同じだろう。二つを同時に選ぶわけにはいかない。この時の判断の迅速さは間一髪といった速度が肝心だった。右顧左眄しているうちに、生きたプロットはたちまち生気を失うのだ。そこで私の場合役だったのは、わたしの長い翻訳経験だった。翻訳は得てして、正確な語彙の意味論に多大の時間を弄するが、それはどのことばも多義性を秘めかくしているので、作者の真に言わんとし指示して不十分なものまで探る必要があるからだが、そこでぐずぐずしていたら、翻訳の文体は腐る。作者がどのようなスピードで書いたか、書き渋ってパワーを失っているかどうかは、作品の文の勢いをみれば直ぐに分かる。で、訳者は分かったらただちに決断する。こちらを選ぼう、選んだらそのままで進む。あとで直してはならない。余ほどの誤読なら別だが。語彙についても同じだ。まず一瞬にして選ぶ。さぞかしあなたは実に乱暴な翻訳をしているのですねと言われるだろうが、こちらは研究者文学をやっているのではない。作者のパワーを生かすことだけが重要なのだ。翻訳論として言えば、ドクトル・ジヴァゴの翻訳で、第一部はてこずった。作者自身が手こずっていたからだが、第二部に至ったら、訳者としてはまるで作者になりかわった気持ちで思うがまま掻き口説いてとどまることがなかった。一瀉千里というべきだった。そして結末に来たときは、終えるのが惜しくてならなかった。ジヴァゴの結末は、散文小説という立場から見ると、いかにもハード・ランディングと言っていいだろう。飛行機がドーンと地響きを立てて着陸するようなものだ。どうしてこのようになるのか。作者は、散文小説作家のように、軟着陸はしないのだ。詩を書くのと同じ着地なのだ。というのも後日譚がどうであれ、そんなことはどうとでも読者にまかせる。自分はどうしても書き残したいことをロマンと言う散文ジャンルの場を借りて、詩を書いたのだから。

 わたしは、自分の「アリョーシャ年代記」の第二部を、今度は今の二〇一九年の一月に書きだした。そして今日終わった。二か月もかかっていない。なぜか。第一部は、登場人物たちが次々に登場した。ごった返しだった。作者の手に負えなくなった。そして、文体もそれなりに装飾的にした。が、一年を経て、第二部になって、わたしはすべてを投げ捨てた。語りに徹した。もちろん、わたしは第一部においても、近代以降日本語文学が記述法として採用した欧米輸入の句読法、台詞の場合の鉤括弧とか、さまざまな記号を採用しなかった。それらの記号によって表現領域(人物の心理描写や感覚)が拡大したとされるが、わたしは疑っている。わたしは単純な方法で、すべて、描写も会話も独白もなにもかもベタ一面、地の文にした。西洋絵画に遠近法があるが、あれも怪しいものだ。わたしの描写は日本の絵巻的な方法による。立体ではないが、しかし別の立体であり遠近法だ。写実に見える遠近法ではない。心理的遠近法でなくてはならなかった。わたしはアリョーシャというドストエフスキーの登場人物にひとしい名の視点を設定して、ロシアの自然と生活の中を旅した。そこに人間の運命を語った。口説いたといって言い。いわばわたしのロシア浄瑠璃とでもいうべきか。わたしとしては第一部で、詩語りが出来たのだから、抒情詩の集積としての物語だけで、それで構わないと思っていたところ、査読してくださった読み巧者から、後篇や如何に、という促しがあった。それで初めてわたしは、読み物としてのポエジーがありうるのだと分かった。となった以上、わたしは第一部の、それなりに工夫も入れた語りからもう一枚脱いで、ドサ回りの語り口へと進んだ。いわば短文系を耳で聞いて直ぐに分かるような物語へと回帰することだった。一言で言えば、制度として完成した小説文学ではないところへ出たかのかと思う。日本語文学は、どうしても、日本語がいかに奥深い言語表現が可能かを求めて深化し、進化して来た。わたしはそれをまことに息苦しいものと思っている。わたしの設定した舞台は日本ではない。日本の自然ではない。ロシアについての自然だった。そこへわたしは日本の自然を、正確に言えば、東北・北海道的な自然との通路を見いだして重ねた。なお、わたしの目指したのは、自然における宗教的感覚であった。日本風土のみを舞台にし、なお主力の都市文化、都市生活中心の文学表現からは生まれない信仰感覚といったものを、描き出す、語りだすことができたように思うのは手前味噌というものだろうか。詩で書く物語を終えて、わたしはほっと安堵した。わたしは日本語文学の小説文学とは合性が悪かった。次にもう一度大きな宿題として残っているのは、わたし自身の個人的な日本語の確立である。

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