0 オタ・パヴェルとその作品について
菅寿美
オタ・パヴェルについて
オタ・パヴェルという作家をご存じだろうか? 日本ではその作品はほとんど翻訳されておらず、多くの人は耳にしたこともないと思うので、まずは、簡単に作家の紹介をしておこう。
オタ・パヴェル(Ota Pavel)は中欧の小さな国、チェコスロヴァキア(現在のチェコ共和国)のジャーナリストであり作家であった(1930年生〜1973年没)。チェコスロヴァキア放送に勤め、スポーツ記者としてデビューする。自身も若いころにアイスホッケー選手として活躍していたパヴェルは、選手たちの華々しい活躍を取り上げるにとどまらず、彼らの内面の葛藤や焦燥までをも描き出し、スポーツ記事を人間味に富むスポーツ文学へと高めた。彼のスポーツ文学作品には『摩天楼のはざまのドゥクラ(Dukla mezi mrakodrapy)』『シャンパンでいっぱいの木箱(Plná bedna šampaňského)』『ラシュカ物語(Pohádka o Raškovi)』などがあるが、残念ながら、2020年現在、サッカー選手、ルドルフ・クチェラについての短篇1作を除き、本邦未訳である(伊藤涼子訳「ハロー・タクシー」『文学の贈物 : 東中欧文学アンソロジー』小原雅俊編、未知谷、2000年、265〜278頁)。
パヴェルは1963年に、自叙伝となる短篇集を発表する。『美しい鹿の死(Smrt krásných srnců)』というタイトルのその作品は、発表されるや、チェコで最も人気のある作家のひとり、カレル・チャペクを彷彿とさせると、大評判となる。重い双極性障害に苦しみながら執筆を続け、1973年に42歳という若さでこの世を去るが、没後となる1974年、回想記の第二作が発表された。それが『ボヘミアの森と川 そして魚とぼく(Jak jsem potkal ryby)』であり、この作品をもって、彼の純文学者としての評価は揺るぎないものとなった。チェコでは今でも根強い人気を誇り、チェコの高校の必読図書リストにも彼の作品が登場する。
パヴェルの作品はドラマ化もされている。『美しい鹿の死』と『ボヘミアの森と川 そして魚とぼく』とをもとに『金のウナギ』というタイトルでテレビドラマが制作されており、これは日本でもNHKで放映されたので、ご覧になった方もいるかもしれない。
パヴェルの二冊の回想記のうち、第一作『美しい鹿の死』は2000年に千野栄一氏により紀伊国屋書店から邦訳が出版された。この作品は、オタの家族、とりわけ、個性の強い父を中心とした、おかしくって、ほのぼのして、ちょっと悲しい出来事を連ねた構成になっている。回想記の第二作は長らく紹介されぬままであったが、2020年4月、未知谷より、菅・中村の拙訳にてようやく出版することができた。この二冊は、もちろん一冊ずつでも楽しめるが、二冊そろうと、双方が補い合ってなお味わい深さを増すことだろう。この第二作目を日本で紹介できることが本当に嬉しく、また紹介者となれたのは光栄なことだと感じている。
日本とチェコとは遠い。昨今の可愛いものブームで、チェコの文化(人形アニメ、雑貨、コスメ、ボヘミアングラス、ガラスボタン、それにビール!)が紹介される機会が増えたとはいえ、まだまだ、チェコの文化どころか、チェコがどこにあるかご存じない方のほうが多いのではなかろうか。
訳者も、チェコ生まれ・チェコ育ちというわけではない。チェコの文化・慣習には、恥ずかしながら、むしろ疎いほうだ。だから、この本を翻訳するにあたり、いることいらぬこと含め、さまざまなことを調べたのだが、「へー!」「本当!?」と心の中で叫んだことが幾度もあった。得た雑学は増えれば増えるほど本の行間に深みをもたらしてくれる。しかし、訳者としては、もう少し積極的に、“誰かに言いたい”情報もあるのである。注釈として本に記載するほどではないけれど、「これを知っていると面白いよ」「こんな裏話があるんだよ」という知識をどこかで披露したくてうずうずしているのである。できることなら、読者をチェコ文学や文化の深みにどっぷりとはまらせてしまいたい、そう目論んでいるのである。
チェコを少し知っている方にも、全く知らない方にも、この本を翻訳する中で知った豆知識を、少しだけお伝えしたい。チェコをとてもよく知っている方、そんな方がもしもこのエッセイをお読みになったら、それはちがうよ、と思われることもあるかもしれない。その際には、どうぞご教授いただければ幸いです。
本作品について
本作品はチェコ語では『Jak jsem potkal ryby』というタイトルであり、直訳すると『ぼくはいかにして魚と出会ったか』である。ただ、読んでいただければおわかりになるだろうが、これは魚だけを主題とした物語とは言いがたく、ましてや、魚釣りの指南書でもない。回想記という形をとったパヴェルのボヘミア讃歌とでも呼ぶほうが正しく思える。パヴェルがいかなる人物かを知らない読者に、タイトルを直訳して戸惑わせるよりも、彼の思いに沿って少し踏み込んだ表現をするほうが、読者の心に届くのではないかと思われた。そこで、僭越ながら、邦題は『ボヘミアの森と川 そして魚とぼく』とさせていただいた。
物語の主人公「ぼく(オタ)」には、おやじ(レオ)、おふくろ(ヘルミーナ)、長兄(フゴ)、次兄(イジー、愛称イルカ)がいる。ぼくらはチェコの首都プラハに住んでいるが、父は田舎での魚釣りに熱中し、特にプラハからほど近いクシヴォクラート地方にあるベロウンカ川に出かけるのを好んだ。そこにはその地方で一番の釣り師、渡し守りのカレル・プロシェクが住んでいて、ぼくらはおやじとともにプロシェクおじさんとの魚釣りを楽しむ。戦中、ユダヤ人であるおやじと兄二人は強制収容所に送られ、ぼくと非ユダヤ系のおふくろは、おやじの地元のブシュチェフラットでひっそりと暮らしたが、戦後、幸いなことに皆が生きて戻り、一家は再びプラハで暮らす。頭に白いものが混じり始めるころ、兄たちは、再びチェコの田舎で子供のように魚釣りに没頭することを望み、兄弟はしばしば男たちの遠足と称してクシヴォクラート地方や南ボヘミアの田舎へと出かける。
作品は、【幼年期】【向こう見ずな青年期】【回帰】の三部構成となっている。
2020年4月13日 訳者記す
クシヴォクラート