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文章を公開する怖さ

2020年7月から3年半ほど、
けっこうな数の記事を書いてきて
noteに書いたものを、Facebookでシェアするということにもチャレンジした。

感じてることを書くのはとても楽しい。
内側を見つめて感覚を言葉におこしていくことで自分を知り、軸みたいなものがみえてきて
大切にしたいこと、受け入れられないことも
前よりはっきりした。
なのになぜか、長いこと苦しかったんだな。
と、今やっとわかった。

“こんな私”を公開することで、
離れてった人もいただろうし、
少なからず、心配もされたような気がする(笑)

何度も辞めようと思うたび、
それじゃ、自分を否定する事になるじゃないか!
まわりの目を気にして、自分を偽るのか!?
と、ファイティングポーズをとって
「わかってくれる人」に向けて公開を続けた。
この辺に、もう何かズレがあるよな(笑)

その度に現れる不安感と恐怖感を
意地と理屈で押さえつけながら‥‥
本当はずーっと、ビクビクしながら。

リアクションが、怖くてたまらなかった。
♥️がつけば合格点。
👍️だと、何かが足りなかった?
どこか間違ってた?と不安になる。
まったくもって、他人軸。
その不安感を認めることもしないまま。

そしてついに、辞めてしまう。疲れちゃって。Facebookにシェアした
300ほどの記事もひとつひとつ全部消した。
悔しさも寂しさもカッコ悪さもあったけど
消し終えたら、とてもホッとしたのを覚えてる。
人前で何かを表現するのは、とても怖かった。

あのときは、それしか方法がわからなかった。
とりあえず、逃げたかった。
後悔はしてない。よく頑張ったよと思う。

誰かのための文章だった。
いつの間にか、そうなってしまってた。
こんなんじゃダメなんだ、と、思ってた。
こんなんなら、書く価値もないと。

今ならどうするだろう?

自己主張したかった、認めてほしかった。
主張や表現の裏の孤独感や怖さを
今なら誤魔化さずに“ある”と言えるかも。

私の孤独ではない。
私の恐怖ではない。
今はなんとなく、それがわかる。
(すぐ忘れてしまうけど、まぁ‥‥(笑))
だから、あるものはある、と言える。

そこから、何が出るのか?
私にはわからない。
そこから書く文章は、内容がどうあれ
気持ちの良いものだろうなぁ。

何を書くか、じゃなかったんだな。
どこから書くか。
むしろ、書かなくてもいいんだ(笑)
ここにいること。
ずっと、ここにいたんだな。

私がやるのは、
いつもここから始めることだけ。




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