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日記 2024.9.1

ペットとしての自意識オバケ

 日記を書くのが苦手だ。そもそも自分のことを書くことも小っ恥ずかしいし、それだけではなく書いたことを自分のなかだけに留めておくこともちょっとしんどくなってしまう。
 なんとなく世の中の人間は、純粋に1人称みたいに生きている人とちょっと3人称寄りみたいに生きている人の2種類がいると思っていてて、わたしは後者の方の人間なのだ。それは別に客観的みたいなことではなく自意識が頭の斜め上らへんに守護霊みたいに貼り付いて始終何かぶつぶつ言っているということである。その自意識オバケをそこから引っ剥がして自分の両目のところに装着したいとずっと思ってきたのだが、なかなかそういうわけにはいかない。ヤケクソで頼んでしまったUber Eatsを待っている今だって、その自意識オバケは後ろからわたしの顔を覗き込みながら「川瀬はnoteで日記を書きはじめた。腹が減って不機嫌そうである」などと語り続けている。いい加減、放っておいてほしい。でもいなくなると少し寂しいので、時々適当な餌をやっている。
 まあ、そんな訳でわたしはろくに日記を書いたことがないし、書きはじめても大抵すぐにやめてしまうので、これもあまり続かないだろう。ただ、noteで公開する日記なら自分のなかだけに留めるものではないし少しは書けるかもしれないので、気まぐれに書く。

「好きな言葉はお菓子」と言える子ども

 昨日、小雨のなかピアノのレッスンに行くと、前のレッスンが続いていて4歳くらいの子どもがバーナムを弾いていた。そこで、三連符を練習するのに「好きな3文字の言葉教えて」と先生が言うので、子どもが「うーんとね、お菓子!」と元気に笑顔で叫んだ。その愛らしい発言に、その場は笑いに包まれた。「じゃあ、お菓子お菓子お菓子って言いながら弾いてみて」とレッスンは進行していくが、わたしはなんとなくにこやかに微笑みを浮かべながらも、やや腑に落ちない気持ちだった。本当にこの子は「お菓子」という言葉が好きなのだろうか。そう言っておけば大人が喜ぶと賢く察していたのかもしれない。あれが子どもの頃のわたしだったとしたら、きっと「お菓子」なんて愛らしく答えたりできないだろう。でも、小さな手でグランドピアノを弾きながらその子どもが本当に考えていることはその子ども自身でももうよくわからないのかもしれない。
 帰りは雨が本降りになっていて、向こうからやってくるバスのヘッドライトが眩しかった。バスに乗ってさっきの子どものことを考えていると、そういえば自分の子どもの頃もそういうところがないこともなかったかもしれないという気がしてきた。
 自分はどちらかというといわゆる空想好きの子どもだった。むしろ玩具やお菓子にはほとんど関心を示さず、ひとりで同じところをぐるぐる回って歩いたり、ひたすらにブランコを漕いだりしながら、読んだ本の続きを考えたりするのが好きだった。ピアノでバイエルを弾いても、タイトルの付いていない練習曲のタイトルを自分で考えて付けたりしていた。たしかにわたしは好きな言葉を聞かれても「お菓子」なんて愛らしい返答ができないような風変わりな子どもだったかもしれない。
 しかし、そういったわたしの奇妙な行動に「空想」という名前をつけて、「空想好きの少女」という役柄を与えたのはおそらく大人たちだった。「空想」は美しい名前だったし、「空想好きの少女」も自由で無垢な役柄だった。きっとそんな名前や役柄がなければ、わたしはずっともっとこの世界に馴染めなかっただろうから、そんな素敵な名前や役柄を与えてくれたことを大人たちに感謝しなければならないだろう。でも、そんな名前や役柄はある種の呪いでもあった。わたしは美しいものを愛する自由で無垢な少女でなければならなかったけれども、自分にそれを課した時点ですでにそういう存在ではなかった。バスを降りて傘を差しながらわたしが本当に考えていることはわたし自身でももうよくわからないのかもしれないという気がしていた。



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