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ルッキズムに糞喰らわされてる(週報_2020_07_13)

「マスク必須の社会になってから、ナンパが増えている」

そんなネット記事を見て、なるほどなと妙に納得してしまった。
ここ数ヶ月、私もその恩恵とも被害ともいえる現象に、わずかながら遭遇しているからだ。

記事はこう、結論づけていた。

「女性はマスクをすることで若見え効果があり、男性はマスクで顔が隠れているため声をかけやすい」

バイト帰り、横断歩道ですれ違った黒マスクの男性に「かわいい……」と呟かれたのは先週の土曜日のことだ。
マスク姿で暮らすようになってから多くて週に三度、街での声掛けに遭っている。

すれ違ったはずの男は再度後方から早歩きで私を追い抜き、姿形を観察したあと、さらに先のファッションビルの角で待ち伏せをしていた。
そして通り過ぎた私の後ろにぴったりとつくと、また「すごいかわいい……」を繰り返すのだ。

正確にいうとこれはナンパではないのだろう。
声を掛けてこないので断るきっかけもなく、むしろナンパよりもタチが悪い。

「あの……」「あ……かわいい……」「ねえ……」

ともすれば幻聴かというような声で、男は囁き続けた。
おそるおそる目玉だけを動かして覗いたショーウィンドウに、後ろ姿をつけ回す細身の男が映っていたのが見えたとき、私の背中にぞわっと冷たい汗の玉が浮いた。
真夏日だというのにご苦労なことだ。

男に利用駅を知られたくなかった私は、振り向かぬまま交番へ直行した。
三人の警官が立つ狭い空間に足を踏み入れ、意を決して首ごとぐりっと振り返ると、男はもういない。
怪訝そうな表情の男性警官たちに「なんかさっきまでずっとついてくる人がいて……すいません、もう大丈夫です、あははは……」と早口で言い訳をした。
すると、そのうちでも一番若い警官が「大丈夫ですか?駅まで送りましょうか?」と気遣いの言葉をくれた。

ここまで聞いたら、結局自慢かよ、なんて受け取る人がいるかもしれない。
私だって、相手や語り口によってはそうとってしまうだろう。
けれど私はこのどっちつかずの残念な容姿と付き合って、何十年にもなる。
どれほど自分の姿形が醜く、他人を不快にさせるものかを知っている。
加えて、私の体脂肪は41%もあるのだ。
警官へ食い気味に答えた「本当に大丈夫です!」のうち、「本当に」までは脂が喋っている。

私がこのつけ回し行為によって受けた一番の被害は、「醜いのに助けを求めなければならないという辱め」だといえるだろう。

*****

「他人はあんたのことそんなに見てないから」

私が年頃と呼ばれる年齢になってから以降、母から言われた言葉だ。
あるときは分不相応に着飾ろうとする私への戒めであり、あるときはありのままの姿で出歩くことに躊躇する私を奮起させるための、呪いの言葉だった。

誰も見ていない。

呪いの言葉は、やがて親しい友人に、恋人に、語り継がれるように繰り返し唱えられることとなる。
彼らの言い分は正しい。
皆一様に、自分の人生に忙しいのだ。
たった数秒、袖振り合うか否かの女に目をくれているほど暇じゃない。

「のろい」と「まじない」はその漢字が表す通りに紙一重で、その言葉で私がいくらか楽に街を歩けるようになったことも事実である。
それなのに、忘れた頃にまた、あいつらがやってくるのだ。

「おいブス!」「無理無理!!」「うわ~……」

大半の男性は経験がないだろうが、女には外を歩いているだけで容姿をこき下ろされることがある。
ただ息をしているだけですれちがいざま、見ず知らずの他人に口汚く罵られるのだ。

女性でも、そんなことにわかに信じられないと言う人もいるだろう。
だったらそれは、喜ばしいことですねと私は言いたい。
あなたはそんな目に遭ったことのない人生、それだけのことだ。

私にとってこんなことは日常茶飯事である。
そしてさらに信じがたいことに、こんな罵声を浴びている私とマスクの男どもにつけ回される私は、同じ時間軸を生きる、同一人物なのだ。

一見、矛盾しているような二つの事象が、私という人間を通して繋がっている。
でも私にはそのロジックが、ほんの少しだけわかる気がする。

たとえば。
私が七十を越えた、おばあさんだったら。
私が赤ちゃんを抱えた、お母さんだったら。
さらにいえば、その胸に抱かれた赤ちゃんだったら。

私がもし、少年だったら。
おじさんだったら、おじいさんだったら。
彼らは同じことを言うだろうか。
その答えがそのまま、私の思い上がりのようなロジックを裏付ける証拠となるのだ。

彼らは一度、目の前のまな板に私という魚をのせてから、「こんなもの、食えるわけがない」と汚れたシンクへ力いっぱい叩きつける。

そのとき彼らはほんの一瞬、私を食糧として認識している。
無意識のまま自らのまな板にのせたのは、他でもない君たちだ。
彼らが我に返ったとき、その気恥ずかしさを消し去ろうと、より魚は強く打ち捨てられる。

遺棄された魚はまだ生きている。
これ以上打たれないよう恨めしそうな目すら伏せ、息を殺して。
食べてくれだなんて、誰も言ってはいないのに。

私と、おそらく女性を中心とした私以外の幾人かが、この街をまっすぐに歩くことができない。
ああ、そろそろ言ってしまいそうだ。
彼らのヨレたTシャツの胸倉を掴んで、一方的に浴びせられた冷や水をいびつな顎の先から滴らせながら。

「ねえ君、今私のこと、女として見たでしょう?」

*****

久しぶりに花壇の手入れをしようとした私は、白いシャベルを握ったまま庭で身を硬くした。
つい最近まで色鮮やかに咲いていたパンジーの残骸に、むちむちと太った毛虫が何匹もついていたからだ。
どうやらパンジーは、花の終わった五月の末には抜いてしまわなければならなかったらしい。
昨年そのようにして抜き去ったあと、取り残した種が冬を越し、自然に発芽した。
そのことが単純に嬉しくて、名残惜しい私は花が枯れたあともパンジーを引っこ抜けないでいた。

それにしても、黒と橙の毒々しい配色の毛虫は一株に一匹どころではなく、見ているだけでも具合が悪くなるくらいに無数にうごめいている。
どうせ抜くつもりの植物だから殺虫剤をかけるだけなのだけど、私には息絶えた毛虫たちを寄せ集めることは容易くはなく、頭を抱えてしまった。

策を講じるためネット検索すると、思いのほか簡単に「それ」は見つけることができた。
どうやら毛虫は「蛾」ではなく、ツマグロヒョウモンという名の「蝶」の幼虫だったのだ。

「蛾」ではなく「蝶」で、「毒もない」
それは私の硬くなった身も心も同時に解かしてくれる、ありがたい情報だった。
なんでもツマグロヒョウモンの幼虫は、やわらかいスミレ科の植物が大好物だという。
かわいいな、私の育てたパンジーは美味しかったのだろうか。
次に植えたい苗があるわけでもなし、蝶になるまでたんとお食べ。

*****

数日続いた雨が止み、久しぶりに乾いた庭先に出ると毛虫たちはもう一匹もいなかった。
うそ、早い。
私の知らぬ間に、全部蝶になって飛び立っていったのか。
目をこらしていると、食い荒された青い茎の中に、枯草に擬態した茶色い空っぽのさなぎがぷらぷらと揺れていた。

「ごちそうさま、スミレ美味しかった、さようなら」

そうとでも言って去ってゆくと思っていたのか?私は。
考えたらおかしくて、肩をすぼめてくすくすと笑い、そしてやがて、真顔になった。

私ごときが、なんの権利があって他人様の生き死にを裁こうとしてんだよ。

蛾が生きることの何がいけないのか。
毒を持ったまま生きることの何が許されないのか。
いいか黙れよ、存在することだけを感じて、そっと、触れないでいればいいだけのことだろう?

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