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震災から前職スタートアップの創業まで

遠藤です。前回、noteらしくない散文から書き始めた自己紹介の続きとして、私の30代を振り返ります。

30代の始まりと、震災

教育系スタートアップを辞め、写真・映像製作で独立開業して数年、あっという間に30歳になっていました。その頃には「自己実現」のような渇望感が薄れていて、やはり得意なことを棚上げして新たな職業にチャレンジして良かったな、と思ったものです。少数の親しい人々と一緒に、納得がゆく単価で仕事をするという、マズロー的な成熟の時代でした。

そんな雰囲気を変えたのが2011年の震災でした。あの年の一連の出来事と社会の空気を、31歳の私は相当に内面化もしたし、その後の幾たびかの現地取材を通じて、自分の職業について、次の方向性を探し始めることになります。20代に着手して発展させた自営業にけじめをつけ、縮小をし、新しいことを始めようと。

イメージングのフロンティアはどこにあるのか

震災を通じて、コミットすべき組織や、解決すべき社会課題を見つけたのか? いいえ、そうではありません。被災地で見聞きをし自分でカメラに収めた事象を、私は一種の比喩として、システムの問題として考えるようになりました。例えば、何が食料供給のボトルネックになるのか、需要(避難所で不足する物資)と供給(全国からの救援物資)は、品目においても数量においても、なぜマッチしないのか。有限のリソースを、薄く広く被災者に分配すべきか、あるいはボトルネックになっているチームの支援に回すべきか。

撮影、取材という行為に関して言えば、現地の空気やエモーションを伝えるために、写真家やビデオグラファーの存在は絶対的に必要ですが、全く十分ではありませんでした。あまりにも広大な地域の、巨大な悲しみや放射能の恐怖の中で、写真がストレートかつニュートラルに鑑賞されることは困難でした。また、動画の撮影行為が必然的に含む演出が、現地で軋轢を生んでいました。「もう一度、そこに立って合掌して頂けますか」という撮影のセットアップや、小集団の全滅に近い被害のあった現場に集中する撮影行為が、次第に町の中で反感を買い、結果として、発信されるイメージはますます当事者との距離を感じさせるようになり、その状況に「撮らされた」ものだと批評されるようになったのです。

取材者がボトルネックになって情報の疎通が悪くなったり、事象の認識に齟齬が生じたりすることは当たり前にあります。しかし震災の現場を情報化と物語化のプロセスとして見たときに、当事者の手に握られたカメラやガラケーによって記録された映像やナラティブが、一次資料としての価値以上に、フォトジャーナリズムとしても一級であること、震災のイメージングのフロンティアが、当事者の撮影行為にあることを、私は確信しました。

撮影のプロフェッショナルが現場でいつの間にか当事者化してしまう。そんなポストモダンな手法も楽しいし、昔から好きなのですが、いつの時代も取材者は一種の異邦人、探検家として、当事者と「一夜を共にする」関係性を持つことしかできない、そういう自覚を新たにしました。

思考実験は仲間を呼び、仮定は組織を作る

震災から2年後に、私は後にClipLine株式会社となるスタートアップの創業に参加します。創業の経緯は当事者が何度もお話ししているので割愛しますが、異業種の数名のプロフェッショナルが毎日食事を共にしながらディスカッションを始め、「もしもこんなシステムがあったら」という仮定から、「それは私が作ろう、これはあなたに作ってほしい」という約束事、コミットメントが生まれ、小さな組織になりました。

私はシステムの利活用に不可欠なコンテンツを作ること、そのレシピを再現する技術者を採用してチームを作ること、そして顧客の中の当事者に、コンテンツのオーサリングの仕方を伝えること、をミッションとする担当者となりました。

ClipLineと私のミッションについては、5年以上前にWantedlyに書いていました。

その時の気分を尊重したいので、noteに書き直すことはしないでおきましょう。

続きはまた後日。

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