遠藤周作「沈黙」、さみだれな感想


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たしかにこの誰も知らぬ東洋の町に今、いるということが、夢のようでもあり、いや夢ではないのだと思うと、それは奇蹟だと大声をあげて叫びたくなります。本当に私は澳門にいるのか。自分は夢をみているのではないかと、まだ信じられないくらいです。

壁には大きな油虫が這っています。乾いたその音が、この夜の静寂を破ります。(30頁)
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辺見庸さんのエッセイで、ベトナム戦争時、現地から記事を電送する話があった。電話がつながるのを半日、1日と待っていると、どこからともなく現れたトカゲ2匹が合体してしまう。辺見さんはそれを見つつ、電話がつながるのをひたすら待つ。今でもそのことを思い出す。そんな内容だった。

油虫でもトカゲでもいいんだけれど、「任務」を果たそうとしている「待ち」の時間に、どちらかというとあまり歓迎されない生き物が出てくる、それは偶然ではない気がする。そいつが出てくることで、文章が妙にリアルになるからだ。


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彼が混乱しているのは突然起こった事件のことではなかった。理解できないのは、この中庭の静かさと蝉の声、蝿の羽音だった。一人の人間が死んだというのに、外界はまるでそんなことがなかったように、先程と同じ営みを続けている。こんな馬鹿なことはない。これが殉教というのか。なぜ、あなたは黙っている。あなたは今、あの片眼の百姓がーーあなたのためにーー死んだということを知っておられる筈だ。なのに何故、こんな静かさを続ける。この真昼の静かさ。蝿の音。愚劣でむごたらしいこととはまるで無関係のように、あなたはそっぽを向く。それが……耐えられない。(187頁)
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「そっぽを向く」という言葉に、初めて気づく(何度読んでいても、初めて気づく言葉が出てくるのはなぜだろう)。そっぽを向く。きつい言い方だと思う。

片眼の百姓の「無駄死に」すら、神様の計画の一部であることを司祭は知識として知っているはずで、知っているはずだからこそ「そっぽを向く」という言葉でその衝撃を表現したかったのか。


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(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)

「主よ。あなたがいつも沈黙しておられるのを恨んでいました」

「私は沈黙していたのではない。いっしょに苦しんでいたのに」

「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」

「私はそうは言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」

その時彼は踏絵に血と埃でよごれた足をおろした。五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。この烈しい悦びと感情とをキチジローに説明することはできなかった。

「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」司祭は外口にむかって口早に言った。(294頁)
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強い者も弱い者も、みなそれぞれの苦しみを生きている。

遠藤周作の、この視点にひかれて読み続けてきた。名前はあげないけれど、強い者、かたい信仰を貫いた人の物語は多々あるし、「ああなれたら」と思う人も多いと思う。でも、強い・弱いという「評価」になんの意味があるのか。すべての苦しみをともに背負うことこそが神様のの凄さではないのか。

と書きつつ、それが凄さだと書くことは、不遜だと思う。文字にして表明することで、「弱くてもいい」と言い訳しているのだから。全力で葛藤した喪のだけに、そう考える資格が与えられる気がする。


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聖職者たちはこの冒涜の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼等を裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違う形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までの全てが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。(295頁)
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「たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」という一文は、強烈だ。神様が語るのではなく、自分の人生が語るのだ。だから、全力で悩み、葛藤し、生きなければならない。

私はそんなふうに生きてきたとは、とても言えない。言えないから、この物語を何度も読む。きっとこれからも読み続ける。

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