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【好きなアーティストを好きと言えなくなって】一青窈から学んだこと

「カラオケのデンモクに曲をいれるのがとにかく嫌だった」

べつに、僕は音楽にとくべつ詳しいわけでもないし、音楽がなくてはいけていけないなんていう人生でもない。どちらかといえば音楽は好きな方かもしれないけれど、音痴だし、リズム感もない。

上京してたての頃、大学の友達とカラオケにいくようになったのだけども、僕は大好きな一青窈を入れていた。ただ、だんだんとカラオケの雰囲気ではなにか違うなあということを感じていた。ここで求められる雰囲気というのは、もっとみんなで盛り上がれる曲だったのだ。カラオケで「次、何入れる?」と聞かれるのが次第に怖くなって、デンモクをすぐ誰かに渡すようになった。

そして、いつも聞いていた「一青窈」をだんだんと聞くことをやめてしまった。周りに合わせなければ、大学の生活を楽しめない。そしてどんどん自分が分からなくなった。

これは、一青窈を通じた僕の日記のようなものである。

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「ええいああ、君からもらい泣き」

裸足で歌うアーティスト、一青窈。

名字も、名前も珍しい。

2002年10月。1stシングルのもらい泣きが発売された。当時、携帯はまだガラケーを使っていて、着メロでたくさんの「もらい泣き」をダウンロードした。8音、16音、32音、オルゴールver、着うたetc.とにかくいろんな曲がほしかった。

この時代といえば、大塚愛が人気で、男子はだいたいイナゴライダーや19を聞いていた。そんな中、僕は一青窈にはまった。不思議な歌詞。独特な世界観。顔をすこししかめながら歌う孤独感。インタビューを受けている雑誌の切り抜き、テレビ番組の全ての録画をして、wikipediaのプロフィールをよく眺めた。ファンサイトもほぼ全部毎日チェックをした。

なんで周りの人は一青窈の魅力を分からないのだろうと思い、勝手に友達に一青窈通信という名の僕の考察をおくりまくった。(6年にも渡り80弾近くまで送信したのは、苦い思い出というか、狂気)たぶん、中学・高校の音楽のほとんどを一青窈で過ごしたように思う。

好きな力はとても大きくて、一青窈が尊敬している作家、アーティストも好きになった。詩に興味を持ったし、海外にも行くようになったし、同じ大学にも入った。

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大学から僕は上京した。新潟から、東京へ。受験勉強と部活しかしてこなかった僕にとって、大学のサークルはとにかく楽しかった。そして、サークルのみんなとよくカラオケにいった。でも、僕はみんなが聴くような音楽をほとんど知らなかったし、もちろん歌えなかった。とにかく「天体観測」が正義で、「小さな恋の歌」を歌えば盛り上がるのだ。

この頃から、一青窈がどんどん遠ざかっていった。そして、中学、高校の頃にほとんど考えてたことがなった「周りに合わせる」ということを少しずつ覚えた。家に友達をよんで鍋パをする時も、「もらい泣き」は流さずに、エミネム、NE-YOをかけた。(今でも全く詳しくない)

ただ、徐々に、徐々に、自分の中から何かが消えていくようだった。世の中に合わせた自分。誰かに合わせた自分。当時、mixiで大真面目に「who am I 」なんて日記を書いたくらいに、自分が分からなくなった。

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社会人になってしばらくして、また一青窈を聞くようになった。自分の好きなことは大切にしないと、どんどん消えてしまう。誰かに合わせる必要なんてないんだって。そして、カラオケにも、あまり行かなくなった。

今はどんなアーティストが好きなのって聞かれると「一青窈かな」って答える。でも誰かに強くオススメをする訳でもなく、数あるプレイリストの1つとして毎日聞くのだ。

じぶんが好きなように生きることは大切なのだ。一青窈を聞いていると、そんなことをふと思い出す。

16年前の僕へ。

自分が主催するフェスに一青窈さんがきてくれました。当時では、もちろん想像も出来ないと思います。好きがこうして、未来でつながることって本当に嬉しいね。自分の好きを大切に。

終わり。

ありがとうございます!また新しい旅に出て、新しく感じたことや学びを言葉にできればと思います!あるいは美味しいお酒を買わせて頂きます。そして、楽しい日常をみなさんにお届けできれば。