見出し画像

韓氏意拳備忘録 ~ 在り続ける ~

「ただ在る」こと

昨日は今年初めの韓氏意拳初級講習。
日常では、だいたい2日に1回ほどのペースで、形態訓練と站椿をひととおりやっている。
毎度、やりながら、これでいいのかな?という不安感とともに、状態(未知)を切らないようにやっているが、韓氏意拳は目に見えて何かができるようになるものではないので(むしろその逆)ずーっと「これでいいのかな?」という想いと共に今後も続けるのだろう(苦笑)

さて、昨日の講習も大変興味深かった。

「はい、そのまま、在り続けてください。この空間とともに在り続けてください。」

新しいワードが出てきました。
「在り続けて下さい」

これまでは
「状態を切らないでください」
「未知を保ってください」
「意を外に向け続けてください」
というコールはありましたが、
「在り続けて下さい」
という表現ははじめてで新鮮でした。

「在るという状態は、無色透明で具体的に表現できるものではありません」
「どうこうせずとも、すでにいまここの空間にこの身体は存在してます」
「その存在をそのままに、在り続けてください」

先生はそういって、前に出した右腕を、上から、横から、下から軽く押す。

「はい、在り続けてください。存在を切らないでください。抜けてます。」
確かに「ただ在る」という状態でいるときは、手を押されても体が崩れない。
でも下から上にあげるように押されると、あっというまに腕があがってしまう。
これは僕だけではなくて、多くの人がそうなるようで、下から上に押されると反射的に肩に力が入り抵抗するとのこと。
力が入ると全体性が途切れるのであっというまに崩れてしまう。

「ただ在る」という状態のポテンシャルの高さを改めて自覚させられるトレーニングだった。

「在る」と「確認」の違い

先生
「この腕が存在しているその状態をキープしてください。ただあり続けてください」

そこで疑問が湧く。

「腕を意識すること」と、「腕という存在をそのままキープすること」の違いはなんだろう?

先生
「在るというのは、何もわかれてない状態。
腕を意識することは、確認です。
この2つは違います。」

ああ、なるほど、確認というのは、「腕」とそれを感じている「自分」という「分離」が起きているので全体性から離れているということだな。
在るというのは、空間がある、身体がある、いまここがあるという、どこにも分離が生じていない、分離と計らいが生じていない状態のことだな。と。

「ただの空間」が持つポテンシャル

ただの空間という表現も変だが、いまここで湧き続けている現象、場、というものは、そこに「分離」や「計らい」という思考が介入しなければ、全宇宙の知性と変化が常に作用し続けている。
ここに存在している身体も、全宇宙の表現そのものとして生じていて、現象全体が発するエネルギー・変化とともに、身体固有の流れるような変化応答を表出し続ける。
しかし、意図・計らい(思考によるコントロール)が介入すると、その全体性は途切れ、大海が水たまりになり、全体が放つエネルギーは途切れ、身体固有の表現が途切れる。

韓氏意拳は本当に興味深い。
自身の「自然でない状態」に毎回気づかされる貴重な機会だ。
これは自分だけで練習していても体験できない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?