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#9 体で辞書を引くことについて

宮沢君が辞書を語ったので触発されて、考えてみた。さて自分の周りの辞書をぼんやり眺めてみた。

中学校時代に漢和・国語・英語・・ここで辞書の引き方は学んだ。高校では世界史・日本史・地理・社会系の辞書、そして研究者の英和辞典。

ざっと見まわして身近にあるのは。平凡社百科事典 経済学辞典(岩波) 政治経済辞典 倫理学辞典  哲学辞典  英和辞典 広辞苑 西洋音楽事典 農民生活史事典、書きだすと割合とある。実際どれほど引いたかは怪しい。

辞書を引く回数は、おそらく、正確に何事かを他者にむけて記述・説明するとき、つまり、アウトプットの回数と相関するんだろうと思う。論述文には必須になる。

つまり、いい加減なことを書けないので、必然的に辞書類は多くなる。心理学事典・教育心理学の類、中国故事成語事典、などなど増える。

辞書の多さが知識と教養の多さを象徴するとは思えないが、自身がいかに無知かと知れば、辞書が自然にあつまってくるとしか言いようがない。

そこには調べるという行為がある。調べる行為は、興味関心と疑問からなる。その動機付けがない限り、調べない。調べる機会が必要なのだ。

宮沢君のいうように、ネットと電子辞書でも簡単に調べることができる。しかしその場合、対象の多くは、おいしい食べ物屋や欲しい商品といった情報化された商品であり、消費行動への誘導路に近い。

なにがいいたいのか。一つは、なんで辞書を引くのか?ということ。

そして、紙媒体の辞書を引くには五感と体全体の動作と操作が必要だということ。辞書を引くのはある意味、文武両道なのである。剣道や柔道の構えがないと、引けないということ。ネットを引くときは体幹とは無縁である。


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