見出し画像

#101【放送後記】第17回ふりかけラジオ「物理法則は経験できるか?」

6月8日に第17回ふりかけラジオを放送しました。
今回の放送はこちらからお聴きいただけます。

物体の落下は経験できるか?
がテーマです。
落下そのものは知覚できるのか。落下の状況そのものを知覚できるのか?
この問題をイギリス経験論の集大成をしたのがD,ヒュームの主張。結論からいうと、落下自体は経験できないし知覚もできない。ということ。

ヒュームは経験とは知覚だとする
知覚できないものは経験ではない。落下するボールは観察はできても五感で知覚できない。ボールから手を離したその感覚と、落下したときのその音の感覚がある。それだけ。その間の落下そのものは知覚できてない。知覚できないから経験ではない。それは落下の最初と落下の最後の現象の知覚に相関関係がある、というだけのこと。

経験とは知覚。
暑い。冷たい。うまい。やかましい。おいしい。眠い。退屈だ。お腹すいた。など、あらゆる知覚・感覚で生きているのは人。人は「知覚の束」でできている。

人は単純に知覚の集まりの束でしかない。
それがなんとなく関連づけられて相関性をもっているから、そこに因果関係をつくってしまう。

理性が圧倒的に優位な時代にあっては、知覚や感覚は個人的で、動物的であてにならない下等なものというのが哲学の前提にあった。それを疑ったのがヒューム。

理性で判断しているといっても、それって勝手な判断ではないのか?これをヒュームの懐疑論という。

落下自体を経験できないのと同じことは、神そのものを論じることができるのかというこよにもなる。

  1. 理性という経験できいないもので、知覚=経験を判断することが本当に正しいのか?

デカルトの懐疑論は、疑いようのない自分を定立した。疑っている自分は正当化されている。

ヒュームは、知覚しているもの以外は信じられないという。知覚が唯一であるという。とすると、考えている対象自体が知覚不可能だとしたら、それを理念という知覚できないもので論じられるのか。理性を優位に置く合理論は大丈夫なのか?

カントは知覚し認識し、それが何かを判断する、と考えた。まず目の前に名前のついた物体があるのではなく、その物体を自分が知覚して判断し認識してそれがスマホだとわかるのだ、と。対象が認識に従う。認識がことなれば対象だったことなる。

カントは、ヒュームの懐疑論にぶちあたり、自分の考えてきた理性と悟性の世界がひょっとして、それは頭の中での妄想かもしれないと気づく。「独断のまどろみ」である。感性が必要になる。

「なぜ知覚できないもの」について「考えられるのか」
ということについて哲学は考えてこなかった、ということにカントは気づく。経験によらない形而上学は、経験可能なものを経験不可能なもので解釈していく学問。目の前にあるケーキという経験できるものを経験できない透明なナイフで切り分けるようなもの。

世界は経験可能であるけれど、プラトンのいうイデアは経験不可能である。「世界はイデアでできている」といったらそれは無理でしょう、ってなる。神とか魂などもそれ。

そこでカントは経験論と合理論の統合的な解釈に挑む。どうやるか?。


「ふりかけラジオ」は隔週(毎月第2・4)土曜日の21時30分から、FM805たんばに乗せてお届けしています。
次回は、2024年6月22日の21時30分からの放送です。
FM805たんばの受信地域外の方も、こちらからインターネットサイマルラジオでお聴きいただけます。
それでは、また次回の放送でお会いしましょう。おやすみなさい。