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なぜ毎日書こうと思ったのか

不覚にも午睡を取ってしまった。え、いいんじゃないの、と思われたかもしれないけれど、目が覚めたら夕方の5時、なんと4時間も眠っていたことになる。しかも、嫌な夢を見た。若干、不愉快な目覚めである...

足元にいる犬の気配を感じながら、手に持っていたはずのスマホをソファの上で探り、noteを開いて目に飛び込んできた記事は、

藤崎羽琉さんの『スキなことだけ書いていたい。』 だった。

『理由と目的』『効果的な動機付け』の部分を読んでいる頃には、朦朧としていた意識が戻り、横になっていた体の重たさを忘れて自然に身を起こしていた。

私が今、noteを続けている理由と目的は、一体なんなのだろう。動機は何なのだろう。という問いが生まれてきて、それを書き出したくなったからだ。


理由1:書くことが好きだから

私は書くことが好きだ。それが理由の一つだろう。でも、毎日続けたことはなかった。書きたい時にだけ書いていた。きっと、そういう方は多いに違いない。ところがそんな私が、毎日書くことを決めた。今日で9日目になる。きっかけは、『エッセイがうまくなりたかったら、毎日書くことだ』という辻先生の言葉だった。(私は作家辻さんを密かに師と仰いでいる)


理由2:本物のエッセイを書けるようになりたいから

つまり、「私はエッセイが書けるようになりたい」から毎日書くのだ。書けば必ず書けるようになる、と先生は言った。ある時、自分はエッセイを書いているつもりで書いていなかったという事実を痛いほど知った。それまで私が書いていたのは、ただの感想文だった。同時に本物のエッセイを書くことが、いかに難しいのかを知った。

そもそも「本物のエッセイ」とはなんぞや。

フランス語を語源とする「Essai エッセイ」には、本来、哲学を語るという意味がある。エッセイを書いている、と言うと、フランス人には「お前は哲学を書いているんだな」と解釈されるらしい。

つまり、エッセイを書くことは、日常の出来事を通して自らの潜在意識、精神世界と深く繋がることを意味する。魂の深いところを表現する、一つの方法が「エッセイを書くこと」なのだ。


それでは、毎日書くことで私はどうなりたいのだろう。何を得たいのだろう。

たった一行に出会うことで、目の前が明るくなったことはないか。言葉が心のひだに触れて、涙が溢れたことはないか。そんな読書体験を通して、言葉がもつ素晴らしい力を人は知っている。誰にも書く自由は与えられていて、書かなければ自分の中で終わってしまうことも知っているし、もし書けば誰かの目に届くかもしれないことも知っている。エゴかもしれないけれど、そんなことで人との繋がりを感じたいのかもしれない。

書きたい時に書くことならば、今までもやってきた。やったことがないのは、毎日書き続けることだけだ。書くには、体力も時間も必要だということを知っているから続けられなかった。好きなことで苦しみを味わいたくないからだ。

けれども、続けた先には、今の私が知らない「私」が存在することを、私は知っている。その私に出会いたいから続けるのだ。眠っている可能性があるかということを人は知っているから。

辻先生には見えていて、私にはまだ見えていない世界。続けた先にはそんな世界の一部があるはずだ。そこを覗けるということは、自分の可能性を覗けるということになる。その世界を知りたいのだ。

より深く自らの深淵に繋がり、表現し、私の中にあるものを形として残す。それは誰にでもある欲求だ。手段がみなそれぞれ違うだけで、私にとってそれは書くことなのだ。






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