2024年 共通テスト:日本史B 大問6

少し更新が遅れてしまって申し訳ありません。

大問6:
小問数:7 2度の世界大戦後の日本と国際社会の関係がテーマ
 4つの文から正文を1つ選ぶ問題、2つの文の正誤判定をする問題、正誤を組み合わせる問題、年代整序問題、空欄補充問題。全体的な問題構成については例年のようにシンプルなものとなっている印象がある。
史料1〜3:ワシントン海軍軍縮条約(問1 Xの史料など)
※問1の史料1〜3については、『日本外交年表竝主要文書』より
史料4:『太平洋戦争への道』
解答 問1:5 問2:4 問3:3 問4:1 問5:3 問6:4 問7:2

問1 解答:5
X:ワシントン会議で調印された条約の一部分
Y:ワシントン会議で廃棄された条約の一部分
 Xについて、「主力艦建造計画を廃止」を規定しているのはワシントン海軍軍縮条約の一部である史料3となる。
 Yについて、ワシントン条約で廃棄された条約は、日英同盟協約であるので、それが明記されているのは史料1となり、史料中の「両締結国のどちらかが自ら挑発せずに(中略)その領土権や特殊利益を防護するために交戦する時は(中略)他の一方の締盟国は(中略)共同して戦闘に当り、講和も同様に両締盟国が合意した上で行う」とある。ワシントン会議では4カ国条約も結ばれ、史料1の日英同盟協約の終了が同意された。

問2 解答:4
★不戦条約の締結(1928年)は、田中義一内閣の時の出来事。
④:1925年、加藤高明内閣のもとで制定された普通選挙法に基づく選挙は、1928年の衆議院議員総選挙にあたり、この段階では内閣が田中義一となっている。そのため、「この条約に調印した内閣」として当てはまる。
①:「幣原喜重郎を外相に起用し、列強との協調を重視する外交を展開するとともに、ソ連との国交を樹立した」のは、加藤高明内閣の時で、ソ連との国交に関しては、「日ソ基本条約」の締結によって樹立している。
②:「無政府主義者の青年が虎ノ門(虎の門)付近で摂政官(皇太子)を狙撃した事件の責任をとって総辞職した」のは、第2次山本権兵衛内閣の時。また、虎ノ門事件は1923年の出来事。
③:「アメリカによる共同出兵の提唱を受けて、同国およびイギリス・フランスとともにシベリア方面に出兵した」のは、寺内正毅内閣の時。1917年のロシア革命を受けて、翌年にシベリア・北満州への派兵を決定した。なお、国内では、シベリア出兵を見越して商人による米の買い占めが起こり、米騒動が起こっている。

問3 解答:3
X:史料4によれば、日本は関東軍の行動に制限を加え、満鉄の警備を中国側に任せることにした。⇨誤文
Y:史料4からは、日本政府内では中国に関する問題について既存の条約などに違反しない方針が検討されていたことがわかる。⇨正文
満鉄の警備を中国側に任せることはない。
また、Yの史料中で「それぞれの措置の実行にあたっては、つとめて国際法ないし国際条約抵触を避け、特に満蒙政権問題に関する措置は九カ国条約などの関係上、できる限り中国側の自主的発意に基づいたような形式にするを可とす」とされていたため、「日本政府内では中国に関する問題について既存の条約などに違反しない方針が検討されていた」は正しいと判断できる。

問4 解答:1
a:既存の国際秩序に批判的なドイツやイタリアに接近した。
b:重慶の国民政府を「対手」とする声明を出して、日中関係を改善した。
c:北方の安定を確保して南進政策を進めるため日ソ中立条約を締結した。
d:独自の経済圏を作るため、日本は日米通商航海条約の廃棄を通告した。
aについて(正文)
 1936年当時の日本の内閣は広田弘毅内閣。1936年11月に、反ソ連・反共産主義を目的に日独防共協定を結び、ドイツに接近した。さらに1937年、イタリアが防共協定に参加して日独伊三国防共協定が締結した。締結時の内閣は、第一次近衛文麿内閣。
 この協定は、1940年9月の日独伊三国同盟(第2次近衛文麿内閣の時)が締結につながった。
⇨国際的に孤立していく三国。反ソ連・反共産主義の立場で結束。枢軸陣営が成立。そのため、「既存の国際秩序に批判的なドイツやイタリアに接近した」は正しくなる。

bについて(誤文)
 日中戦争の開戦は、1937年7月のことで、この時の内閣は第一次近衛文麿内閣の時。開戦後、日本軍は12月に首都南京を占領したので、国民政府の首都は南京から武漢、さらに重慶へと移転していく。
 日本国内では、南京陥落により強硬論が優勢となり、このような情勢の中で、1938年1月に近衛声明(「国民政府を対手とせず」)を出した。そのため、「〜日中関係を改善した」が誤りとなる。

cについて(正文)
 日ソ中立条約は、1941年の第二次近衛文麿内閣の外相松岡洋右とソ連のモロトフ外相との間でモスクワで調印された。内容としては、中立友好や不可侵などを内容としている。有効期限は5年とされている。また「北方の安定を確保して南進政策を進める」意図のもとで締結されている。

dについて(誤文)
 この頃、日中戦争が長期化していた。
 1939年の2月、日本軍はアメリカやイギリスなどが重慶を拠点としていた蒋介石に支援物資を送るための援蒋ルートのうち、仏印(=フランス領インドシナ)経由のルートを遮断するために、中国南部の海南島を占領した。また、日独間の軍事同盟締結の動きもあり、1939年7月、アメリカは日米通商航海条約の廃棄を日本に通告した。
⇨翌年1940年1月に失効、「日本は日米通商航海条約の廃棄を通告した
」が誤りとなる。

問5 解答:3
選択肢
①:占領軍によって、軍人や政治家など戦争中の責任を問われた人物が公職から追放された。
②:アメリカ教育施設団の勧告に基づき、教育の機会均等をうたった教育基本法が制定された。
③:戦時期の抑圧的な風潮が継続し、明るくのびやかな歌謡曲は日本政府によって規制された。
④:日本政府による言論統制が解かれ、政治批判を含む言論が盛んになる一方で、占領政策に対する批判は禁止された。

③について
 戦争から解放された国民の間では大衆文化(大正時代の文化)が広がり、事例としては、歌謡曲で「リンゴの唄」が大流行したことや美空ひばりが登場したことながある。
⇨「戦時気の抑圧的な風潮が継続し、明るくのびやかな歌謡曲は日本政府によって規制された」は誤り。

①について
 1946年1月の公職追放では、民主化政策の一環として、戦争犯罪人・陸海軍軍人・超国家主義者・大政翼賛会の有力者らが追放された。
※1948年5月までに各界指導者約21万人が戦時中の罪を問われて職を追われたとされている。
⇨「占領軍によって、軍人や政治家など戦争中の責任を負われた人物が公職から追放された」は正文となる。

②について
 教育の民主化については、
1946年3月に、GHQの招請によってアメリカ教育施設団が来日し、その勧告に基づいて、
1947年に教育の機会均等・義務教育9年制などを規定した教育基本法、六・三・三・四制の新学制を規定した学校教育法が制定された。

④について
 民主化方針のもとで、思想や言論の自由は認められたが、占領軍に対する批判は禁止された。
※1945年9月:プレス=コード(日本に与うる新聞遵則)/ラジオ=コード(日本に与うる法則遵則)で禁じられる。
⇨「〜言論統制が解かれ、政治批判を含む言論が盛んになる一方で、占領政策に対する批判は禁止された」は正しい。

問6 解答:4
Ⅰ:アメリカが「琉球諸島」の権利を放棄する協定
Ⅱ:アメリカから経済的援助を受けるとともに、自衛力を増強する義務を負う協定
Ⅲ:在日アメリカ軍の「極東」での軍事行動に関する事前協議を定めた条約

Ⅰ:1971年の沖縄返還協定
Ⅱ:1954年のMSA協定
Ⅲ:1960年の日米相互協力及び安全保障条約

問7 解答:2
アについて

 1951年9月にサンフランシスコ講和会議が開催され、サンフランシスコ平和条約が調印される。翌年に発効し、日本は国際社会への復帰を果たす。
⇨会議への招請を受けた国の中で、ユーゴスラビア、インド、ビルマ(
現:ミャンマー)は会議への参加を拒否、ソ連やポーランド、チェコスロバキアは参加はしたが条約の内容に反対して調印を拒否。
⇨中国に関しては、中華人民共和国、台湾の中華民国ともに招かれず。
★朝鮮戦争の影響もあり、日本を早い段階で国際社会に復帰させたかったアメリカ側の思惑もある。

イについて
 1972年に日本と中華人民共和国が両国間の「不正常な状態」を終結させるために日中共同声明に調印する。有効条約締結の交渉を行うことを確認しており、1978年の福田赳夫内閣の時に、北京で日中平和友好条約の調印が行われている。

史料が多く、正誤判定は時代背景を知っておかないと解けないような問題が多かったが難易度としては標準〜やや易の印象だった。
選択肢をしっかりと確認すれば正しい・間違いについては判断しやすいものが多く、史料内容も難易度が極端に高いものでもなく教科書レベルのものだといえる。受験生としては、戦争前後の外交史の把握、戦争が起こった原因(国家間での思惑なども含めて)も背景知識としてしっかりと学習してけば十分に対応できた内容だったといえる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?