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αというカメラのお話

1985年世界で初めて本格的オートフォーカス一眼レフカメラ『α』を開発販売したのはミノルタ、それは一眼レフカメラに革命をもたらしました。

カメラが自動でピントを合わせてくれる技術はそれまでコンパクトカメラでのオートフォーカスはあったものの、一眼レフとしては初のボディ内制御カメラとして本格的に製品化された技術でした。発売されるやいなや売れに売れたミノルタα-700でした。しかしそのオートフォーカスの技術は特許侵害であると2年後の1987年にアメリカで訴訟を起こされ敗訴。その問題となったオートフォーカス特許はミノルタが調べきれなかった、知らなかったどころか表にすら出ていなかったそうです。

特許が出されていた時点では潜航して見えなくなっていたそれは、ミノルタが製品化した時点で潜水艦のように海上に浮上してきた特許、まず最初に製品化した企業がその悪魔のようなカードを引くはめに遭うものとして「サブマリン特許」としても話題にもなりましたが、その1億ドル(約122億円)の和解金はミノルタにとっても決して安いものではなかったようです。やがてそれは大きな傷となり、他の各カメラメーカーもオートフォーカスカメラで追従してくるなかで経営が危うくなったミノルタは2003年にコニカと合併してコニカミノルタへと移行していきます。

コニカミノルタとしてしばらく継続してきたカメラ事業も3年を迎えられないほどに体力はなくなっており、それまでの培われてきた技術が生き残る手段として¥カメラ部門の譲渡先を探していました。2006年、その引き取り先となったのが当時はコンパクトデジカメのサイバーショットしか持っていなかったソニーでした。

当時ソニーのカメラといえば奇想天外な形をしたサイバーショット。ソニーによくある独特の尖った考え方を持ったコンパクトカメラとして人気を博していただけに、旧ミノルタ部隊とサイバーショット部隊は仲が良いとは言えず、お互いの棲み分けを模索していたようにも見えました。ソニーに転籍、転職となったα部隊は当初は旧ミノルタ事業部のままに大阪に事業所にて活動してを模索していました。

利益の上がるものには予算を注ぎ込み、規模を大きくして回転を上げていく。しかし利益の見込めないものは容赦無く切り捨てるようになっていた新生ソニー、そこにあったのは盛田さん時代にあったものづくりSONYではなく、アメリカ企業としてのソニーでした。

数ヶ月ののちに事業所は東京に移転させられましたが、サイバーショット部隊は港南口の本丸、α部隊は品川駅の高輪口の隔離された場所にありました。やがてα部隊も本丸内に移転するのですが、そこは同じ本丸でも棲み分けられた部署、予算のないままのミノルタ資産の焼き直しで継続していくしかありませんでした。

少なくはない回数のミーティング、開発の技術者の面々と私自身はプロの現場の話、カメラに求められているものなどを話し続けました。ある時は外食をしながら。「いつも会議室ではなんですので、今日は飯食いながらにしませんか?」。そこで語る私は食べることも飲むことも出来ないまま2時間以上も話続けました。そして「今日はこの辺で!」とお開きになるのですが、そこで出てきた言葉は「石島さんは5000円でいいです」。これが当時のソニー、αが託された場所でした。

ある日の品川本社、それまでにないほどの人数、すべての開発者数十人を前にして開発者向けセミナーをおこなった時の話です。すでにソニーαという名前の付いた一眼レフカメラは、使い物にならない最初の本体から始まり、700、900、500、55など必要以上に種類だけは出ていました。レンズはツアイスの冠の付いたタムロン外注品のソニーブランド。

「皆さんは自分の子供の運動会、学芸会、親友の結婚式の撮影を頼まれたとして、何のカメラを現在お使いですか? 使いたいですか?!」

出てくる答えをあらかじめ想定した質問を投げかけました。出てきた答えは当時のカメラ市場が物語っていたものと同じでした。それはCanonかNikon。想定通りまんまと的中してしまいました。

撮影者として仕事ではなくとも自分が失敗したくない大事な撮影、2度と撮り直しのきかない撮影、そこに使うカメラです。そこで自分で作った機材に誇りを持てずに使えていない機材をお客様に売るというのは開発者として失礼極まりない話だと思ったからです。

やがて金融会社かと間違えるような業績でソニーは上昇へ向かいました。ミラーレスカメラはビデオカメラとしての役割を見つけ出した。そうして現在のように広告宣伝費、開発費を使いα事業部はマーケットを広げていきました。今も生かされているαの基盤にあったものはソニー以外に堂々と頼るというある意味尖った当初からのコンセプトでした。携帯電話のカメラ機能の充実で売れなくなってしまっているカメラ市場にいかに喰い込んでいかに拡張するかという話から出たものでした。大阪での事業所での話からでした。

「マウント規格をオープンにして各会社に勝手に作ってもらって全部のレンズがαに着くようにしてしまいましょう」

現在新旧交えてすべてのレンズが装着できるカメラ、しかも他社製品マウントが不具合もなく使用できるには電気信号をオープンにしたことによります。しかしαの開発上一番の出来事は軌道に乗りかけたカメラ部門から旧ミノルタの残党を外すことでした。その中心にいたものはブラジルに飛ばされ、その後パソコンのVAIOに移動させられ、部署ごと切り離し。ある者は自ら退職。

「石島さんに言われたこと全部入れました」そう言われながらも手にすることもなく、いまだに一度たりともシャッターを押したこと、使ったこともない歴代ソニーで一番売れているα、個人的にそれはまさに仏造って魂入れずのまま終わりました。

「撮れないものはない」

そう噂された性能は耳にしていました。実際にそれを貸し出されて使っていた”写真が巧い友人”とも会話しました。

誰でも何でも撮れるというのは実は撮影という行為自体をつまらなくさせてしまっている。そこで撮影された写真をつまらなくしてしまっているということにほかなりません。

そこに撮影するという意思やこう撮りたいという創意工夫もなく目の前にあるものにレンズを向けてシャッターを押しただけの写真になってしまうということへ気づける者は使わないカメラ。まさにそこには魂はありません。

電子レンジのチンだけ、デリバリーでの食事は空腹を満たすだけの虚しさである。しかもそれが高級料亭ほどの値段設定されていると気がついた時、消費者は自らが素材から調理して楽しむことを見出すのではないでしょうか。時代とともに一世を風靡したウォークマンやVAIO、今では見る影もなくなってしまったそれと同じ道をこれからαが歩む気がしてなりません。

ミノルタのブランド名は前身の日独写真機商店、創業者の田嶋一雄さんによって付けられました。やがて企業名になったこの名称は『稔るほど頭を垂れる稲穂かな』からきており「常に謙虚でありなさい」と言っていた田嶋さんの母親のことを肝に銘じておきたかったからとも言われています。

井戸を掘った人への恩を忘れればそれはやがては怨となってしまう。そんな企業が製造販売するものが文化を造っていけるはずもありません。ましてやこの国ではいつまで経っても写真が文化になっていない国であります。



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