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誰が撮っても同じな写真に撮影者はいない

先日、うちの伴侶が「写真集作りたいから」と呼び出され、打ち合わせかと思いきや「君のインスタに載せている写真を撮影した人々はライティングが素人以下」、「君は特徴がない」だの「ファストフード」だの。呼び出しておいて「時間がもったいない、こんな時間あったら俺だったら創作する」だのと言われてきたと屈辱されたまま帰宅してきました。どれ程凄い方なのかと名前を検索して、撮影なされた写真を拝見いたしましたが・・・(汗)。

写真は撮影者自身を表します。わかります。写真を観るとその写真を撮影したひとの性格すらわかります。写真は被写体を撮っているのではなく、撮影者が被写体をどうみているか、どう感じているか、どう想っているかがよくわかります。人物写真だけに限らず。

誰が撮っても同じな写真、そこにその写真の撮影者はいません。

周りに恵まれ、その写真ではなく撮影者でもなく、仕事にだけはなっている方、写真を観る目もなくても力やカネだけあるひともいます。だから稼いでいるひとが巧いとも限りません。某有名自動車会社の広告写真撮影、広告代理店の撮影者選定は「名前」だけで選んでいます。有名な方の御子息というだけです。

さすがに34年も写真を仕事にしているといろいろな方々にお逢いする機会を得てきました。「コンテスト荒らし」かのように学生時代は各コンテストに毎回入賞以上の実績を残し、職業にしてみたものの写真家としては通用しなかった者。上手い訳でもないのにサラリーマンとして写真エージェントの営業してきた強みを生かし、撮影者として独立して成功を納めた者。ドイツに暮らし現在もフィルムでしか撮影していない者、下手くそレベル以下(笑)なのに語学力だけでスペインで写真撮影で暮らせている者などいろいろ。

自分の下手さをわかってこその成長。

自らの被写体(ひと、もの、こと、情景、風景)をけなしているようではその撮影者が写真を撮ることは出来ません。他人を認めず、自分がわからず、いつも喧嘩腰のガムシャラさ、攻撃的な写真も大好きでわありますが、それは若手だけの特権。

他人嫌いな私、しかしひとを撮ることが好きな私。巧いひとの写真を観るのも好きな私。


気持ちの良い写真が観たいなぁ〜撮りたいなぁ〜

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