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野良犬という自由

昨年の後半、久々に新しい外気に触れる機会を得ました。有名アパレル関係でのことでした。そこで出会った人達は頻繁に「怒られるから」という枕詞を必ずつけて「怒られるから・やる」「怒られるから・やらない」と自らの行動を他人からの叱咤や叱責、兎にも角にも「怒られる」事を枕にして次のアクションを決めていました。自分への燃料にして自らの尻を叩いての行動を行なったり、言い訳にして動かなかったり。残念なことにそれは人生経験豊富だけど世渡りを覚えてしまった年配者、殻を破りながら突き進むべきの若者、老若男女を問わずに皆一様に。

これは「非常に日本人的」と一括りにして右へ倣え的な考えとして受け止めたら簡単に終わることなのかもしれません。そうやって各自が自らが秩序と自覚を持ってきたからこそこの国は綺麗で統制がとれた平和な国とされてきました。突然のパンデミックにおいてもまるで強制であるかのように各自が「自粛」をとらえ、夜などはまるでロックダウン。しかし行き過ぎた「自粛警察」や「マスク警察」といったモノどもを産んでしまいました。自らが正義の代弁者であるかのようにそれを振りかざしたおかしな時代にも私たちは遭遇しています。

自らが思う正義感を振りかざし、自己を中心として自分勝手に考え行動しながらも「長い物には巻かれろ」と他のものには強制をする。果たしてなにが正しいのかもわからなくなりつつある世の中で、その実他人からの「怒られるから」「**警察」を言い訳にする方が意外にも自分が楽に生きられる方法なのかもしれません。

人は、少なくとも一種の”制約”がある方がその中で工夫をして新しい何かを見出すことができます。例えば米国月面探査『アポロ13』のトラブル時にもあった「これだけの道具だけでフィルターを作れ」という乗組員の生死に関わるミッション。これも物質的なものと限られた時間との制約のなかでの出来事でした。宇宙空間という国家プロジェクトまで壮大にならずとも夕食のおかずを作りたいが「冷蔵庫には玉ねぎしかない」というミッションも同じこと。そこで考えて行動を起こすことで新しい玉ねぎ料理が生まれる。

また一方で面倒臭いから食べずに寝てしまうのもひとつの判断。しかしそこで新たに訪れてくる難題が降りかかってきます。布団のなかで空腹感に寝られずに頭の中は「玉ねぎ」の調理方法ややはり食べればよかった・・・という基礎的な後悔。それはそれで新たに創意工夫が出来そうですが、しかし食べずにの方は全てを空想に任せることが出来ることに気がつくべきなのです。そこで玉ねぎに囚われずに思考が始まればそこはもう食べることへの無限の世界、食材は無限になり、すべてを無限に選択することができる。ただ逆に「人は選択肢が多ければ多いほど選ぶことが出来ない」ために何を食べるかの選択に困りはじめてしまうでしょう。そこで食に対する大海原を泳いで疲れ果てて挙げ句の果てに辿り着いて玉ねぎ丼に戻ったりしてしまうのではないでしょうか。

私自身伴侶にあわせて始めた肉を食べないという生活でした。それまであまり肉を食べることが頻繁ではなく、歓送迎会などのイベントや景気づけとして特別な時のみであった肉食、肉食抜きが始まり継続のこの10ヶ月間はまったく苦ではありませんでした。同時にたばこもコーラも摂取しなくなりましたが、これだけ一気に生活を変えられる人は成人男子ではなかなかいないそうです。ですのでこのことは参考にはならないかと思いますが、たぶんこれらも「怒られるから」で始めたことではないのでここまで続いているのだろうと思います。

いつでも出来る、いつでも食べる、いつでも飲めるという考えは、気持ちを楽にします。ただしそこには意思が責任を伴います。いっぽう「怒られるから」という口実で始めた場合、実は自ら制約を作り出して誰か仮想の責任者、上司?敵?を作り出しての強制制御をかけさせられる言葉、思考。最初は自らが考え判断することなく楽をして何でもその仮想指示者に従うだけ。しかしやがて選んだつもりが選ばされているという選択肢が「強制制御」となって精神的にキツくなります。それは追い込み漁のように先細りの見えないゲージにどんどん自らを追い込んで、気がつけば周りは圧に取り囲まれ、自らをその狭い部屋に押し込まれた状態。そこで置かれている自らを逃がすには、すべてのことから「我を殺す」ことになります。すると何も楽しみを感じない代わりに痛みも感じない状態、ただ少しでも我や意思を出してしまうとジワジワとストレスは生み出され、より一層自らを追い込んでいきます。ストレスで膨らんだ思考はストレスしか産まず、常にストレスのことしか考えなくなり自らが作ったゲージをより一層狭く窮屈にしていきます。

ただ「みんながやっているから」というあらたなる自らへの言い訳をみつけ出したとします。その言い訳は開放感に迫るほど自由と取り違えることが出来き、ゲージ生活もかなり楽になりはしますが、みんなが入っているゲージに他なりません。駒は駒として組み込まれ、壊れたら別の駒に替えられるだけ。それを潔く思うか、そこの駒であり続けることに執着してもがくのかは自分で決めることではありますが、最終的には自分では決められないことを知ることになります。

身動きもとれないゲージに押し込まれ、食べること寝ること、排泄することくらいしかない生活を余儀なくさせられている牛、豚、鶏など。彼ら彼女らが本当に望むことはなんだろうかと考えます。「我を自由の身にして野に放て」なのか「早く殺して喰ってくれ」なのか。

すべてを用意されていて生きていることの先に待ち構えているのは屠殺場、今の流行りでいうところの鬼の食卓に食材として並ぶことなのかもしれない。いくつになってもいつの時代になっても自らが声を上げ闘い、勝ち取った先にあるものはなんなのだろう。勝てば官軍、負ければ歴史書からは悪者として扱われる。

一世一代の出来事、自分の歴史は毎日の繰り返しで創られている。

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