日本神話の至上神はアマテラスではない――本居宣長の仕事について

いま書いている本の「はじめに」ですが、何度書き直したことでしょう。ほとんど歴史家には常識ですから、のせます。

 本居宣長(1730~1801)の大著『古事記伝』は日本神話の至上神はタカミムスヒ(『日本書紀』では高皇産霊、『古事記』では高御産巣日神)という神であることの論証から出発し、この神が民族の神であるという主張を中心に書かれた本である。具体的には本書全体で紹介するが、本居は『日本書紀』『古事記』の物語を詳しく読み解いて、日本神話の中枢部、つまり、天地開闢、国譲、天孫降臨、イワレヒコ(神武)東征などの神話でタカミムスヒが司令神としての役割を果たしていることを否定できない形で示したのである。この宣長の主張は日本の民族神話の理解において不朽の意味をもっている。
 徳川時代の後半、ヨーロッパ資本主義の大きさが見えてきた時代、日本の民族的伝統の中で普遍的な価値のあるものを探ろうという学問の動きが生まれたが、これを「国学」という。この国学が日本の民族的伝統の原点を神話に求めたのは自然なことであった。本居宣長はその「国学」の大成者であり、その仕事は平田篤胤(1776~1843)に引き継がれた。そして平田も「神国に生まれて神の御末とある、この御国の人の(タカムミムスヒをー筆者注)よく弁へて齋(いつ)き奉(たてまつ)らぬと申すはあまりと云へば不正なこと」と述べ(『古道大意』)、日本神話の至上神は「天地鎔造神」タカミムスヒであるという確信を持ちつづけた。
 しかし、現在の日本では神話の至上神といえば天照大神であるということになっていて、おそらく国民の九九パーセントはタカミムスヒという神の名は聞いたことがないだろう。タカムミムスヒは「齋(いつ)き奉(たてまつ)らぬ」どころか名前さえも忘れ去られたのである。

歴史学のアカデミズムの責任


 これは学問的には歴史学のアカデミズム全体の責任であるが、経過からいうと津田左右吉の責任が大きかった。津田は明治人らしい反骨の持ち主で、戦争中も学術研究の自由を重視し、著書を発禁にされながらも節操を守り、氏姓制度や大化改新などについての基礎研究で大きな仕事をした学者である。対アジア・アメリカ戦争後の「古代史学」に津田の影響が大きかったのは自然なことであった。しかし問題は津田が神話嫌いであったことで、津田は『日本書紀』『古事記』に残された物語は中国思想の影響をうけた知識人が机上で製作したもので、本来の神話とはいえないという極端な見解をとっていた。津田は天皇に対する強い敬愛の念をもつナショナリストであったから、こういう神話否定は奇妙にもみえるが、津田には神話とはギリシャ・ローマ神話が典型であり、中国やその影響をうけた日本神話は神話ではないというヨーロッパ中心主義があった。もちろん、津田と本居には日本神話の理解から「漢心=中国思想」を排除しようという点で実際にはよく似ていたところもあるが、しかし津田は日本神話を神話として理解するよりも、もっぱら中国思想の影響をうけた部分を摘出し、その記述を批判することに徹したという点で決定的に異なっていた。津田はタカミムスヒも机上で作られた「名まへだけの神」に過ぎないとして本居・平田の見解を頭から拒否したのである(津田①三二九・三三二頁)。
 この津田のタカミムスヒ否定は、すでに一九三四年に三品彰英から厳しい批判をうけ、本居の正しさは明らかになっている(論文「天孫降臨神話異伝攷」(『歴史と地理』三三巻五号)。そして一九七〇年以降、それを確認する形で、上田正昭・松前健・岡田精司・溝口睦子などの研究が進み、近年では菊地照夫の画期的な研究もあって現在では日本神話の本来の至上神がタカミムスヒであることは確定している。また伊勢神宮に天照大神が鎮座して奈良時代の王朝の守護神とされたのは早くて天武朝、実際には持統朝のことであるというのが学界の一致点である。しかも実際には奈良時代になっても天照大神は宮廷では祭られておらず、大嘗祭、新嘗祭の主神は依然としてタカミムスヒであったことも明らかになっている。これはその外の宮廷祭祀、たとえば収穫祭としての新嘗祭に対応する収穫祈願の祭りとしての祈年祭などの主要な宮廷祭祀の主神が、桓武天皇の父の光仁天皇の時代の頃まではタカミムスヒであったことを意味している。
 しかし、現在でも、「古代史」の講座やシリーズ本などには、まったくといってよいほどタカミムスヒの名前が出てこない。これは「古代史学界」では神話の研究が軽視され、歴史神話学の研究者自体がきわめて少ないためである。そういう中でタカムミムスヒについて学術的な説明をしている一般書は、溝口睦子『アマテラスの誕生』(岩波新書)以外に存在しない。「日本人」は本居・平田以来、学術的に確認された、その民族神話の至上神の名前さえしらないという状況である。私は、こういう状況をふまえ、歴史学はあらためて本居および平田の問題提起に立ち返り、日本の神話の研究のあり方を根本的に再考する必要があると考えている。

本居宣長の産霊神道とタカミムスヒ


 これは日本の神道を考える上でもきわめて重要な問題である。本居以前の神道においてはたとえば徳川時代を代表する山崎闇斎の神道では、「天御中主尊は天地一気の神髄」(『垂加社語』)、「天子の御元祖、萬国御中主」(『垂加神道初重伝』)であって、「天御中主神」が天地の至上神であり、天皇の元祖とされていた。それは一二世紀ころに成立した伊勢神道、つまり伊勢外宮(豊受大神宮)を中心に発展した神道から始まった考え方であって、一括して「天御中主神道」というべきものである(天御中主については■■頁を参照)。それに対して本居は天御中主という神は「後世の俗意」「漢心」によって作られた「よしもなき神」であるとして(「伊勢二宮さき竹の辨」)、タカミムスヒを至上神とする新しい神道を唱えた。それはタカミムスヒという神名の解釈から出発したものである。つまりタカミムスヒ、『古事記』のいう高御産巣日(たかみむすひ)神のムス(産巣(ムス))は男子(ムスコ)・女子(ムスメ)だとか、「苔(コケ)のムス」などという「ムス=生(ム)す」であって、物が成り出る意味であり、ムスヒのヒは『日本書紀』のいう「高皇産霊」の「産霊(ムスヒ)」の「霊」にあたり物の霊異(クシビ)な様子をいうのだと説明した。男子(むすこ)と苔では相当違うが、どちらにも生命がこもっているのであって、ようするにムスヒとは「生成(むす)霊(ひ)」、生命霊のことだというのである。
 それ故に、本居の神道は「産霊神道」というのが分かりやすい。普通は本居が神道を『古事記』の昔に復古させるとしたのをとって「復古神道」というが、ただ、現在、「復古神道」という言葉は明治維新の「王政復古」と関係づけた政治的な意味で語られがちである。また「復古神道」という言葉ではその神道信仰の内容はわからない。むしろ「天御中主神道」にかわって「産霊神道」が登場したという方が神道史を長いスパンでみる上でも適当だろう。本居と平田は、この誰にでも与えられている産霊、生命霊の自覚が日本の民族神話の基礎にあるとし、それにもとづく民族宗教として神道は組み立て直そうとしたのである。これは日本の学問にとっても、思想の歴史にとっても画期的なことであった。
 さて、この新たな神道は幕末の日本の植民地化の危機の中で民族宗教としての大きな役割をし、さらに天理教・大本教などの多くの新神道のベースになった。また田中正造が平田の門下であったことからもわかるように、自由民権運動にいたるまでの民族的な運動のベースとなったことはよく知られている。産霊神道がそこまで広がったのは、そこに一種の平等思想があったためである。つまり『古事記伝』はタカミムスヒは世界の創造神であって、「萬姓・萬物・萬事の御祖に坐ますなり」「神も人もみな此神の産霊より成出ればなり」(一三巻六丁、三巻一三丁)という。タカミムスヒは身分を越えた「萬姓」の神なのである。この本居の平等思想が独特なのは、それが人間の本質は「男らしくきっとしてかしこき情」ではなく、「みれんにおろかなる女々しき情」にあるという「物のあわれ」論に根を置いていたことである。東より子がいうように、本居にとってはこういう「はかなくめめしい」人情こそがムスヒ神の産霊の実態であって(東より子『宣長神学の構造』一九九九)、人間はタカミムスヒから伝わった弱さ、辛さをはらんだ「産霊(むすひ)」ー「内なる自然」そのままで「外なる自然」を越えて天地開闢の時間に直結するのである。いわば「永遠の今」の宗教思想である。
 さらに興味深いのは、このような宣長の宗教的な平等思想が、治者の奢りや賄賂、無用な身分意識、軍陣・武備の過剰などを批判し、さらには重税と百姓の困窮を強調し、百姓町人の徒党・強訴・乱暴はどの場合も「下の非はなくして、皆上の非なるより起これり」と断言する身分制批判と結びついていることである。それを述べた書、『秘本 たまくしげ』は「貧人は富人のために貧をまし、富人は貧人によりて富をかさぬる」状態をどう打破するか大胆に説いている。
 こういう平等思想は、平田篤胤によって受けつがれた。代表作『古道大意』には「賤の男我々に至るまでも神の御末に相違なし」とある。平田は幕府中心の身分関係を越えた「御国の御民」という民族意識をいよいよ鮮明にしていき、これが明治維新のベースをなした草莽と豪農の行動の思想となった(宮地正人『幕末維新変革史』上、二〇一二。岩波書店)。普通は本居と平田にこのような連続性があることは注意されないが、私は平田は本居の学問上の後継者であるとともに社会思想の上でも正統な後継者であったと思う。しかし、先に同じ『古道大意』から引用した「神国に生まれて神の御末とある、この御国の人の(タカムミムスヒをー筆者注)よく弁へて齋(いつ)き奉(たてまつ)らぬと申すはあまりと云へば不正なこと」という平田の主張は、結局、裏切られた。それは島崎藤村が自分の父をモデルに平田派の国学者として描いた『夜明け前』の主人公、青山半蔵が狂死した運命に象徴されている。

明治国家と天照大神


 本居には分からないことであったが、その産霊神道にとって悲劇であったのは、本居の「物のあわれ」という考え方の中心にあった「漢心」批判、つまり徹底的な儒教嫌いが明治国家によって無視されたことである。明治国家の思想を作った水戸学を中心とした国家儒教を強調する御用学者たちであった(小島毅)。彼らは本居・平田の学問的成果は利用しながら、本居の直系や平田派国学者を明治国家から排除したのである。もちろん、タカミムスヒは復活した神祇官の八神殿のトップに並ぶ神ではあったが、しかし民族神話の至上神として扱われることはなかった。
 そしてその代わりに神話の至上神の位置を確定したのが天照大神であった。それは大日本帝国憲法を発布する明治天皇睦仁(むつひと)の告文に「皇朕れ天上無窮の宏謨に循ひ惟神の宝祚を承継」とあることに象徴されている。この「天壌無窮の宏謨」とは『日本書紀』天孫降臨段の異書二に次のようにある天照大神の神勅である。

「豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらちいほあきのみずほのくに)は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾(なんじ)、皇孫(すめみま)、就(い)でまして治(しら)せ。行矣(さきくませ)。宝祚の隆(さか)えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」
(葦原の広がる豊かな水の国は、私の子孫が王となるべき地である。お前は、皇孫として、そこに降っていって治めよ。祝福されて行け。天の後継者が隆盛することは、天地が窮まることがないのと同じであろう)。

 この「吾が子孫=皇孫」とは天孫天津彦彦瓊々杵尊のことである。右に掲げた「天孫降臨神話所伝系統表」には天津彦彦瓊々杵尊の降臨を語る六つのテキストを一覧表にしてあるが、純粋にアマテラス一人のみがニニギに降臨の司令を下しているのは、この文飾の多い漢語調の天壌無窮の神勅のみである1。これは本来の天孫降臨神話ではなく奈良時代の国家意識によって作られたものであることはタカミムスヒは机上で作られた神だという津田の主張を本居の立場に立って批判した三品彰英が明瞭に論証したことで、以降異論はない。『日本書紀』『古事記』のテキストのうち、ほかのテキストはタカミムスヒのみか、あるいはタカミムスヒとアマテラスの二柱の神が司令神として登場している。
 このような日本神話のアマテラス中心主義的な理解は、対アジア・アメリカ戦争の準備が本格化した一九三七年に、当時の文部省が「国民教化」の書として発行した『国体の本義』にも明らかである。この文書は、その冒頭「第一 大日本国体 一肇国」を「大日本帝国は、万世一系の天皇、皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給う。これ、我が万古不易の国体である」と始め、続けて「而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いている。而してそれは、国家の発展と共に彌々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我らは先ず我が肇国の事実の中に、この大本が如何に生き輝いているかを知らねばならぬ」と説明している2。ここでも天壌無窮の神勅が繰り返され、タカミムスヒの地位は無視されている。これは神話論としても神道論としても成り立つ余地のないものである。
 もちろんここには歴史的な理由があった。つまりタカミムスヒが文字通り日本神話の至上神であるとされていたのは『日本書紀』『古事記』の編纂の時代までであった。本居の学説はそれ以前にさかのぼってタカミムスヒこそが日本神話の至上神であることを論証したのであるが、しかし、タカミムスヒは奈良時代の半ば以降はほとんど忘れられていき、この忘却の時期はきわめて長かった。そして神道の神学の中では天御中主の位置が高くなっていき、伊勢神宮でも外宮を中心に「天御中主神道」が盛行した。外宮の正式の名は豊受大神宮であるが、祭神の豊受姫は神楽歌で「天に坐す豊岡姫」と歌われ、『源氏物語』(少女)に「あめにます豊岡姫(とよおかひめ)の宮人(みやびと)も わが心ざすしめを忘るな」という月の女神の歌が残っているように、神話時代から月の女神であり、本来は丹後国に降臨した月の天女と伝承されていた(『かぐや姫と王権神話』)。トヨウケの「ケ」は「朝餉・夕餉」の「ケ・ゲ」と同じ穀物・食を意味する言葉で、そこから転じて宇賀神ともいわれるように、豊受姫は富の女神ともなった。鎌倉時代にも「天照坐皇太神は日天子と号す。止由気皇太神は則ち月天子なり」(『御鎮座伝記』)といわれるように、庶民の間で月と富の女神として信仰を集めた。天御中主はこの豊受姫と同体の神だということで伊勢信仰の中で普及していったのである。
 他方、持統天皇の時代以降は、右の天壌無窮の神勅のように天照大神が皇祖神とされることもあり、それは伊勢神宮に天照大神が祭られていることに支えられて一種の常識にもなっていった。もちろん『更級日記』に「天照御神を念じ申せ」といわれても「いずこにおはじます神、仏」なのかわからない。人に聞くと「伊勢におはします。紀伊の国に紀の国造と申す羽この御神なり」といわれたとあるように天照大神が天皇家の皇祖神として一貫して唯一有名であった訳ではない。日本は聖武天皇以来、徳川時代まで基本的には仏教国家であり、しかも紀伊の日前国懸社・出雲・吉野・熊野・三輪・日吉・石清水・住吉そのほか無数といってよいほどの神々がおり、王家の神が天照大神唯一神という訳ではなかった。とはいえ、奈良時代以来、王家の氏寺は東大寺で、氏神は伊勢神宮であるという観念は定着しており、王家の尊崇の中心はやはり伊勢内宮にあったから、伊勢の天照大神の位置は高かったのである。そして皇祖神というと天御中主か、天照大神のどちらかになるのであるが、天御中主は本居のように「よしもなき神」とはいわないまでもやはり神学的に作られた神であったから、王家の皇祖神というと、結局、太陽神としてのイメージが鮮明な伊勢天照大神ということになったのである。
 こうして神話の至上神は天御中主と天照大神の二神のどちらか、王家の皇祖神は遠祖は天御中主、直接には天照大神であるという二元的な考え方が長く続くことになったのである。これは伊勢神道から足利時代の吉田兼倶が創始した吉田神道、さらに徳川時代の林羅山の儒家神道、山崎闇斎の垂加神道にいたるまで変わりなかったが、神道教説として述べる場合には天照大神よりも古い天御中主が表面に立てられたから、前述のようにこれらはすべて「天御中主神道」と一括することができるのである。
 こういう中で、伊勢神宮は外宮に天御中主、内宮に天照大神が並び立つ神社として一二世紀以降、神道教義の上ではほぼ絶対といってよい地位を固めたということになる。

タカミムスヒは民族神、天照大神は国家神


本居は天御中主は本来の神話の神ではないとして、このような外宮と内宮が並び立つあり方を否定した。本居の主張は伊勢外宮(豊受大神宮)の祭神、豊受姫は内宮の天照大神の食事を用意する御食津神として内宮を支える位置にあったという点にある。たしかにトヨウケの「ケ」は「朝餉・夕餉」の「ケ・ゲ」と同じ穀物・食を意味する言葉であって、本居は「天照坐皇太神は日天子と号す。止由気皇太神は則ち月天子なり」などと豊受姫を月の女神とした『御鎮座伝記』などの伊勢神道の書、いわゆる神道五部書を「学問のすじ愚昧なりし」時代の「俗書」としたから、伊勢外宮は内宮の天照大神に食事を用意する神とのみ捉えられることになった。
 よく知られているように、徳川時代には天御中主神道に支えられた外宮こそが宗教的にも財政的にも伊勢神宮の中心であったが、明治国家はこの本居の主張にそって内宮を皇祖神天照大神が鎮座する神宮として外宮(豊受大神宮)の上におき、徳川時代の伊勢神宮のあり方を、現在のような伊勢内宮中心に全面的に切り替えたのである。その延長線上に大日本帝国憲法発布の明治天皇告文や『国体の本義』のアマテラス中心主義があることはいうまでもない。
 そしてこの中で、タカミムスヒは再び忘れられていった。民族神話の至上神の捉え方は、本居によって始めて本格的な検討が加えられ、天御中主でなくタカミムスヒこそが至上神とされたのであるが、本居の産霊神道が広められた時期は徳川幕末から明治初期というきわめて短い時期に限られ、以降、アマテラス中心主義が表面にでて、対アジア・アメリカ戦争後の宗教常識では、歴史神話学の通説とは関係なく、アマテラス中心主義一本になってしまったのである。
 私は根本的に考えれば、こうなってしまった原因は本居の学説の中にもあったと思う。つまりさすがの本居も、「天御中主神道」の日本神話の至上神についての二元的な考え方自体は維持していたのである。もちろん、本居は、天御中主が実際は伊勢外宮の神とされていたのとは違って、タカミムスヒを民族神話の至上神として、身分を越えた民族の神、「萬姓」の神として伊勢神宮とは別のレヴェルの神に位置づけた。これは決定的なことであり、これによって日前国懸社・出雲・吉野・熊野・三輪・日吉・石清水・住吉などの日本の神社は伊勢神宮の分社ではなく、神話時代以来の各地域の伝統をうけた民族独自の神々として考えることが可能になったのである。本居がそれに対して「天照大御神」は「萬姓・萬物・萬事の御祖」ではなく、ただ「皇孫命の顕皇祖(うつしみおや)」のみの祖神であるとし、この「けじめ」をよく弁えなければならないとしたのも卓見であろう(一三巻六丁)。伊勢神宮、とくにその内宮は、実際上、持統天皇によって王家の氏神として立てられ、そのような地位にある神社なのであって、そこに「けじめ」があるというのは神道にとって正しい考え方である。
しかし、それは結局、タカミムスヒとアマテラスを横に並べて日本神話を二元的に考えるという点では天御中主神道と同じ考え方である。本来の神話学あるいは神道神学は、持統天皇以前の神話の全体を考えることを課題とすべきである。持統の意思をうけて、伊勢内宮を荘厳し、その天照大神を天皇の直接の皇祖神として位置づたのは奈良時代の国家、文明化したいわゆる律令国家であって、天壌無窮の神勅に表現された皇祖神としての天照大神は本質的に国家意識にみちた国家神である。それ故にそれ以前の神話を考える場合には、このような国家神としてのアマテラスは一度脇において考えるほかないのである。
 もちろん、こういう本居の考え方の中にも学ぶべきものはある。つまり本居はこのようなタカミムスヒと天照大神の関係を、タカミムスヒは「裏」、アマテラスは「表」、あるいはタカミムスヒは「幽」、アマテラスは「顕」と表現している(参照原武史『<出雲>という思想』)。
 前者からいくと、「天照大御神は表にして、高御産巣日神は裏なるが如くなればなり」というのであって、その趣旨はタカミムスヒは「高天原を知ろしめす君主には坐さず。故に裏なるがごとし」ということで、それに対してアマテラスは「高天原を知ろしめす君主に坐して、故れ、この大御神ぞ、天皇の御祖にはましましける。(中略)故れ表なるが如し」という訳である(『古事記伝』一三巻六丁)。
 後者の「顕ー幽」という言い方については『古事記伝』には「皇孫」(天皇)の知ろしめす「顕露事」とは、朝廷の政治のことであって「人の顕に行ふ事」であり、「幽事」は目に見えず、「誰れ為すともなく、神の為し給まふ政なり」(『古事記伝』十四巻四五丁)、本居の神道説を要約した『玉くしげ』にも、「幽事」とは天下の乱れや平和や吉凶、さらに人の運・不運など、理由はよく分からないまま「冥に神のなしたまふ御所為」のことをいい、「顕事」とは、「世の人の行ふ事業」であって、天皇の政治などのことをいうとある。ようするに「顕事」は国家を代表する天照大神、そしてその子孫である天皇によって行われ、「幽事」は民族を代表する高御産巣日によって「冥界」から統御されるというのである。
 そして、重要なのは、本居が神道者としての宗教的な立場からは、「表=顕」の国家神アマテラスではなく、「裏=幽」の民族神タカミムスヒを尊崇していたことである。『玉くしげ』は次のように述べる。

 世の中の事はみな神の御はからひによることなれば、顕事(あらわごと)とても畢竟は幽事(かみごと)の外ならねども、なほ差別(ケジメ)あることにて、この差別は譬へば、神は人にて、幽事(かみごと)は人のはたらくが如く、世の中の人は人形にて、顕事は、其人形の首手足など有て、はたらくが如し

 「世の中の事」はみな「神の御はからひ」によるのであって、「顕事(あらわごと)」も突きつめればすべて幽事(かみごと)によって起きるのだ。「幽事」の神こそが人形遣いなのであって、「顕事(あらわごと)」は神が人形の首や手足を動かすことだというのが本居の宗教的確信である。続けて本居がそうではあっても「顕事(人形)のつとめも、なくてはかなわぬ事をさとるべし」と述べているのは、それでも世俗のことにつき合うのが大事だということである。はっきりといったものであるが、ここには「表=顕事」を相対化する明瞭な宗教論理がある。産霊神道の論理においては、タカムミムスこそがすべてを動かす「裏・幽事」の絶対神であって、アマテラスは「表・顕事」を表現する人形に過ぎないということになる。こういう宗教的なものごとの考え方は、平田篤胤になるともっと率直にいわれるようになり、よく知られているように天照大神よりも、実際上は出雲の大国主命に対する信仰が表に出てくる(原武史『<出雲>という思想』)。私は、大国主命尊崇はすでに本居の中に深い根があると考えているが、結局、こういう純粋に宗教的なところが本居・平田の産霊神学が明治国家によって忌避された根本原因なのであろう。
 結局、現在の立場から、本居の議論を引き継ぐためには、この本居の神学的な確信に学び、それを神話学の問題としてうけとめるべきであろう。つまり持統天皇以前、あるいは本来の神話時代における神話の至上神、タカミムスヒの実像を徹底的に明らかにし、そこから日本神話の全体像を復元し、国家神ではないアマテラスの神話の神としての姿も、その中に位置づけていくということである。現在のところタカミムスヒを専論として扱った唯一の本である『アマテラスの誕生ーー古代王権の源流を探る』のあとがきで、溝口睦子は私は伊勢神宮のおひざ元、外宮の森にほど近いところで育ったとして、アマテラスについて「私の願いはこの神が、こんどこそ、誕生した時の素朴で大らかな太陽神に戻って、少し頼りないところはあるが、あくまで平和の女神として、偏狭なナショナリズムなどに振りまわされずに、彼女の好きなどこまでも続く広い海と広い空を住居に、豊かな生命の輝きを見守る神としてあり続けてほしい」と述べている。
 しかし、アマテラスの神話史料はある意味ではタカミムスヒの史料よりも少なく、アマテラスの実像を「広い海と広い空を住居に、豊かな生命の輝きを見守る神」として描くことは、現在の段階ではきわめてむずかしい。それはタカミムスヒのイメージを鮮明にした後に、さらにいくつもの作業をへて可能になることだろうと考えている。本書では本居のアマテラスについての考え方にも少しふれる予定だが、まずは本居のタカミムスヒについての「生成(むす)霊(ひ)」、生命霊の考え方の点検から始めることになる。

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