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30/1096 善人であろうとするより・・

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。
3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で30日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。
そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくない人は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

30日目がやってきた。あの恐怖の宣言から30日が経過した。この、前の自分を死者のように葬り、新しく再生したかのような経験について、書こうと思えば長々と書くことができる気がする。
それくらい、新たな発見に満ちた30日間であった。
人は生まれ変わることができる。今、わたしが、あなたが、自分はこういう人間だ、こういうところは一生変わらないと強く信じて疑わないことも、ひとつの幻にすぎない。本当にそうなのだ。望みさえすれば、破り捨てることのできる幻想なのだ。
 
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今日の話題は、善人であろうとすることについてわたしの浅き経験から書けることを書いてみようと思う。
仕事が少々立て込んできたため、4時起きで書いている。こうなったら必殺4時起きだ。暗い空が明るくなってくるのを見られるのが楽しみだ!

わたしは昔、自分が善人でないことを自分で良くないことだと感じていた。もっと正確に言えば、自分の自然な状態すらも卑下していた。自分のことを思った時、いつも暗い気持ちになった。

わたしはなぜ、ホームレスを助けないのだろう、なぜ他人のことを自分のことのように考えないのだろうと子供の頃に自問自答した。なぜ立派な人もいるのに自分はそうではないのだろう。このジュースも自分で飲んでしまったけれど、誰か飢えた人にあげないのはなぜだろうと自分を悪く思った。誰しも経験がある感覚だと思う。

もちろん大人になっても、すべての人を平等に愛するなんて不可能だと思うと、自分は博愛や慈悲のないしょーもない人なんだと思った。平等に愛するどころか近所にいるほとんどの人を嫌いだった。このためだけに出来損ないとまでは言わないが、わたしはいわゆる凡人で、こうした凡人のほとんどは私利私欲が優先だから地獄に落ちるのだろう、と思っていた。

そんなわたしも、マザー・テレサやガンジーなどの聖人の話を読み聞きすれば、ショックなほど打たれ、ワナワナと感動した。心は尊敬まみれになった。だが、やはりそれと同時に自分にはガッカリしてしまうのだ。世の中にはこんなにも素晴らしい人がいる。それに比べ自分はなんと取るに足りない存在なのだろう・・・

こうして、善人であろうと考えることは、いつも己を傷つけた。いつも自分を否定する心を強めてしまうのだ。心のどこかで、自分を含め誰しもが善人なのだという気もするのに、皆なかなかそれを体現できないのだろうとも思った。
だからわたしは、ひどいいじめっ子が好きな人にフられたと聞けば、そら見たことか!と思ってスキップするほど喜んでほくそ笑んでいたし、遊園地で並ぶ列に誰かがずる賢く横入りしただけで呪いの波動を出してしまっていたのだ。

そんな地獄行きの列車に乗っていたわたしは、ある時自分を眺めていてこれまでの自己否定に猛烈に悲しく申し訳なくなって、そのままの自分を受け入れるという、それまでに一度も味わったことのない自己受容を経験した。

それは自分が突然に博愛に満ちた善人になって、自分の合格基準に達したから起こった自己受容でもなければ、自分の合格基準が突然にブチ下がって、わたしは善人だったんだ!と思えるようになったから起こったのでもない。

善人かどうかということなど、判定基準ではなくなったのだ。いかなる判定基準も消え去ったのだ。
自分を受け入れるとはそういうことだった。判定をしない。何も足さない何も引かない、サントリー山崎の精神だった。目からウロコが落ちるとき、ウロコが大きすぎて一緒に眼球も落としそうだった。

このままの自分を受け入れるとは、あらゆるジャッジを手放すということだった。
遊園地でズル賢く横入りされたら、チッ!と思う。それで良い。わたしはそういう人なのだからそのままで愛せば良かったのだ。心が小さい?そうなのだ!もちろん小さいのだ。しかしそれは、「心が小さい」ということ以上でも以下でもなく、それそのままのことだ。そこに、良くない、ダメだ、情けない、悪いこと、地獄行き、という評価を下す必要などなかったのだ…
では、そういう評価をしていてはダメなのか?わたしはNOだと思っている。そんな判定基準すらなくて良いと。
そうした評価をしてしまっても良く、さらには心の狭いのを変えようとしなくて良くて、さらにさらには、変えようと頑張ったって良い、ということなのだ。

わたしの感覚では、それは、どこまでいっても、何が湧いてきても、それを否定しないということなのだった。それらのすべてが、自分という仏の悟りの手のひらの上にあると気づくということだった。
その上で、悟っていない自分が孫悟空として暴れていて良いと、知ることだった。この感覚はとにかく自分に優しいことだ。そう、優しいなどという概念を超越して、この地上を天国にする。

わたしは地獄行きの列車に乗っているのかもしれない。
しかし、たとえ地獄に行ったとしても、きっとこの勝手な天国感だけは失わない気がする。これが唯一の、地獄から抜け出る方法なのかもしれない。地獄にいたって、気づかなければこっちのものだ。だから、地獄でもできるだけ喜んでいようではないか…

わたしはこのところ、ずるい人や欲深い人だってたくさんいるものだな、と思った。
だが、思い直したのだ。だからといってなんだと言うのだろう!そんなことでこの世にイチャモンつけるつもりはない。
そんなんだからこの世は悲しいところなのだ、と考えるのであれば、それはその人の心の中が悲しいのだと思う。わたしはこの世は神の傑作だと思う。私たちの体や自然のシステムを見よ!ヤバかろう?

夕陽を見よ!あの美しさを。見るものの周囲のものを黒く美しい陰の額縁にしながら、その日の昼の色に使われなかった、残りのいちばんの福の色を惜しみなく空に写して、夕陽が夜に向かうわたしたちを見送ってくれるあの時を。それも、毎日、毎日。
あの星空、木の年輪、美しい動物たち、わたしたちの毛細血管、それらを含んだシステムに、ただただ感嘆のため息が出る。

その下に起こる一部のことだけを切り取って、間違っていると言うのなら、元のシステムから間違っているのだということになってしまうと思う。わたしにはそうは感じられないのだ。そんな風に思って愚かでいることすら許されるほどに、わたしたちが自由でいられるだけだと思っている。

人を平等に愛するべきだ、他者のことは自分のことのように思うべきだ、毎日規則正しく暮らすべきだ、悪口は言わず、怒らず温厚に、弱きを助け強きをくじけ…そりゃあそうなんだ。それらは正論だとも!

だが、そんな正論よりももっともっと大切なのはわたしたち自身だ!とわたしは思う。たとえこれらの正論はわたしたちをもっと正しいところに導いてくれるのだとしても。

例えば、どうしても自分の腹が減るときは自分が食べれば良いのだと思う。そこに罪悪感を持ってしまい、飢えた人を探して食べ物を与えて自分が飢えていたいならそれを思う存分やればいいのだと思う。
ひとつそこに思うのは、その罪悪感は幻だということだけ・・・自分がもし悟りを開いた聖者であればもうどんなことにも苦しまないだろうから別だろうけれども、他者のことは飢えさせてはならず、自分のことは苦しめて良いと考えるのはひとつの偏りではないのだろうか。

食べたいという欲だろうと、罪悪感だろうと、悪口だろうと、怒りだろうと弱さだろうと、湧いてきたものを否定していてはわたし達に幸福はないと思う。まずは、自分だけでも、自分の感覚をケアしてあげなくてはと思うからだ。飢えてしまったら、他者と同じだけ自分だって可哀想じゃないか・・・

善人になろうとして、聖人になろうとして、必死で自分を高めようと努力して生きることが、もし、その人にとって幸福ではないとしたら、人はそうやって生きるべきなのだろうか。わしゃそうは思わん。

今神キャラがチラッと出てきたが(笑)、わたしがもし神さま的な存在だったら、愛するその一人の人間が、せっかくの人生を幸せを感じられずに終えるのがとても悲しい。
それならば、幸福を追って冒険して欲しい。わしの作った傑作の星・地球で、楽しみを見出して思う存分に遊んで欲しい、と思うだろう・・
ときに悲しみ、ときに怒り、ときに弱く、ときに笑って、わしの作ったままでちゃんと幸せでいられるように作ったつもりだから、どうか、それを信じてそのままでいて欲しい。そう思うだろう。。。

だから「聖人になろうとする」のも、「自分になろうとする」ことすらもやめて、すでにこれがわたしなんだ、探しに行くものなんてないんだ!と気楽になっていいとわ(た)しは思っている。

昨日は魔女気分がしばらく抜けなかったが、今から神さまモードがしばらく続きそうじゃ・・・・
 
わしは早速このミユ氏を少し遊ばせようと思っておる。
最近仕事にのめり込み過ぎなんじゃが、一息つくのもよかろうて。
 
これを読んだお主も、わしがお主という可愛い傑作を、お主を完全に信用して預けておるのじゃから、正論に負けずに、どうか、どうかいつも、喜ばせてやっておくれ。頼んだぞ・・・
 
それじゃ、また明日。































毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)