見出し画像

755/1096【往復書簡】あなたはわたしの満月です

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で755日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

755日目。ふと、この毎日投稿の読者さまの中にも、もう755日かい!などと、この日数から時の速さを感じている人もおられるのかも知れない。早いですね。ほんとうにねえ・・・

先日坂爪さんにラインで伝えて盛り上がったのだが、わたしは読者さまを一方的に愛していて、それは片思いだ。この片思いを嬉しく思う。片思いのくせに、ちっとも切なくなんかないのだ。わたしは、どんな恋だって愛って情だって、ぜんぶ片思いだと思う。

ちなみに両思いというものを、わたしは双方からの片思いだと思う。双方の思いがどこかでミックスされたりすることはないから。両思いというのは、双方からの嬉し恥ずかし片思いだ。だから期待なんかなにもしなくていい。

読者さまが元気であって欲しい。いいこといっぱいであって欲しい。なにがいいことかはわからないけれども、幸多い毎日であって欲しい。1096日を迎える切なさはきっと、ここに起因しているのだろう。この思いを書く場所がなくなるのが寂しいのだろう。一文字でも読んでくださった人への片思いは、その後生きるあいだずっと続くのだろう。それはどんな感じだろうな?!自分でも、楽しみだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

上の圭吾さんの記事へのお返事です。

おはようございます!!ベースとしてみなさんとおなじようにこの天体の上に遊びに来たわたしですが、今現在仕事でとても忙しくしています。こんなに忙しくて大丈夫だろうかというくらい忙しいのですが、自分の人生にはどうやらゆっくりとした呼吸があって、吸って忙しくなり、吐いて忙しさが緩むというリズムを繰り返しています。今は忙しくてなんだか嬉しいです。ぶらぶらとニートをして自責の念に苛まれていた人物に、今は自分で作った用事がたくさんあるなんて!!と思うと嬉しいです。ありがとうございます!

ありのままでいいという言葉もありますが、そしてその言葉に救われたように感じることも往々にしてありますが、私は一言申しあげたい。もしも、これから愛する誰かがドライブに出かけるために乗ろうとしている車のブレーキが故障していたとしたら、それでもあなたは「いってらっしゃい」と言えるか。ブレーキが壊れていたら「そのまま行ったら危ないよ!」と言う方が本当なんじゃないのか。それは相手の人格を否定している訳では全然なくて、ただ、車の調子がおかしいから直した方がいいよ、このままだと危ないよ、怪我しちゃうよ、ちゃんと整備をすればより快適なドライブを楽しむことができるから点検をした方がいいよ、という愛情(というか正常)だと思います。

わたしも伝えたいことがあれば伝えると思います、はい!!絶対にそうします。伝えたいのがありのままの自分だと思います。

「ありのままでいい」という言葉って、人により受け取り方がさまざまなのだろうなと思いました。

わたしは、自分に「ブレーキを直さないと危ないと伝えたい」という思いがあれば、それをそのまま伝えるということを「ありのまま」というのだという感覚でいました。

わたし自身も、このことについて日々いろいろと思います。わたしは伝えようと伝えまいと、その行動自体はあまり重要ではないような気がします。相手に対する「この人はこんなもんじゃねえし、どう転がっても大丈夫だ」みたいな信頼をベースにしたときに、その結果伝えようと思うか、今は伝えずに見守ろうと思うか、それこそ自分があるがままにすればいいと思います。

けれども、伝えたい衝動や黙っておきたい衝動が「こいつは変えないとダメになっていくし、変えてくれなきゃこちらが心配だ」みたいな心配がベースになっているのならば、伝えようが押し黙っていようが、いい感じにならない気がします。

そんなときもやはり自分こそがあるがままになって、「自分には今、あなたが変わらないとダメだとかいう勝手な心配があり、それが辛いがゆえにあなたに変わってほしいなどと思ってしまっています!!嫌だなあ!!」と伝えれば、あるいはそう思って黙っていれば、いい感じになるような気がします!!

変わりたいけど変わりたくないときは、そういう自分を一回俯瞰して「おーけーおーけー、また例のやつをやっているな俺よ、愛しい奴め、だがしかし俺はお前を愛しいと思うからこそ崖から突き落としたいと思う」みたいな感じでケツを蹴り上げてやる方向に向かわせると、痛い目に遭いながらも最終的にやってよかったなあって絶対思います。自分に同情している自分を発見したら「よろしく浸ってんじゃねえよ」と己の頬を引っ叩き、目を覚ませます。自分が自分にありのままでいいよと言っている時は、弱っている時だと思います。それよりも、私は、自分が自分に「そうこなくっちゃ!」と言えている時が好きです。自分の人生に対して「面白くなってきたぜ」と言えている時が好きです。私が幼稚だからなのだと思いますが、楽しいのが好きです。

ここを読んで、圭吾さんは、”ありのまま”というのを「なにもしなくていいよ」「変わらなくていいよ」という意味で使用しているのだな!と理解しました。わたしは「崖から突き落としたいと思う自分」や、「自分に同情しているときに気分が悪いと感じる自分」なども含め、ありのままの自分、という風に捉えてそう表現していたのでした。

ありのままの壇珠さんは、怠け者かつ働き者です。弱気かつ強気で、ネガティブかつポジティブです。逃げたいくせに表現したくて、寝ていたいのに動きたい。金なんか要らないのに金が入れば嬉しく、好かれるとウザいと思うのに好かれると嬉しいです。めんどくせえやつです。わたしは、そのどちらをも持っているのがありのままの自分という感じがしています。とても広くて緩んでいる視点の自分と、俺が俺が!のエゴな自分と、どちらもいます。

今思ったのですが、”ありのまま”の自分、というと確かに圭吾さんのおっしゃるような「今をキープしていい」「楽な方に逃げていい」という感じがしますね!わたしはどちらかというと”あるがまま”の自分という表現のほうが自分にしっくり来るような気がしました。いちいちこんな細かいことを言ってしまい、面倒くさくてすみません!!でも、「我(が)があるまま=あるがまま」なのが俺だぜー!って感じがしました!!

あるがままのわたしはやはり圭吾さんと同じように、自分の興味のある方に反して楽な方に逃げようとしてもそうはさせない自分がいます。「えっなにナメてんの大丈夫」「やらないはダサすぎてあり得ないのわかるじゃん?」「控えめに言って死んでもやれ」などの大変聞き苦しい暴言や問いかけを壇珠さんから投げられます。わたし自身が壇珠さんもあるがために、逃げるとずっとそのことが気になり続けてしまうことが壇珠さんにバレているのが弱みです。壇珠さんはそのことを百も承知なのでそこを突いてきます。こうしてわたしの中には己自身による恐喝や脅しが日常的に行われているのですが、それがあるがままの自分だなと思います。

壇珠さんは自分の好奇心の湧いた方に行ってみたいときに、こちらも壇珠さんであることを利用して「お前が逃げると、問題はお前自身が嫌な思いをするってことだよなあ」とか「あれえ?あなたの寿命って有限だよねえ?」みたいな感じで、今後の後悔や死へのカウントダウンなどを刃物のようにチラつかせて脅してくるので、とても刃向かえません。そんな自分をそのまま、あるがままだと思います。

なんとなく思うのですが、きっと「ネガティブでいる方が楽」なのだと思います。自分なんかダメだと思っている方が楽で、自分には何もないと思っている方が楽で、嫌われたくないとビビっている方が楽で、どうせわかってもらえないと卑屈に構えている方が楽なのだと思います。それは、端的に「変わらなくていいから」だと思います。自分は何も変わらないで、世界が変わることを待っている方が楽です。でも、私はこうした態度をダサいなと思います。

はい、はい、はい!!そのほうが楽だからだと、わたしも思います。もちろん他人さまがネガティブでいるのはその人の勝手だとは思うのですが、美しいかダサいかと言われたら、ダサいと思ってしまいます。自分はそういう勝手で乱暴ぎみな価値観を持っているがため、「失敗したくないので逃げてしまいます」みたいな話を聴く度に、どこかいつも身勝手に「この人はよくもそのような仕打ちに耐えられるものだなあ…」と思ってしまいます。

圭吾さんは、ネガティブでいるほうが楽だという気持ちになったことがありますか。わたしは自分の中に、自分が弱気な方を選んだ途端に撃ってやろうと常々ボウガンに毒矢をしかけてこちらを狙っているランボーが潜んでいるのでやってみたいことやらないでおくという風にはなりにくいのですが、でもそういう人の気持ちがわかる気が勝手にしてしまいます。なぜならば、わたし自身は「男性を信じること」について、10代の頃からだいぶ長い間ネガティブだったからです。

男性は嘘をつくものだ、信じて裏切られるのは自分じゃないか!などと思っていました。そう思っていざという時の傷に構えているほうが、投げられても受け身を取れて楽だと思っていました。信じてしまってから裏切りにあうと100倍も傷つく気がして怖かったので、疑ってネガティブでいるほうが楽でした。圭吾さんにもなにか、そんな気持ちになる経験ってありましたか?!

そんなわたしが2回も結婚をしたのは、ある時男性を信じられるようになったから、ではありませんでした。むしろ、結婚してみたらだんだんと信じられるようになりました。なにかが準備万端になるのを待っていると、いつまで経ってもやれないですよね。この世のことはほとんど、やりながら身につくことです。泳げるようになってから泳いでみようとか、運転できるようになってから運転してみようとか、考えてみればおかしなことなのですが、「失敗しなくて恥をかかなくて痛い目に遭わないのなら動くが、そうなれるまで動けない」と言う人に頻繁に出会います。

わたしはそういう話を聴くと、正直「ほほう?じゃあ逆にそんな自分に付き合って”一生動かない”と決め込んでみたらどうかね。”自分の人生はやってみたいことをしないで終わる”という方向で、本気で覚悟してみたらどうなんだ」と思っ(てしまっ)たりします。俺の場合はそんなことをしたら、壇珠さんに毒矢で殺されるよ…と思います。

それにしてもなぜにわたしたち人類は、「わかってもらいたい」と思うのでしょうね。わたしが一般的な感覚から乖離し過ぎていて、なにかに欠けているのかもしれませんが、わたしは誰かに自分のことをわかってほしいと、少しも思わないのです。「誰かにわかってほしい自分の感覚」がぜんぜんありません。

「わかってもらいたい」人は、他者に超能力が身につくことを期待しているのでしょうか。百歩譲って他者が自分のことを「わかった」となったときに、なにが得られるのでしょうか…”慰め”、あるいは”共感による仲間感”でしょうか。こんなことを思ってしまうわたしが、どこかおかしいのかもしれません。冷たくて非人間的なのかもしれません。

わからなくてもわかっても、所詮俺たちはひとつだからだいじょうぶだあという感じがしてしまいます。そうすると、「実は何もかもわかり合っているから、それへの実感があるとかないとかは重要ではない」みたいな気がしてきてしまいます。いろいろな恐れを超えて正直に書いてみると、「俺たちは実はこんなにもわかりあっているというのに、一体なにをわかってほしいのだろう。ほんとうにそんな、誰にも知られざる謎感覚のようなものを持っていると思っているのだろうか。バカなのかな」と思ってしまうのです(終わった)。

わたしはですけれども、たとえば美しい星空を見た時の「うわあ!」とか、バラの香りを嗅いだ時の「OH!!」とか、お腹いっぱいでもう食べたくない「ゲフッもう無理」の感じとか、高いところから落ちそうになって「ヒヤッ」とする感じとか、いろん~~~な感覚において我々は大変近似値にあって、むしろ完全にわからないところを探すほうが難しいんじゃないかな?と思ったりしてしまいます。だからこそ、他者には決してわからないと言えることはわれわれ個々の特有の経験であり、地方特産物のような宝だとか思っちまいます。

すでにわかりあっているのに”わかってもらえていないはず”という前提をわざわざ敷いてその上で「わかってもらいたい」と考えることは、非常に強い自己憐憫に似た、ちょっともったいない期待のような気がします。この地方特産物の味と同じ味のものがあちこちにあればいいのに!!という願いみたいなもののような気がしてしまいます。

俺たち人類、どうせほぼわかり合っているので、わかんない部分は俺だけの秘密です。ある意味で互いに誰ともわかり合えないことは、「あちゃ~~わたしたちって互いに完全にはわかりあえないんだね、その人の感覚はその人だけのものなんだね、それじゃあわかった気になってバカにしたりもできないし、わからない相手を責めなくていいんだね、尊重以外にやれることがないんだね、あああなたはどんな感覚にあるのだろう!」と思えることが好きです。それは自分の心は決して誰にもスケスケに覗かれることなく暮らせるということでもあり、わたしたちの安心の源だと思います。

わかってほしいと言って常に他者の共感を望むわたしたち人類ですが、でも世間では「あなただけの個性を出そう」とか「他者にはない個性的な感覚を持つべき」とよく言われますよね。この矛盾が我らだなあと思います。

わたしは個人的に、人類に個性なんかほとんどないと思っています。「俺らときたら人間という同種の生物である時点で99.999%くらい同じで、個性なんか微々たるものすぎるから探さなくていいや。変わらん変わらん。わかってもらおうとしなくても、逆にもうわかっちゃってっから大丈夫大丈夫。個性を出すことで評価されるべきだとか考える窮屈さのほうがウザいわ。だから心配するだけ損損。没個性カモン!!どうせ埋まっても埋まっても腐っても俺の同一人物どこにもいないしよ。共感とか個性とか、そんなこと自然に任せておけばいいわ~」と安心しきって動いているとき、その人はきっと皮肉にも最もその人固有のものを発揮するのだろうと思ったりします!!
誰にも同調を望まず、すでに同調があるという安心とリラックスの上にこそ、その人らしさが最大に発揮されるように思います。

みな、地球で寛いで、いろいろ遊んでみていいと思います。その人の「行ってみたいな」「聴いてみたいな」「触ってみたいな」「面白そうだな」「かっこいいな」「きれいだな」「美しいな」「試してみたいな」「怖いけど興味あるな」と思うほうに行ってみると一番いいようになっているから、気を楽に持って少しずつ進みたい方に地球を散歩していったらいいと思います。

自分が自分に共感して歩いていると不思議と共感者が現れて、そうして歩いた軌跡自体がその人の個性だと思います。共感が欲しいからと言って、自分自身への「行ってみたいな」への共感をやめて、他の人が共感してくれそうなほうに行くと、なんか自分を使えていなくて物足りなかったり、虚しい感覚になるのだと思います。自分は恋愛を通してこの手の失敗をたくさん重ねました。それはそれは辛い感覚でごわした…

深刻になって「どう生きるか」と考え始めるとドツボにはまりますが、どう生きるかじゃなくて「どう遊ぶか」と考えると、結構いろいろな遊び方が思いつきます。どう生きるかと言うことを私は人様にアドバイスしたりはできないけれど、どう遊ぶかだったら「たとえば、こんなのはどう?」みたいにワクワクしながら提案できます。悩んでいる人がいたら、悩みを解決しようとするよりも悩みを抱えたまま、そのままで一緒に遊べる遊びを考えるのが好きです!!

ここに激しく同意します。わたしもそれが好きですし、そのノリでいるのが好きです!

こんなことを書いたら、すでに「壇珠さんウザくないですか」などと圭吾さんに直接確かめるような人物さえ居るらしいのに、さらに「どないやねんこいつ」と思われすぎてヤバいのかもしれませんが、わたしはこれまで「どう生きるか」と考えたことがありません。チャランとするか、ポランとするかのどちらかしかしたことがありません。漫画の『鬼滅の刃』を読み終わったあととか、映画の『新少林寺/SHAOLIN』を観終わったあとからは、自分も誰かのために生きて死にたい…!!などと思うようになったりしましたが、「よし、どう生きるかを考えて決めてそう生きよう」と思ったことが、情けないことにただの一度もありません。圭吾さんは、考えたことがありますか?!

わたしがやはり何か欠損しているためでしょうか。その場その場で刹那的に決めたことをしていたら、この年齢になっていました。どう生きるか、を考えて、その時の決心通りに生きられる人の一途な決心を、心からすごいと思います。なんか、自分のそれを情けないと思うし、こう生きるぞ!!と意を決してみるというのは素晴らしき経験と思いました。挑戦してみることが新たに増えました。このような思いに至らせていただきました!!!やばい、これは新鮮で嬉しいです!!ありがとうございます!!早速考えてみなくては!!

男性性と女性性というのは本当にチームプレーだなあって思います。ひとりの人間の中にもそのどちらもがあると思うので、それを厄介に感じることもありながら、自分の中にある神秘みたいなものに感動したりします。

われわれは、まさにチームプレーですよね!!わたしはわれらのすべてが同種の生物であることや、性別として二手に分かれて役割を担っていることを思うのがとても好きです。なにより好きなのは、なんだかんだいって我らが同種の生物であるというのをことあるごとに思い出すこと、です。「あなたとわたしは違うから」などと言われたときにも、「いや、そりゃあそうさ。俺たちは完全に別の宇宙に居る別の個体さ。だが同じ生物種であることを思い出してご覧よ。おなじ生物種なんだぞ?!たとえば二匹の猫同士が、俺らってマジでまったく違うんで。わかり合えないんで。などと言っていたら微笑ましくて笑ってしまわないか?!」と思ってしまいます。少なくともわたしは、いや~~でも牛さんと比べたら君たちだいぶ近いんじゃないかなあと思ってしまいます。

それと同じように、男女はまったく反対のところをこんなにも兼ね備えているので、対であり、逆であり、わたしたちはすぐにそこにばかりに着目して違いを嘆いて違いを責めてしまいがちですが、同じ生物であることをすぐに忘れます。わたしたちはパラノイアのように心配性なので、肯定的なことをすぐに忘れます。だから、いくら男女が違うって言ったって、アンドロメダ星人よりはだいぶ同じでねえかな。相当似ていると思うがなあ!と思ってしまいます。ついつい、自分の中のいたずら心に似たような部分によって、そういうことを思ってしまうのです!!自分はなぜかこうして、たとえば宇宙的巨大スケールを持ってきて違う方向から考えてみたりするのが趣味みたいになってしまっています。暇ばかりあったからでしょうか。きっとそうですね!そうして暇を持ちながら生きてこられたことを、つくづく自分は幸運で幸福でありがたいことだと思います。どこに感謝したらいいのかわからないくらいに、ありがたく思います。

先日、自分は容姿にコンプレックスがあるから誰かを好きになることを禁止していると話す女性に会いました。私は、これを聞いた時「それは絶対に違う」と細胞が震えました。なんでそんな悲しいことを俺に言うのだ馬鹿野郎と思いました。

ほんとうに、悲しいことです!!そしてある意味でその人の感覚を非常に冷酷で臆病だと思いました。自分という人がもし他人だったとしても、その人はその容姿を見て思うのでしょうか。「その姿なんだったら、人を好きになることを禁じなよ」と。そんなこと、誰かに言えたものでしょうか。自分にも言っちゃダメですぜ。余計なお世話なんですよ。人を好きになることすら禁じさせるだなんて、何様なんだよと思います。俺が男ならお前のこときっと好きだったぜ。ふざけんなよ。自分さんに謝れ!!産んでくれた母上に謝りなさい!!みたいなことを思いました。変態的でヤバいのですが!!

我ら人類というのはすぐに、自分に対して余計なお世話ばかりを働いて、肝心なことはしてあげないという方向にいきがちですよね。

わたしたち人類のできることのうち、最も美しく嬉しいのは、誰かやなにかを好きになることだと思います。それを禁じようとする自分がでてきたら、それがいかなる理由だろうと、そいつに毒矢を向ける。そいつと力の限り戦う。そういう挑戦を、正しいお世話というのだと思います。

自分のことばかりで相手を思いやることができていなかった時というのは、実際は「自分のことさえも思いやれていない時」なのだと思います。もしもそのひとが本当に自分のことを思いやれていたのなら、その思いやりに触れた私も絶対に気持ちよくなります。

これ、まさにそうですね!!わたし自身がそうでした。自分のことばかり考えているときというのは、実際に自分を大切に扱っていないときでした。自分に大切にされていないので、自分の行動に安心できず、いつも必要以上に不安がってばかりいて、そのために自分を守ろうとして自分のことばかり考える、という悪循環だったと思います。

真に自分を大切にしている人は、他者を助けて死すことさえ厭わないのだと思います。自分をないがしろにしている人ほど、自分のことしか考えられないのだと思います。自分はまだまだもっと精進します。今の自分は大変情けなく、この人生で何回も心撃破して死んだほうがいいレベルです。そして心生まれ変わり、その度に今よりも人を思いやりたいです。誰よりも、まず身近な人を大切にしていたいです。今の自分にいろいろと悔しいです。

相手が本当に楽しいと思っているのかとか気持ちいいと思っているかどうかは確かめようがないのですが、少なくともいまこの瞬間の自分が「退屈だ」とか「イライラしてきた」と感じたならば、それはなにかしらのサインなのだと思います。

わたしは家にばかり居るのであまり機会はないのですが、他者の話を聴いていて退屈とイライラを感じることが、年に数回ほどあります。人の言い訳を聴いているときとか、その人の顔が内面をごまかす表情であるときとか、それを言う方がいいと思ってなにかを言っている様子になっているのを見たときとか、点数稼ぎしてんなあと思うときとか、その人がその人のことをこちらにぶつけることに夢中になって話しているときに、イラッとします。自分がそういうことをすることがあるからそういう思いになるのだろうなと思ったりします。

これを公の場で正直に言ったらもうアウトなのかもしれませんが、わたしは他者にも簡単に死ねばいいだろう!!などと思ってしまいます。そんなに自分の思い通りにできないことを愚痴ったり、そんなにまで不幸だ不幸だ世の中が悪い親が悪いと言い続けていたり、そんなにまで自分の好きなことができないのは損したくないからだと言っていたり、臆病風に吹かれて損するのが怖い怖いと言い訳ばっかりするくらいならば、いろんな意味で死ねばいいじゃないか腐った女め、荒野に死ねビビリ野郎め!と思ったりしてしまいます(自分終わったと思います)。これは自分に言っていることだと思います。自分はもっと弱きを助く武士のようになりたいのに、ふとまったくくだらないことで保身を考えたりするのです。情けないです。くっそ~死ねや!!

圭吾さんは、自分はもしかしたら他者に根本的には興味がないのかもしれないと思うことってありますか。わたしはいつもそう感じてしまいます。他者自体には興味がなくて、その他者との関係性や、一緒にいるときにその人と作っている場の感じや雰囲気や響くもの感じるものに興味があります。

だから、言い訳というわけではないのですが、死ねや腐った女め、ビビリ野郎め!!と思うときにも、その相手に対してというよりは、その人の作り出しているなにかに対して思っています。相手のことはどうでも良くて、その人がこの世に生み出して放出しているものに興味があります!!

ひとりの時間も好きですが、ひとりが好きだからひとりでいる時間と、本当は誰かといたいのにひとりでいることを選ぶ時間は、結構な違いがあると思います。昔の私は、本当にずっとひとりでいました。ただ、ずっとひとりでいた自分を振り返った時に「俺はひとりでいたのではなく、俺は俺という人間を『ひとりにさせてしまっていた』のだ。ひとりという居心地のよい牢獄に閉じ込めて、自分で自分を監禁・虐待・迫害をしていたのだ!!」となってガガーン!!となったことがあります。

ああ!その感覚がとてもわかる気がします!!わたしは圭吾さんと、ところどころが対になっていて面白いなあと思います!それでわたしも『ひとりでいても楽しくなんかない』というレッテルを貼って、自分との間に壁を立てて自分から目をそらさせていたのだ!と思ったことがあります。

わたしは昔、いつも人と一緒に居なくてはいられませんでした。一人になるのが寂しくて、不安で大嫌いでした。ところが今は、家にひとりでいるのが大好きです。

ひとりを楽しめるようになるのは、ある意味で自分の夢でした。ひとりが楽しめる人ってカッコいいと思っていました。寂しくないなんてすごいな、いいなあ羨ましいな、精神的に自立しているのだろうな、と思っていました。いつも彼氏か旦那さんと一緒に居たかった自分が、当時これ以上ないというほど情けなく、ダサいと思っていました。自分をダサいと思うのってほんとうに辛いですね。

でもその考えはこれまでの間に徐々に変わりました。たとえばわたしの母はいつも独りがいい、誰とも居たくない、とばかり言うのですが、そんなことはなさそうに見えます。母自身がひとりが好きだということにしているだけのように見えます。母は人を捕まえると自分の話ばかりをしたがり、誰かがいると寄ってくるのです。でも、人に異常に気を使うために疲れるのだとか。それは人から好かれたい心の裏返しだと思います。そんな母などを見るうち、独りで居られる人だけが強いのではないと思うようになりました。

わたしはある時、ひとりが嫌だから結婚して子どもを生みたいという人の相談に乗る機会がありました。ひとりが嫌だから、自分の話を聴いてくれる人がほしいから、結婚子育てをしたいということでした。ところが聴いている限り、男性と一緒にいることにもまったくと言っていいほど興味はなさそうで、赤ちゃんや子どもに触れたり接したりしてみたい、という言葉もまったく出てこない人でした。「自分の辛さ寂しさを埋めたい」「でも自分の気に居るような相手がいない」とばかり言うのです。

人は誰かの寂しさを埋めるためにいるわけではなく、そんなふうにはできていないと思います。だから、寂しさを埋めるためだけに自分や他人を使おうとすると、それは不自然的で、人の喜びとは和合しないものがあると思います。男性そのものや、あるいは男性との関わりを育むことそのもの、子どもそのものへの好奇心がないのなら、その人が「結婚して子どもをもうけたい」と長いこと泣いてはいても、本人も気がついていない本心では結婚や子育てを望んではいないのだと感じました。自分にしか興味がないように見えました。

自分の思い込んでいる望みと、自分の奥にある本心が違っていることってありますよね。自分の本心に気がついていない人も、たくさんいるのかもしれませんね。ひとりでいたいと考えている人が実は誰よりも人恋しかったり、寂しい寂しいと言っている人が、実は誰よりも自分で自分を愛してみたかったりするのだと思います。

そういうことを紐解いていくためには、今の環境でまずは遊び楽しむことだとつくづく思います。面白がっていると、ほんとうはなにを面白がりたかったのか、本当の望みがひょこっと顔を出したり、急な変化で環境が変わったりして面白いです。不平不満ばかりを見てそればかりを考えそればかりを言っている間は、なかなかそこから脱することができないものですね。

一時的に嫌われることはあっても俺たち同じ生命だから嫌われるとか本当はあり得ないってことを時々思い出してみてくれーー!!あんまり先のことを考え過ぎないでいまやりたいことをやるとかいまやりたくないことをやめるとか『いま』を試しに生きてみてくれーー!!いまを生きたら絶対全部あるから騙されたと思って!!過去とか未来とかどうでもいいから『いま』を一回本気出して全力で生きてみてくれ!!自分に潜り過ぎないで、たまには俺を見ろ!!そこに世界がある。そこに世界があるのだと言いたい!!取り乱してしまってすみません!!取り乱したまま放ちます!!取り乱せば取り乱すほどに「壇珠さんありがとう。読者の皆様、そして全人類よありがとう」みたいな気持ちになるから不思議です!!共に生きましょう、この瞬きのような人生を!!!俺よ、俺たちの夜空よ、煌めけ!!うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!

ぬぐぉおおお~!!!わたくしめも、とても同じように感じます。俺たちひとつだから、嫌われるということはある意味ではあり得ないもんな!と思います。われわれがひとつだったことを思い出したら、それまで自分の一部同士が好きだとか嫌いだとか言っていたことが、微笑ましいテヘペロ案件だと思います。あじゃぱ~!一人芝居だったなあ!と。。

わたしにとっては、わたしたちがひとつだという感覚は、とてもとても心地の良いもので、嬉しくて、安心の極みと感じられます。やったぜ、ひとつならどこにも心配なんかないじゃんか!!うおおおー!と都合のいいことを思います。俺たち、ひとつ……あの人もこの人も、あれも、これも!!それが俺たちだなんてすごいですね。電信柱という自分よ、松ぼっくりという自分よ…!!そこに壇珠さんもありますね!!そうするともう、それはなんなのでしょう!!自分とすら呼べない、そのなにかよ…!!

壇珠さんは、菅美智恵さんというイタリアはヴェネツィア在住の人です。その人は女性で、もっと広く言えば日本人で、さらに広く言えば人間で、霊長類で、哺乳類で、宇宙人で、生命体で、意識で、宇宙の構成物で、つまり宇宙成分ですよね。自分を『宇宙成分』だと思って過ごしてみると、この45年もお付き合いしている自分に今まっさらにはじめて会ったかのような、「ど、ど、どうもです!!!!」という出会い直しをします。

これがこのユニバースに存在するいち宇宙人なのですね!!と思っちゃいます。リアルな生命体!!宇宙成分だと思うとすげえです。なにこれ~~(汗)と思います!!観察していると、実態としてはスーパーマーケットと呼ばれる場所で割引で50セント安い方を買ったりしていて、意外とセコかったりしている宇宙成分です!!宇宙面白え!!こんななんか!!と思います。

そんな心の遊びをしていると、月を眺めたときについ、「なあなあ月よ!お前とても美しいけどさ、でもお前を作っているのと同じ宇宙成分が、今日レジ前で横入りされて舌打ちしていたよ。なあ月よ、どう思う?」と思ってしまいます。

すると月は黙っています。煌々と光って、どんな戯言もまあるく笑顔で見ています。すると思ってしまうのです。「なあなあ月よ…その舌打ちしていた宇宙成分のことを、お前はどう思う?どうしてお前はそんなにまあるく優しいのに、おなじ宇宙成分が戦争をしたり舌打ちをしたりいじめをしたりするのかな。自分もお前と同じ宇宙成分だなんて信じられないよ。自分も、お前みたいにいられたらいいのに」と。

それでも月は黙ってまるまると光っています。するとなんだか、「そうだな、自分もお前みたいに、そんな自分にすらまあるく笑顔を向ければいいね。お前のように、嫌なものは受け取らなければいいね。ああ、自分がお前と同じ宇宙成分で嬉しいよ。自分が誇らしいよ」と思えてきます。

すると、月はそれまでと同じように黙っているのに、その笑顔が自分に向けられたような気がしてくる自分です。そのときほんとうは、自分が自分に笑顔を向けたのですよね。

人はなにを見ても、自分を眺めているのだなと思います。圭吾さんの書いてくださるお返事にも、いつもたくさんの自分を見出しています。それがエキサイティングで、応援心MAXで、やるせなさや切なさで、嬉しさで、自分がそんな気持ちになれることがメタクソ嬉しいです。

わたしはこうして公開の文章でのやり取りをしたのは生まれてはじめてですが、圭吾さんとだからこそできているのだと思います。オンリーワンすぎて感謝が湧いてきます!!ありがとうございます!!いつも、月を見上げるときのような気持ちで圭吾さんを見させていただいております。願わくば自分もたとえ一瞬でも、圭吾さんの、読者さまの、誰かの月になれますように!!!願いながら締めたいと思います!!われわれみな、月の見える星の上で一緒に遊んでいるだなんて、なんてロマンチックなのでしょうね!フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン!!次回のお返事も楽しみにお待ちしております!!

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)