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大切な人を自殺で亡くして思うこと②

しかし、5時間頑張っても脳死状態から回復させられず、やがて生命活動のすべてが止まって、私の母は、二度と会えない人になってしまいました。
これまでの人生で、これほどに悲しかったことはありません。

それからというもの、私は母の死が自分のせいであるという考えに囚われて、そこから抜けられなくなりました。私が見殺しにしたのだと。
私がイタリアに引き取ったせいだ。私が邪険にしたからだ。私が幸せにしなかったからだ。私が傷つけたからだ。私が気がついてあげられなかったせいだ。私の人格のせいだ。私の判断が悪く、性格が悪く、身勝手で、冷酷だからだと思いました。自分を産み育ててくれた人を死に追いやったのだから、自分ほどの罪人はいないと思いました。

そして、そんなふうに自分のせいにして考えるのは間違っていて良くないのだと理性ではわかっていても、その状態から抜け出すことを、自分で拒否していました。そこから抜けて楽になることを、とても自分に許すことができなかったのです。自分が一緒にいながら母が自殺で亡くなったというのに、それでも元気になるだなんて、餓鬼畜生にも劣る”人でなし”だと、思いたくなどないのに、思ってしまうのです。自動的に、どうしても、最も悪い方に考えてしまうのです。

妹と前夫と家族以外の人のどんな慰めにも同意できず、拒絶感ばかり覚えました。親類など身近な人には母の死を知らせましたが、その返答の一部にすら、おぞましいくらいの嫌悪感を持ちました。神経が過敏になって、お気楽で無神経な言葉や顔文字使いに、怒りを覚えるほど傷つきました。

そしてそんな中、自分の身体の感覚がだいぶ麻痺しているということに気がつきました。

真水で洗い物をしても、手がキンキンに冷たくなっていることは一応のことわかるのですが、それを辛いと感じられないのです。凍った魚を分けていて、指が真っ赤になるほど手が冷えても、冷たくて辛いという感覚がありませんでした。

暖房をつけずに寒い部屋にいたり、薄着で外に出たりすると、気温が低いことや身体がひどく冷えて震えているのはわかるにはわかるのですが、寒くて辛いという感覚が少しもないのです。繕い物をして指に針が刺さっても、どこかに身体をぶつけても、痛いのがわかりませんでした。

さらには、空腹も感じられず、喉の渇きも感じられず、眠気もありませんでした。日が昇って落ちて毎日が過ぎていくことが、奇妙でした。日常が、自分とは関係のないテレビの中の世界のことのようでした。

私は、絶望もできないくらい、自分を見放していました。無感覚で、頭が働かなくて、ほとんど飲まず食わずで、時々衝動的に母を探して家の中を呼んで回ったりして、浮ついて生活していました。涙も鼻水も流しながらスーパーのレジに並んでいたりして、それを見た人が驚いたりしていても、もう、世の中のことが何もかも、どうでもいいのです。

友達のひろこさんがLINEで「水を飲んで」と毎日メッセージを送ってくれていて、それを読んで丸一日何も飲んでいないと気づき、強制的に水を飲むというありさまでした。美味しいも不味いもないのですが、お酒と煙草だけが呑みやすく、水はひどく重くて飲むのが大変でした。

そしてその間ずっと、どういうわけか、自分が母と同じようにして死ぬことをイメージしてしまうのです。それは、禁断の領域について思っているような罪の意識があるのですが、そのときだけが楽なのでした。

母は何を思って亡くなったのだろう。母はひどい苦しみの中で亡くなったのだろうか。そうした答えのない疑問が繰り返し湧いてはグルグルと止むことがなく、知りたければ自分も同じようにやってみればいい。そうすれば少しはわかってあげられるのではないか。母はあんなに哀れに亡くなったのに、なぜ自分は死に際の母を苦しみを少しでもわかろうとせずに、こうしてのうのうと生きていられるのだ。なぜ食うのだなぜ眠るのだ、と思ってしまうのです。

途中まで私は、それらの自責の念や希死念慮と、戦っていました。
なんとか受け入れようとか、なんとか無視しようとか、もっと軽く考えようとか深く考えようとかいうように、精神力を費やして、それらと格闘していました。

この戦いが、とてつもなく辛かった。自責の念を消そうとして、自分のせいではないと考えるのが、ひどく難しかった。それが、母を他人と思うのと同義のように感じられるからです。

母はきっと鬱を患っていた。鬱も病気だから、それによる自殺も病死なのだ、と考えることはできる。けれども、そうすると鬱を悪化させたのは自分だ、鬱から救えなったのは自分だと自動的に思ってしまう。ここで、これは母自身の問題だったんだから、私には関係ないわ。などと、どうして思えようか。そう考えてしまうのです。

でも、私はあるときから、自分の中のなにかが尽きて、そのようにして戦うのをやめました。どうしたって、その自責の念や希死念慮をなくすことなど、できないと思ったからです。


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