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悲観の賢者と楽観の賢者

あるところに悲観する若者がいた。若者はいつも背を丸めていた。その背は細く頼りなく、目の前の地面に寄りかかるようだった。

若者はいつでも、どんなことにも悲観する。薪を割れと言われれば、足にまさかりを落とすかもしれないと思う。ならば薪をくべろと言われれば、手を焼くのではないかと思う。それならば仕事をするなと言われれば、働かない自分は村八分になるのではないかと思う。

若者は苦しんだ。そして賢者に助言を願おうと決めた。するとまもなく、沈む浮島の村で噂を聞きつけた。雪の吹く山には、悲観の賢者がいるのだと。
悲観の賢者は、悲観することで、己の迷いを打ち破ったのだという。若者は悲観の賢者との謁見を求めて雪の吹く山を登った。

かくして若者は悲観の賢者との出会いを果たした。
若者は賢者にすがった。私は何事も悲観してしまいます。どんなこともです。それが苦しいがゆえに、生きるすべてを悲観してしまうのです。どうか私に賢者の助言をください。

悲観の賢者は言った。

「悲しむ者よ。人の世は悲しいものだ。人は毎日自分の寿命の時間を消費し、捨てて、それと別れながら生きている。万人がそうだ。麻薬のカルテルに従属して残虐な殺戮をする者も、南国で平和に草カゴを編む者も、どんな者もおなじだ。彼らは人生の時間を燃料にして、死に向かってまっすぐに進みながら、それをすることを選んだ。この世との別れに手を伸ばして、寿命と引き換えにその経験をつかんだのだ。

生きることは切ない。無二のものを手放しながらの経験だ。私たちはこの生命と別れながらでなくては、生きていかれない。その別れを思ってみよ。その別れとはどんなものだ。私たちに千切られようとも、いつだって緑の愛を手向け続けてくれている植物たち、私たちに濁らされようとも、いつでもシャラシャラと清い音を鳴らして澄んだ水を与え続けてれたすべての川、私たちに無垢な魚たちを大量に蹂躙されようとも、どこまでも青い笑顔を映し続けてくれた海と、いつかは別れなくてはならない。いかなる別れを惜しむよりも、この別れを思ってみよ。それを悲観して、ここは神の創った楽園であったことに、どこかで気がついたものは目覚めた者だ。

悲観せよ。悲観を極めてみよ。さすらばお前は、己の悲観が有限であることに気がつくであろう。お前は息をしている。生きたくてここに立っている。より良く生きたいのであろう。より良く生きられる可能性があるという希望があるからここに立っている。そのお前が悲観しかできていないとは、誠のことだろうか。お前には確かな希望があるからここに来たのだろう。その楽観に打ちのめされるまで、極めて悲観してみよ」

若者は感銘を受け、生真面目に悲観を極めようとした。若者は悲しみに身を落とした。死を願うほどに。しかし最後には、たとい自分が命を失ったとしても、その後にはきっと、無の時間か、生まれ変わりか、なにかが自分を楽にしてくれるのではないだろうかという楽観が、どうしても捨てられなかった。若者は理解した。自分に悲観しかできないというのは、とんだ思い違いであったのだ。

しかしそうなると今度は、自分には楽観しかできないような気がしてきた。いつも何かを願ってしまう。いつも何かに希望を見出してしまう。明日への希望がなかった日はないのだ。だから苦しいのではないか。楽観さえ捨てられれば、すべてを諦められれば、自分は苦脳の最後の砦を超えるのではないだろうか。

若者は困惑した。そして賢者に助言を願おうと決めた。すると今度は、昇る大陸の村で噂を聞きつけた。火を噴く山には、楽観の賢者がいるのだと。楽観の賢者は、楽観することで己の迷いを打ち破ったのだという。若者は楽観の賢者との謁見を求めて火を噴く山を登った。

かくして若者は楽観の賢者との出会いを果たした。
若者は賢者にすがった。私は何事をも最後には楽観してしまいます。どんなこともです。それを捨てられぬがゆえに、目覚められないのです。どうか私に賢者の助言をください。

楽観の賢者は言った。

「楽しむものよ。人の世は楽しいものだ。人は毎日自分の時間を過去に流し、そのぶんだけの未来の時間を手に入れて生きている。過去の時間を未来の時間に交換しているだけなのだから、私たちはなにも失ってなどいないということだ。万人がそうだ。愛するものとの別れのための葬儀で命の底から泣く者も、最難関の大学の合格を得ようと暗記に集中のすべてを注ぐものも、どんな者もおなじだ。彼らは人生の時間を燃料にして、未来に向かってまっすぐに進んでそれをすることを選んだ。この命の輝きに手を伸ばして、過去に流す時間と引き換えにいつだって新しい未来をつかんでいるのだ。

生きることは喜びだ。無二のものを得ながらの経験だ。誰もが無償で未来を迎え入れながら生きられるのだ。その恵みを思ってみよ。その恵みとはどんなものだ。
私たちが忘れていようとも、季節は流れて自然の移り変わりを恵んでくれる。私たちはその巨大なギフトに一銭も支払わなくてよいのだ。時はいかなる罪をも過去に流して私たちから取り去ってくれる。私たちがなにを呪っていようとも、世界は毎日私たちに新しく真っ白な時間を渡し続けてくれる。いかなる目新しい恵みよりも、この恵みを思ってみよ。それを楽観して、ここは神の創った楽園であったことに、どこかで気がついたものは目覚めた者だ。

楽観せよ。楽観を極めてみよ。さすらばお前は、己の楽観が有限であることに気がつくであろう。お前は恐れている。だから安心したくてここに立っている。より恐れずに生きたいのであろう。お前は己が楽観ばかりすることを憂いてここに立っている。そのお前が楽観しかできないとは誠のことだろうか。お前は、恐れがあるからここに来たのだろう。その悲観に打ちのめされるまで、極めて楽観してみよ。」

若者は話を聴き終え、拳を握り、膝をついた。悲観しかできないのではない。楽観しかできないのではない。私は己を知らないのだ。世界を知らないのだ。神を知らないのだ。生きることがどれだけ悲しいのかを、生きるのがどれだけ楽なのかを、どちらも知らないのだ。それを自分に教えてくれるのは、賢者ではない。この憎むべき、悲しい、天国のような世界で、そのどこかを切り取って色を付けて与えてくれるのは、どこまでも自分自身だったのだ。

若者は山を降りた。
道端に、馬の蹄に踏まれた小さな花が咲いている。
花は悲しいほどにみじめで弱く、誇らしいほどに楽そうに輝いていた。

若者は歌いながら家路についた。
その背は細く頼りないが、大きな青い空をまるごと乗せていた。

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