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32/1096 新鮮なあなたを知りにいこう

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。
3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で32日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。
そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくない人は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

32日目。この日数をカウントするときに、暦のように1ヶ月でまた次の月の1日になるのとは違って、こうして蓄積していけるのだなとふと思った。

それにしても、この綱渡り感がいつか消えていって、果たして毎日投稿を余裕でこなせる時が来るのだろうか?今日になって初めて、え?最後までこうなの?という疑問が湧いた。恐ろしい疑いである。考えまい。1日一歩だ。水前寺清子の言うことも今は聞くまい。三歩歩いたのに二歩下がってたまるものか。。。というわけで、今日の一歩、いってみよう!

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今日は1ヶ月を過ぎたことで、兜の緒を締め直さなくてはと思う。自分にもこんな用心深さがあることに驚くが、とにかく毎投稿を楽にこなしていくことが最大の鍵だと思うから、楽にやることについてアンテナを張っていようと思った。

時間帯の調整や、書きたいネタを思いついた時にすぐにスマホ上にメモれる環境、などなどの細かい自サポートを充実させていかねばならない。
一番は思いつきをなるべく考え込まずに文にすること。考え始めるとどこまでも深くなり、毎日の作業としてはヘビーになり過ぎてしまう。
というわけで、もう自分のことはどんどんそのまま表現していこう…そうすることに対する葛藤を超えていくのが近道なのだろう。

今日は自分の用心深さに驚いたから、自分でも自分に驚いたこと、について書いてみようと思う。

わたしは小さい頃、考え事が始まると、手に持っている味噌汁を、ジャアーっと膝にこぼしてしまうような子供だった。母からは「骨なし」と言われていて、これが自分にもどうにもならなかった。こぼしてから自分でも驚いた。そして、今もこれに似た面がそのままなのである。

ニンニクを刻んで炒めはじめる。良いことを思いつく。早速書きはじめる。どこからか、天ぷらを揚げる場面を連想させるような音が聞こえてくる。しばらくすると白い煙が漂いはじめる。書きながらも不思議に思っていると、今度は焦げ臭い匂いまでが漂ってくる。近所のどこかが火事なのではないかと思い、心配になってキッチンの窓から外を見ようとして、オイ!自分で炒めてたニンニクやんけ!!
呆れてため息とともに仕方なく鍋を洗う。もう一度ニンニクを刻んで炒めはじめる。はたと良いことが思いつく。書きはじめると、ここでなぜか天ぷら音だ。おや?不思議な白い煙までが。どこからか焦げ臭、いよいよ火事の疑いときて、オイお前!!と、これを連続で二回もやってしまったりする。

そんなデンジャラスなわたしだが、これでも人生のかなりの時間を料理に費やしてきた、料理好きな人物だった。
高校生の頃にお菓子作りが好きになって、小遣いをはたいて道具を揃え、さまざまなものを作った。そして前夫と同棲し始めてからは、餃子を皮から作ったり、かき揚げを菜箸だけでまあるく揚げられるように練習したり、創作料理を毎日のように作ったりで飽き足らず、長年の間に中華・和食・韓国料理・イタリア料理・フランス料理のル・コルドン・ブルーの教本の他に、トルコ料理、スペイン料理、インド料理、タイ料理、ベトナム料理まで、主に現地の人の書いた、もしくは現地取材による基礎を学べる本を買ってきては見境なしに作りまくっていた。

お粥やマリネやグリルの本も本格書を見つけると買ってきて、作って作って作りまくってひたすら食べていた。冷蔵庫の中には、イワシのマリネとか氷頭なますが待機していて、ときには日干しのために魚を入れた網がぶら下がっていて、冷暗所には漬けた梅酒や手作り味噌や手作りキムチが待機していて、こたつには甘酒が仕掛けてあったりという状態で、手作りの美味しいものを食べることが生きがいのひとつだった。

イタリアに来てからは、イタリア料理、特にヴェネツィア料理を頑張っていて、自分と家族が美味しいと思えるように作るところまでいって、ある時、パタっとその情熱が途切れた。高校3年の時から、実に20年以上の料理人生であった。ワシは死んだ。あんなに楽しかったのに、突然に「あ、もういいや」という気がした。自分でも驚いた。最近は腑抜けになって、気が向かなければ料理をせず、やっても簡単なものばかりなのだ。

この他に、編み物にもハマっていて、セーターを編んだりマフラーを編んだりが好きだった。そのままターシャ・テューダーになりたかった。添加物を取らず、自然なものだけを食べ、なんでも手作りして自然物だけで生きようと思っていた。野菜は限りなく家庭有機栽培の物だけを生で食べていた。
すべての化学繊維を家から排除して、タッパー類とサランラップを捨てて電子レンジを排除してシャンプーもリンスもいかなる洗剤も使わずに暮らした。浅はかにプラスチックと電磁波を憎んでいた。だがやはりこれも、ある時プツンと情熱が途切れた。ワシは死んだ。それからというもの、ポリエステルの服を着てマクドナルドを食べる人になった。驚きだ。

何にハマっていても、その渦中にいるときは、それが自分だという気がする。わたしは自分が料理好きな人、だと思っていた。わたしは自然派です、と思っていた。だが、それらの情熱はわたしを通過して霧のように消えていった。
今や料理をあまりしない化学汚染を敵視しない人だ。しかもこれを少しも不快に思わない。むしろ達成感と共に爽やかさすらある。自分でも驚く。人はわからないものだ。

もっといえば、わたしが料理好きだった頃、料理嫌いな人を理解不能だと思っていた。自然派に傾倒している頃は、今の自分のような人をどこか盲目なのだと思っていた。

こういう経験を繰り返して、いつの間にか私は、自分の好きなものを好きじゃない人、についてなんとも思わなくなっていた。
今わたしはスマホとパソコンが大好きで、死んだあとも使えたらいいのにと思っているほどだ。だけど、好きじゃない人のこともなんとも思わない。
 
言いたいのは、自分が好きなことに自分を預けて、本当にそこで自分の追求を経験すると、それが続こうが続くまいが上がって下がってを繰り返そうが、わたしのようにやめてしまおうが、人は変化を体験する。
ああ、自分は少し前に手を伸ばしていたことを今は望んでいないな。次の望みに移ったな。今度はこういうふうにしてみたいな、それもきっとやれれば気が済むな。・・・・・・・好きなことを追求することで、人は内観をするものだと思う。

すると、カッコよく言えば、己も万物と同じように、変化して流転し続けるものなんだなと、身体でわかるのだと思う。
そう意識してもしなくても、無意識には自分の変化というものを理解するのだ。そうすると、他者のことが良い意味でどうでもよくなる。
考えたって考えたって掴みきれない、無常のものだから・・

人にとやかく余計なお世話を焼きたい人は、自分が本当に追求したいフィールドに飛び込むことや、そこで満足を求めることをどこかサボっているのだ。だから、自分が変化していることを、実感できないままでいるのではないかな。それで、わたしはこういう人だから。という思い込みがゆらゆらの幻であることを身体が忘れている。
すると、他者のこともそう見えてしまう。あの人はこういう人だから。と。人のことをわかった気になる。それで、人のことを掴んだ気になって、要らぬ世話を焼いてしまうのだと思う。

だから、人から、あなたは~な人だから~した方が良い、とか、あなたのために~と言ってるんだと言われたら、うるせーよ、余計なお世話だぜ!と言っていいのだと思う。それ、自分のためにやったらどうなんだい?と。
そういう強気くらい、持っていられるといいと思う。(秘行のいいところは、徹底して自分のことは自分にしか決められないのだと思い出せるところ!)

まんずとにかく、好きなことを勝手に追求しよう。その過程で自分の意外性に驚いて、自分のことを新鮮に観る目を取り戻そう。今のあなた、どうなっちゃうかわからないよ~?(笑)
そして他者のことを、わかった気にならないでいたい。自分のことだって、自分のことはわからない、ということしかわかっていないのだから!
なんか真面目な話になってしまったなあ。最近はそういえばゲームをやっていない!あとでマインクラフトでもやるとしよう!

今日はこんなところで。また、明日!
























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