お墨付き【ショートショート】
もうろくしたジジイが電車内で声を荒げていると「ああ、この時がきたか」と思ってしまうのだが、今回の事案は少し違った。
あのジジイは車両の真ん中を陣取り、ドアとドアとの間でどうやら「書き初め」をしているらしいのだ。
乗客は皆、果たしてこれは害のあるタイプなのか、それとも無いタイプなのか、その様子を窺い、見定めているようだった。
電車内の地べたに大きく広げられた習字セット。ジジイは硯の端で太い毛筆の先を整えると、腕を上げ、最初の一筆を半紙へと乗せた。
スマホを見ている若い女性も、音楽に乗りリズムを取っているスカした男も、無関心のように見せかけて実はジジイの動向を気にしている。
サッサッサッ。
ジジイは書き終えた半紙を両手で持ち、大きく宙に掲げた。
『金』
車内の空気が、一斉に危険信号へと変わる。
『金』……金に飢えている奴は一体何を仕出かすかわからない、危険だ、と皆そう受け取ったのだ。
緊張感が収まらぬ中、次いでさらにジジイは筆を取る。そしてまた掲げる。
『平和』
車内の空気がまた、一変する。これは、警戒信号くらいだろうか。張り詰めていた空気は少し緩まった。
『平和』 ……政治思想が強いタイプはそれはそれで恐ろしい。しかしまあ、平和を重んじているのならば……と乗客の中でも判断が分かれているようだ。
また次いでジジイはまた筆を取る。そして掲げる。
『玉子焼き』
車内で無音など感じるはずもないのだが、その時ばかりはしばしの間が流れた気がした。
『玉子焼き』……その4文字に、車内はほぼ平常運転に戻った。玉子焼き。それ以下でも以上でもない、ただの玉子焼き。
なんだ、このジイさんはただの奇人で、自分には害などないのだ。多くの人がそこで警戒のアンテナを下ろしたように見えた。
ビリ、ビリビリビリ。
しかし平穏も束の間、ジジイは突然『玉子焼き』の半紙を手で千切り出した。
これにはアンテナを下げた者たちも身の危険を感じ、再び受信を開始する。
(もしや、玉子焼きに恨みがあるのか)
(いや、玉子焼きは何かの暗喩?)
(自分が玉子関連のものを持っていたら、絡まれるんじゃないだろうか)
(目玉焼きならば安全なのだろうか)
数々の疑念が飛び交っているように思える。
目を凝らしてよく見ると、どうやらジジイは「玉子」の「子」を破り捨て、リストラしたようだ。
そして再度筆を取り、新しい半紙に「の」と一文字だけ書いた。
ジジイは硯に筆を置くと大きく息を吐き、今まで書いた半紙を持って立ち上がった。
これまで書き初め以外の行動を見せなかったジジイだが、ここにきてついに乗客たちをじろっと見回した。
他の乗客は皆、「ああ、やはりこの時が来たか」と俯いている中、まじまじと観察していた俺は、ふっと目が合ってしまった。
俺はすぐに悟った。これはまずい。案の定、ジジイは俺に向かって歩いてくる。
今更ながらに顔を下に向けたが、ジジイは俺の目の前まで来ると立ち止まった。あーあ、と俺は思った。
すると、ジジイは今まで書いたその半紙を、俺にまとめて突き出してきた。
ガタンゴトンと電車が揺れる中、たくさんの沈黙が流れる。ここで無視するのも限界があるので、受け取ってしまうか。
ゴクリと唾を飲み、俺がそっとその半紙を受け取ると、ジジイは車両の中央へと戻り、さっさと習字セットをまとめて隣の車両へと移動していった。
なんなんだ。
車内の緊張が解けたと同時に、残された半紙と俺へ、乗客からの視線が集まる。
『金』『玉』
『の』『平和』『焼き』
先ほど『子』がリストラされたことから、俺の手元に残された内容について、乗客達の中でひそやかな推理が始まっているようだった。
(え、金玉?)
(金玉の、平和焼き?)
(金玉の平和焼きじゃない?)
斜め向かいに座る若い女性陣の声が小さく聞こえてくる。
(金玉の平和焼きらしいぞ)
(金玉の平和焼きって何?)
どこぞの夫婦も話している。
こうして、俺は電車を降りるまでずっと、変なジジイから金玉関連の半紙を受け取った奴として見られていた。
後にSNSのトレンドに『金玉の平和焼き』を見た気がしたが見なかったことにした。
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