ヨガボディ

『ヨガ・ボディ -ポーズ練習の起源 -』を読み解いてみる vol.3 - ハタ・ヨガについて (P36〜43)-

『ヨガ・ボディ -ポーズ練習の起源 -』
マーク・シングルトン 著


第1章 略史:ヒンドゥーの伝統におけるヨガ
【ハタ・ヨガ】P36〜43

●ハタヨガの基礎となったもの(P36)

 13世紀から盛んになり18世紀には廃れたハタ・ヨガの基礎となったものは、 シヴァ派タントラの技術と哲学。

●「ハタ」の意味(P36)

 「力強い」あるいは「生き生きとした」という意味であるが、内面の陽(ハ)と陰(タ)の統一という目標を意味するとも言われている。

●ハタヨガの体系(P36)

 ハタ・ヨガの体系は教義的でなく、インドの特定の宗教と「のみ結びつく」ものでなかった。

しかし、、

ゴーラクシャ・ナータ
マツエンドラ・ナータ(ゴラークシャ・ナータの師。シヴァ派ナータ・サンプラダーヤの開祖)

 この2人の名前とハタ・ヨガは結び付けられることが多いし、実際のところナータとヨガ実践者のグループとの間にはかなり濃厚な交流があった。

 また、ナータ、スフィ・ファキール、ダシュナーミ・サニヤシンの間には深い交流があり、これらのグループ間ではさまざまなやり取りが行われていた。少なくとも、1800年代末までは、ナータのヨギンたちは、カーストや宗教にこだわらず、弟子を獲得しており、イスラム教のヨギン達も取り込んでいた。

 このおかげで、ハタ・ヨガ実践は広がった。

●ハタヨガ文献(P37)

・『ゴーラクシャ・シャタカ』・・恐らく最古のハタヨガの有名なテキスト
・『シヴァ・サンヒター』・・15世紀
・『ハタ・ヨガ・プラディーピカー』・・15〜16世紀
・『ハタ・ラトナーヴァリー』・・17世紀
・『ゲランダ・サンヒター』・・17〜18世紀
・『ヨガ・プラディーピカー』・・18世紀

 ハタ・ヨガには、シャンカラアドヴァイタ・ヴェーダンタ哲学の信奉者たちが強い関心を向けたために18世紀前半に数多くのナータ文献のテキストが108のウパニシャッドとして南インドで編纂された。

しかし、、、

 この過程で彼ら(シャンカラのアドヴァイタ・ヴェーダンタ哲学の信奉者たち)のヴェーダンタ哲学のバイアスがかかったために、ケーチャリー・ムードラの実践といったナータ的なハタ・ヨガの重要なポイントが省かれてしまった。実はこれと同じようなことが近代ハタ・ヨガ再発見においても起こった。(-ヨガ・ボディ-P37より引用)

*ケーチャリー・ムードラでは、舌小帯を徐々に切ったり、舌を突き出すなどして、やがて眉間に達するまでにする。その長い舌を反転させて頭蓋の内側の突に入れる。この練習により、ヨギンはビンドゥから滴る不死の甘露の液を飲むことになるとされている。(ハタ・ヨガ・プラディーピカー 3.32-53、ゲランダ・サンヒター 3.23-32 )(-ヨガ・ボディ-注より引用)

●ハタ・ヨガの基本(P38)

 ハタ・ヨガでは、人間の身体を永遠の命の器に変えることが最大の関心事。(古典テキストによると、人間の身体をナーディとよばれる菅が網の目になったようなものと捉えていた。)

・シャットカルマについて
 ハタ・ヨガの基本は6つの浄化法(シャットカルマ)。

1. ダーウティ
 長く細い布を飲み込むことによる内蔵の浄化

2. バスティ
 ヨガ式浣腸。腹筋(ウディヤナバンダ)を使い結腸に水を吸い込む。

3. ネティ
 水が細かい布による鼻腔の浄化

4. トラータカ
 小さい標的やろうそくを見つめて出涙。

5. ナウリ、またはラーウリキサージ
 腹の直筋を強くぐるぐると回すことによる腹部のマッサージ。

6. カパーラバーティ・・腹筋と連動して息を鼻から強く吐き出す。

 以上の6つの浄化は『ハタ・ヨガ・プラディーピカー』と『ゲランダ・サンヒター』に記述されている。

●アサナについて(P38)

◾️15世紀の『シヴァ・サンヒター』において
 84種類のアサナがあると述べているが、実際に説明があるのは4種類の座位だけ。

◾️15〜16世紀の『ハタ・ヨガ・プラディーピカー』において
 アサナはハタ・ヨガの第一部門であるとされ、それにより、剛健さ、健康、身体の軽さが得られるという。

 このテキストでは、15種類のアサナが説明されており、その中のいくつかには、どいう治療効果があるのか書かれていた。

◾️17〜18世紀の『ゲランダ・サンヒター』において
 アサナは浄化の次に大事なものと位置付けられ、32種類が紹介されている。

●プラーナーヤーマについて(P38)

 こうしたハタ・ヨガ実践の中でもっとも中心にあるのがプラーナーヤーマ。(あるいはハタ・ヨガ・プラディーピカーではクンバカと呼ばれる息を止めることだ。) 

 プラーナーヤーマは身体の栓(あるいはムードラ)を使って、プラーナ(生気)をスシュムナーあるいはブラマナディと呼ばれる中心的な菅に強く吹き込むことにより、身体の脈菅(ナーディ)を浄化し調整すると考えられていた。これが背骨の基底部に眠っている蛇のイメージで表現されるクンダリニーと呼ばれるエネルギーを興すのである。(-ヨガ・ボディ-P38より引用)

●ムードラについて(注 P280)

◾️15〜16世紀の『ハタ・ヨガ・プラディーピカー』において
 7つのムードラに名前をつけている。

◾️17〜18世紀の『ゲランダ・サンヒター』
 25のムードラを挙げている。

●ナーディについて(P39)

 古典テキストによると、人間の身体は、ナーディとよばれる菅が網の目になったようなものである。

◾️15世紀の『シヴァ・サンヒター』において
 ナーディの数は30万ほどとされている。

◾️15〜16世紀の『ハタ・ヨガ・プラディーピカー』において
 ナーディの数は7万2000ほどとされている。

 シャットカルマ、アサナ、プラーナーヤーマ、ムードラの全てはこのナーディの浄化と調整のために行われる。

 このナーディのうちでも中心的なイダーとピンガラーの2つは中心菅(スシュムナー)の左右に位置するとされており、身体という小宇宙の月(陰)と太陽(陽)だとされていた。

 チャクラ、あるいはハタ・ヨガやタントラでいうところのパドマ(蓮華)は背骨上に6つか7つ並んでいるとされていた。これらはイダーとピンガラーが交差する場所である。

 シャクティ女神の化身だるクンダリニーの蛇がすべてのナーディを束ねられている背骨の基底部で、とぐろを巻いて寝ているのであるが、これが目覚めてスシュムナーを上がっていくときにチャクラを貫いていく。

 こうして気(プラーナ)が空(スーニャ)に吸収されていき、実践者は三昧(サマディ)状態になり、解脱(モクシャ)を得られるとされていた。

●世界に広がるハタ・ヨガ(P39〜P40)


今、世界に広がるハタ・ヨガがこれらのテキストに書かれたモデルからいかに離れているかは、なかなか興味深い。

 もっとも違うのは、健康・フィットネス・長生きのためのシステムといった観点からアサナにもっとも重点が置かれている点であり、ハタ・ヨガにとって重要であったシャットカルマ(6つの浄化)、ムードラ、あるいは(程度はもっとも軽いが)プラーナーヤーマはほとんど取り上げられていないことである。

 一部のヨガ流派はその一端を伝えているが、近代ヨガではアサナが主となっているため副次的な要素となっている。

 結局そのために『ゴーラクシャ・シャタカ』、『ゲランダ・サンヒター』、『シヴァ・サンヒター』、『ハタ・ヨガ・プラディーピカー』といった古典に書かれていたハタ・ヨガと近代ヨガは別物になっていると言えるのだ。

- ヨガ・ボディP39-40より引用 -

 例えば、ビハールヨガ学校では、

・ヴァマナ・ダーウティの一種「クンジャル」
・ヴァーリサーラ・ダーウティの一種「シャンカプラクシャラーナ」
・ネティ

といった、シャットカルマニのうちの3つが教程に入れられている。 
 
ハタ・ヨガ・プラーナーヤーマは初心者の時点から教える。
 ハタ・ヨガ・ムードラについては、もっと熟達してから教える。

 ビハールヨガ学校は北インドでもっとも重要な教師養成機関であるが、T・クリシュナマチャルヤの教授法から発展したアサナ中心のシステムに比べ、あまり欧米には知られていない。

●タントラ的世界観について(P40〜P41)

 ハタ・ヨガの基礎になっていたタントラ的世界観も近代ヨガではかなり小さい意味合いしか持っていない。

 近代ヨガへの伝承という観点からすると、古典的なハタ・ヨガの身体観は、ナーディ、チャクラ、そしてそれらのクンダリーニに関する働きについても部分のみが多少取り入れられている程度に過ぎない。しかも、それらへの言及は、今日のヨガ実践者の間で読まれているファッショナブルな本などでも見られたり、なにか深遠なものがあるようだという感覚には結びついているものの、ハタ・ヨガ的身体観の全体像やそれに関する実践は最低限に抑えられており、実際にヨガを教える場でそれが取りざたされることはあまり多くない。

 むしろ、今日の平均的な英語圏のヨガの教室では、もっぱらアサナの練習という面に重点が置かれていて、ハタ・ヨガ的身体観はほとんど顧みられていないと考えてよいだろう。

 ヨガ教師たちは、そのトレーニングの過程で一応ナーディやチャクラについて学びはするものの、読むものといえば近代的解説や翻訳を通じてのハタ・ヨガ・プラディーピカーであって、そうした知識が古典テキストに書かれているような、あるいはテオ・ベルナールインドで伝統的ハタ・ヨガ実践を行いながら書いた書物に書かれているような実際のヨガ実践に結びついているような例はほとんど見られないのが実情だ。

- ヨガ・ボディ P40-41より引用 -

●チベットヨガについて(P41〜42)

 ボンヤヴァジラヤーナ仏教実践からきているチベット・ヨガが欧米でも教えられるようになってきているが、こちらのほうが古典的なハタ・ヨガ的身体観を実践に結びつけている。こうしたチベット・ヨガは国際的になったインドのハタ・ヨガがどれだけ文脈から離れても成り立ちうるかを示しているといえる。

 要するに、インドの伝統は、ポーズ中心の英語圏ヨガには正当に伝わっていないということがここで押さえておきたいポイントだ。

- ヨガ・ボディ P40-41より引用 -

 グドラン・ブーネマン84の古典的アサナを取り上げた書物では、今日のヨガ各流派が直接的に古典テキストに書かれたハタ・ヨガを基礎にしたものではない点を強調して次のように記している。

 「古典的ハタ・ヨガの各流派では、主に輪廻からの解脱を目的としており、アサナには副次的位置しか与えていなかった。『ヨガ・スートラ』もウパニシャッドもアサナを強調してはいない。ナータやハタの伝統的テキストですら、扱われているアサナの種類は限られている。こうしたアサナは副次的であるという捉え方は明らかに今日のヨガとは異なっている」

- ヨガ・ボディ P42より引用 -

●『ヨガ・ボディ -ポーズ練習の起源-』のなかで著者が明らかにしたいこと(P43)

 今日世界的に流行しているアサナ中心の英語圏ヨガは、ハタ・ヨガの伝統の直系でないことがわかった。だからといって、インドの伝統的なアサナの練習とは無関係だとは言い過ぎになるが、要するに、アサナ中心への移行は、ヨガの歴史においてはかなりラディカルな転換・試みであったといえる。これは、インドが近代と出会った結果生じた新しい身体観のために起こったものといえるだろう。この本が明らかにしたいのは、そのような近代的な身体技法としての新しいスタイルは一体どこから来たのかということである。

- ヨガ・ボディ P43より引用 -

●次章について

 アサナを周辺にやっていた、ハタ・ヨガへの反感と、それが原動力になって身体技法としてハタ・ヨガが生まれ変わったのだということを描いている。

●まとめ

◾️身体観の比較
・現代のわたしたちの一般的な身体観
「身体」=目に見える身体


・古典に書かれているハタ・ヨガの身体観
「身体」 = ナーディとよばれる菅が網の目になったようなもの。
(一般的には目に見えない。)

 上記の比較をみてわかるとおり、「身体」への視点が現代におけるわたしたちの一般的な身体観とは異なっていたということがわかる。

 言い換えたら、わたしたちが存在している世界に対しての視点が、現代におけるわたしたちの一般的な視点と異なっていたといえるかもしれない。

 わたしたちが普段一般的に認識にしている「身体」は目に見えるもの。古典に書かれているハタ・ヨガの「身体」は一般的には目に見えないナーディとよばれる菅が網の目になったようなもの。これが、近代ヨガと古典におけるハタ・ヨガとの違いとも繋がっている。

 近代ヨガと古典に書かれているハタ・ヨガの比較をまとめてみると、

・近代ヨガ
 健康・フィットネス・長生きのためのシステムといった観点からアサナ(ポーズ練習)にもっとも重点が置かれていることが多い。

 古典に書かれているハタ・ヨガの中心だったプラーナーヤーマ、シャットカルマ(6つの浄化)、ムードラといった練習や浄化法が副次的になっている。

 又、古典に書かれているハタ・ヨガの身体観を構成する、ナーディ、チャクラ、そしてそれらのクンダリーニに関する働きについても部分のみが多少取り入れられている程度に過ぎない。

 つまり目に見える「身体」に焦点が置かれている。


・古典にかかれているハタ・ヨガ
 古典的ハタ・ヨガの各流派では、主に輪廻からの解脱を目的としていた。

 又、古典にかかれているハタ・ヨガでは、「身体」 自体を、ナーディとよばれる菅が網の目になったようなものと捉えていた。そして、「人間の身体(ナーディ)を永遠の命の器に変えることが最大の関心事」だった。

 だから現代とは異なり、目に見える「身体」のしなやかさや強さをアサナを通して育むという練習は古典にかかれているハタ・ヨガでは重要視されていなくて、プラーナーヤーマ、シャットカルマ(6つの浄化)、ムードラ、アサナといった練習や浄化法を、全てナーディの浄化と調整のために行っていた。ハタ・ヨガ文献に残されていたポーズも現代と比較したら極端に少なく、しかも座位のポーズがほとんどだった。

 つまり、一般的には目に見えない「身体」に焦点が置かれている。

 したがって、インドの伝統的なアサナの練習とは無関係だとは言い過ぎになるが、今日世界的に流行しているアサナ中心の英語圏ヨガは、ハタ・ヨガの伝統の直系でなく、アサナ中心への移行は、ヨガの歴史においてはかなりラディカルな転換・試みであったといえる。これは、インドが近代と出会った結果生じた新しい身体観のために起こったものといえる。

◾️ハタ・ヨガ文献について
 シャンカラアドヴァイタ・ヴェーダンタ哲学の信奉者たちが強い関心を向けたために18世紀前半に数多くのナータ文献のテキストが108のウパニシャッドとして南インドで編纂されたときに、ヴェーダンタ哲学のバイアスがかかったために、ケーチャリー・ムードラの実践といったナータ的なハタ・ヨガの重要なポイントが省かれてしまったとあるように、自分たちにとって都合が悪い部分だけ省き、都合が良い部分だけを使うというアレンジを行なっている。

 古典のヨガ文献についてこれは一例にすぎず、『ヨガ・ボディ - ポーズ練習の起源 -』の色々な場面で、「アレンジ」している事例がこの後も沢山出てきていて、前回の連載で紹介した「権威づけ」とともに、これもこの本を読み進めていくなかでのポイントの一つだと思う。

●わたしのメモ

 現代の身体観と古典にかかれているハタ・ヨガの身体観の違いが、現代のヨガプラクティスがアサナ中心になっている理由の一つだということがこの章を読むとわかる。この章の後を読み進めていくとわかるのだが、勿論それ以外にも理由が複数ある。

 この章でわたしが普段、ヨガ講師として日々暮らす中で感じていることとの接点として気になった部分は以下である。

 「ヨガ教師たちは、そのトレーニングの過程で一応ナーディやチャクラについて学びはするものの、読むものといえば近代的解説や翻訳を通じてのハタ・ヨガ・プラディーピカーであって、そうした知識が古典テキストに書かれているような、あるいはテオ・ベルナールインドで伝統的ハタ・ヨガ実践を行いながら書いた書物に書かれているような実際のヨガ実践に結びついているような例はほとんど見られないのが実情だ。」(『ヨガ・ボディ - ポーズ練習の起源 -』P41より引用)

 わたしは、ヨガ講師の方々が、ある一つの解釈や視点を絶対的なものとして、生徒さんに提示する光景を普段からよく見かける。

 例えば、日本語でバガバッド・ギーターの翻訳、解説されている本の一つだけを参考文献にしてバガバッド・ギーターのことをヨガ講師が生徒さんへ伝えたりすること。しかもそれが絶対的なもののように、権威づけするような形で伝えていたり、それをやっているヨガ講師がそれ自体を認識していないこと。これは特に日本語に翻訳されている文献の数が少ないからこういうことが起きやすいのかもしれないが、これはすごく危険なことだと感じている。

 なぜなら、このようなことをヨガ講師がしてしまうと、生徒さんはそれだけを信じ込んでしまう可能性があるからだ。生徒さんはヨガを始めた当初色々なことがわからないからそうなるのも当然だ。でもそうすると、どんどん偏ったものの見方だけが広がっていくということが起きてしまう。日本語のみならず他の言語でバガバッド・ギーターの翻訳、解説された本は多数出版されている。しかも翻訳や解説された文献は、それを行なった人の解釈や解説。つまり、あくまでも一つの解釈や視点に過ぎないのにも関わらずだ。

 だからこそ、わたしたちがそのことを認識することは、とても重要だし、伝え方にも気をつけなければならないと思う。

 現代のわたしたちのヨガプラクティスが、古典テキストに書かれているような実際のヨガ実践に結びついていないこと自体は悪いとはわたしは思わない。つまり、古典にかかれているハタ・ヨガを、「アレンジ」すること自体を悪いとは思わないということ。なぜなら、現代のわたしたちのヨガプラクティスは人々にたしかに恩恵をもたらしているからだ。

 この後読み進めていくとわかるのだが、実際、多くの人がヨガのルーツと思っているインドも、それを行なってきている。古くから伝わってきているものをそのままやるのが、インドの伝統ではなくて、古くから伝わってきているものでそのときに良いと思うものは残していきつつも、新しいものも取り入れて、古くからあるものとの接点をみつけて提示をすることで新しいものをクリエイトするという行為をインド人のヨガの発展に関わってきた方々はずっとしてきていて、それがインドの伝統のひとつではないかという視点も見えてくる。

 それはインドだけではなく、わたしたちが普段触れているような、現代のヨガの文化にも繋がっていることだ。

 「アレンジ」することを良いと捉えるのか悪いと捉えるのかは、その人次第だと思うが、わたし自身の主観的な意見としては、古いものを何の疑問持たずに、思考せず、そのままやるという行為自体が理解できない。

 ヨガの練習が作られるとき、そのときの時代、社会、国、気候、ライフスタイルなど色々な背景があるなかで、その内容が作られてきた。

 だからそのときにはフィットしていたかもしれないが、社会、国、気候、ライフスタイルなどは色々なバリエーションがあり変化もしていくし、人自体が多様性があり固定化していないから、最初に作られた雛形がいつも全てに当てはまるとは限らない。

 だから、固定化するのではなく、常に流動的に変化し続ける。つまり、「アレンジ」をし続けることは重要だとわたしは思う。

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未知な道を探求するヒト科。DJ歴20余年のヨガ坊主。
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