ヨガボディ

『ヨガ・ボディ -ポーズ練習の起源 -』を読み解いてみる vol.1 - はじめに -

 わたしは今のところ
 インドへ行ったことのないヨガ講師。

 この仕事をしていてよく聞かれることがある。

「ヨガって、インドが発祥の地なんですか?」
「ヨガの本場はインドなんですよね?」
「ヨガを本腰入れて学びたくなったらインドへ行った方が良いですか?」

 わたしが暮らす国では「ヨガ=インド」というイメージを抱いている方がとても多い。これは生徒さんだけではなく、ヨガ講師の方でも同様だ。

 ちなみにわたしはヨガの指導経験は2000時間以上あり、全米ヨガアライアンス認定E-RYT200という資格を保有するYACEP。(YACEPとは‟Yoga Allaiance Continuing Education Provider” の略で、「継続教育プロバイダー」という意味。ヨガアライアンスから認定を受けているRYT指導者のための継続教育を、講座、ワークショップ、コースなどで提供する講師のこと。)

 以前所属していたヨガスタジオでは、レギュラークラスの他に全米ヨガアライアンス認定のティーチャートレーニング、私の先生のワークショップのアシスタントを務めていたので、ドイツのミュンヘンや韓国のソウルといったインド以外の国へはヨガの仕事で行ったりしている。

 それでも、インドへ行ったことない講師は本物ではない、中途半端な講師という見方をされることは今までに多々あった。

「先生はインドへ行ったことあるんですか?」

と、生徒さんからも、他のヨガ講師の方からもよく聞かれる。

 しかしわたしには、ヨガの発祥や本場がインドであろうとなかろうと、「そこへ行ったことがなければ、本物のヨガ講師ではない」という感覚が全くない。

 わたしは、そもそもヨガがその人にとってどういう存在なのかということが大切だと思っている。

 「ヨガは個人がより解放された状態で自分の可能性を実感していくための手段。ヨガとは本質的に規制したり、ルールによって堅苦しく解釈するべきものでもなく自由に至る道であると考えている。」

 これはわたしの先生の一人が話していた言葉だけど、この話を初めて聞いたときワクワクしたことを今でも忘れない。わたしがヨガに興味をもったきっかけはこの話だった。

 ヨガに出会った頃のわたしは、どうして個人がより解放された状態で自分の可能性を実感しながら仕事や社会が成り立たないのだろう?という疑問を持っていたから、彼の話していたことに共感したのだ。

 その考え方はもともと誰かから与えられたものではなく自分に湧き上がっていたことだったけど、同じことを言う人がいたということにも驚きと嬉しさと興奮があった。

 だからもしかしたらヨガというよりは、わたしの先生のヨガについての解釈に共感したと言い換えることができるかもしれない。そしてこれだけが正しいとも思っていない。

 わたしにとって、ヨガはそういう存在だというだけ。

 ただそれだけだ。

 だからもしかしたらある人にとっては、わたしの見方について、それはヨガではないと思う方もいるかもしれない。

 それでいいと思う。

 わたしは、現代においてどれが本物で、どれが本物でないという議論は全く意味がないと思っている。今ヨガを取り巻くなかで起きていること全てがヨガの要素だと思うから、解釈は多様でいいと思う。そしてそれぞれの捉え方によって、いかようにでも変化する柔らかさをもっているとこがヨガの魅力のひとつなんじゃないかな。

 わたしが暮らす国ではヨガの言葉の意味に関して

「ヨガ=つなぐ」
「ヨガとは心の作用を止滅すること」

という端的な解釈をされることがとても多い。

 確かにこれはヨガという単語に含まれる意味のひとつひとつではあるけど、実際は多様な要素がこの言葉に内包される。

 言葉の意味だけではなく、特にわたしたちがやっているような近代のヨガの練習は多様な要素が含まれているし、それが出来上がってきている過程も複数の要素が絡み合っている。

 そのことは以前から、エミール・ウェンデル先生、ジェイソン・バーチ博士のワークショップのお話などで知っていたのだが、近代国際ヨガについての研究と執筆を行っている、マーク・シングルトン先生が書いた一冊の本を読みその理解がとても深まった。

 それは、国際的にひろがるアサナ(ポーズ)をとることを中心にした近代ヨガがどのように始まったかを研究した、「ヨガ・ボディ - ポーズ練習の起源 -」という本である。

 世界的なヨガ・ブームにもかかわらず、(瞑想用の座位を除いて)アサナが本当にインドのヨガ実践の伝統において中心的なものだったという証拠はほとんどない。ヨガの流派の多くが正統的ヨガを伝えていると主張しているにもかかわらず、中世からある身体重視のハタ・ヨガでさえ、アサナ中心であったという確証はない。今日のアサナ中心のヨガのありようは、近代以前にはみられなかったものなのである。(ヨガ・ボディ - ポーズ練習の起源 - P3~P4より引用 -) 

 この文を読むだけでも最初わたしは驚いた。

 この本を辿っていくことで、近代ヨガは、ヒンドゥー教の近代的再興、近代インドという国家のさまざまな社会・政治的欲求、欧米の宗教と身体を結びつける流れ、欧米の様々な身体文化などが密接に関わっているという発見があって、今まで知っていたこととはまた違った角度から、ヨガの見方についての視野を拡げてくれた。

 又、「ヨガ=インド」と単的に紐付けられないことや、わたしたちが今やっているようなヨガの練習がどこからきたものなのかについて誤解していることが多いことが明確にわかった。

 例えば、T・クリシュナマチャルヤ氏の教授法、パタビ・ジョイス氏のアシュタンガ・ヨガ、B.K.Sアイアンガー氏のアイアンガー・ヨガやスワミ・シヴァナンダ氏のシヴァナンダ・ヨガといった有名なヨガの流派の練習や哲学はインドにもともと全てがあったものではなく、欧米の文化を取り入れながら、自分たちのもともと持っていた文化と結びつけ、クリエイティブに新しい文化を作った可能性があることが見えてくる。

 ヨガの解釈のされかた、社会の人々からのイメージは時代によって違ってきているという事実があり、インドという国やインド人が、柔軟な心を持ちながら、クリエイティブに、ときには少しずる賢さのようなものを持ちながら他国の文化も取り入れて、変化し続けてきているのだ。

 それはまるでヒップホップのようだ。

 ヒップホップの文化とサンプリングという手法は密接だ。サンプリングは既存の録音された音を、サンプラーという機材を使って再構築することでトラック(インスト)を創っていくというのが一般的だ。

 つまり音なら何でも使えるから、無限の種類の音楽がバックグラウンドにある。そして録音される音は「過去」だ。その「過去」に敬意を持ちながら、現代のテクノロジーを使って、新しいものを生み出していきながら、原曲の新しい側面を引き出してくれる。そして現代において、ヒップホップは色々な国でそれぞれ新しいものが今も生まれてきている。

 例えば、このStay Twistinという曲は、もともとAhmad Jamal TrioのThe Awakeningって曲のなかでアメリカ出身のジャズピアニストのAhmad Jamalさんが弾いているピアノの音をサンプリングして、Fumitake Tamuraさんという日本のアーティストが作ってる。

 古くから伝わってきていることを大切にしつつも、良いと思ったものも取り入れて、新しいものを創造していくということをずっとインドはしてきてる。

 そしてこの行為自体がインドの「伝統」では?ということにも触れていくから、この本を読むことで「伝統」とは何か?ということについても熟考できる。

 また、この本で解き明かしている近代ヨガの歴史を紐解くことで、現代のヨガを取り巻く世界がどうして今のようになっているのかということについても理解が深まる。

 わたしの暮らす国では、ヨガの文献といえば、ヨガ・スートラバガヴァッド・ギーターというような文献ばかりが重要視されすぎているように感じる。勿論、重要な文献であることは間違いないけれど、それらは絶対的権威があるようなものではなく、数あるヨガの文献の一つにしか過ぎない。

 この『ヨガ・ボディ - ポーズ練習の起源 -』という本は、現代のヨガ講師や練習者にとって重要な本だとわたしは思う。しかし、この本がわたしの暮らす国でも翻訳されているのにも関わらず、あまり認知されていないのがわたしには不思議だった。

 「ヨガ=インドだからヨガの本場インドへ行かなくちゃ!」みたいな気持ちを持っていて何か苦しい思いをしている方がいらっしゃったら、この本を読むことによって、もしかしたらその気持ちからは解放されるかもしれない。

 インドへ行くことは勿論すごくいいことだと思うし、わたしも行きたくなったら行こうと思う。

 ただインドへ行ったことがなくても、ヨガに対して劣等感のようなものを持たなくていいんじゃないかな。そう思うんだ。

 この本がくれた気づきで、わたしにとって最も重要だったことは、人から聞いたことや、既に定義づけされ固定化しているように感じるものごとを、ただ鵜呑みにするのではなく、「本当にそうなのかな?」という疑問をもち、違う視点から見てみようという柔らかさを忘れずに、事実を客観的にみて、肯定的な意見と否定的な意見の両方に客観的に耳を傾けつつ、自分の見解を導き出していくことが大切だということ。そして同時に、違う意見の方を攻撃的に批判せず相手の意見も尊重すること。

著者のマーク・シングルトン先生はこの本のなかで終始そのようなことをされていて、これはヨガに限らず人生における様々な場面で重要だと感じた。

 このようにこの本は多くの情報、発見や気づきのあるとても奥行きがある素晴らしい本だ。しかし、ヨガの歴史などに今まで触れたことないと少しわかりづらい本なのかもしれない。そう思ったので、この本に触れたことない方々が触れるきっかけになったり、買ってみたけどいまいちわからなかったとういう方々が理解しやすくなることを願い、この本を読み解いていくノートをシェアしていこうと思う。

 この本を作るにあたって、マーク・シングルトン先生が読まれてきた膨大な数の文献(日本語に翻訳されていないものも多数)を、わたし自身が全て読んできて理解してきているわけではないので、この本を完全にわたしが解説をできるような立場にはないと思っている。これをお読みになる皆さんと同じでわたしも今も勉強中だし、そもそも勉強が終わることなんて一生ないと思ってる。だから至らない点も多々あるし、わたしの勉強ノートをシェアしていくような形に近くなるだろうから、お読みになる皆さんには、この情報が絶対だと思い込まずに、柔らかい気持ちで読んで頂けたらと思う。


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