同性愛者の私がVR技術に惹かれる理由 ―反知性主義が叫ばれる中で―

 先日、「KAI-YOU.net」にて、VR(Virtual Reality/実体現実感)というテーマで東京大学工学部の稲見昌彦教授を取材させていただいた。その内容については『稲見昌彦 東大教授インタビュー VRは世界をどう変えるのか?』をぜひ一読していただきたいが、本稿では題名の通り、“なぜ同性愛者である私がVR技術に惹かれるか?”についてを、例のごとく個人的な体験を踏まえて展開していく。最初にその答えを端的にいってしまえば、VRに“ある希望”を感じているからだ。

 インタビュー記事にもある通り、VRは他者と体験を共有することが出来る技術である。“他者になること”によって、差別意識や偏見が緩和されることが期待されている(詳しくはインタビュー記事の後編を参照)。

 当たり前のことだが、他者の体験や視点を共有することは非常に難しい。

「今の子、可愛くなかった?」

 こんな言葉で、私はこれまで自分と他者の見ている世界が違うと強く意識してきた。街中を男友だちと連れ立って歩いていると、誰かがふと言う言葉。周りの男友だちはそれに同意したり、ときに反論したりするけれど、私はそもそも女の子の顔なんてほとんど見ていない。だから、曖昧にごまかしたり適当に相槌を打つしかない。私の場合、街行く太った男性の顔ばかり見ている。だから、私の視線が一般的でないことは早くから自覚していたのだ。

 今回の取材でぜひ聞いてみたいと思った稲見教授へのいくつかの質問の中で、特に聞きたかったのが「『VR技術によって、現実に戻ってこれない人が増えたら問題だ』という批判に対して、どのように考えているか?」という問いだ。

 これまた個人的な話だが、学生時代、履修していた大学の授業で「10年後の未来を予測した上でのサービスやコンテンツを考える」というグループ課題が出された。私は「デジタルサイネージを利用して、現実世界でアバターを介してコミュニケーションが取れるシステム」というアイディアを出し、それを押し通してプレゼンテーションを行った。このアイディアは、デジタルサイネージに映し出されたアバターという別人格になりきってコミュニケーションを行うというものだった。

 8年前の当時は、セカンドライフが取りざたされ、デジタルサイネージやRFIDといった技術に注目が集まっていた時期で、これらの技術を組み合わせれば、このアイディアは10年後(2018年)には実現可能なものだと考えた。そもそもの発想のきっかけは、人間はいくつものペルソナを使い分けているというもので、それこそ広くカミングアウトをしているわけではない私は、一般男性としての顔と同性愛者としての顔を日常的に使い分けていた。そのため、ペルソナ(=サブアカウント)を使い分けるということは、自分にとって当たり前のことだった。加えて、当時全盛期を迎えていたミクシィのコミュニティ機能(自分の好きなものを介した共同体)を見るに、タコつぼ化する社会が当たり前になっていることもひしひしと感じていた。だから、当時は「同性愛者としての自分をそのまま出せるアバターが欲しい」と思っていたのだろう。今、それはこの“須賀原みち”というペンネーム(ペルソナ)で実現しているが。

 とまれ、こうしたアイディアをプレゼンテーションをした私に対して、課題を評価する審査員のひとりが、私にこう投げかけた。

「こういうゲーム的な世界と現実を混同するようなものは危険じゃないですか? もし現実との境目がわからなくなってしまったら、秋葉原の事件のようなことが起こってしまうんじゃないか」

 ここでいう“秋葉原の事件”とは、2008年に加藤智大が秋葉原の交差点にトラックで突っ込み、17人を死傷させた事件のことである。当時、起こったばかりのこの事件を引き合いに、プレゼンへの批判意見が出された。つまり、その審査員は加藤智大を「ゲームと現実を混同し、事件を起こした」と捉えていたようだった(もしかしたら、ディスカッションにおけるポジショントークだったのかもしれないが)。

 秋葉原の事件について、当時の私は以下のように考えていた。加藤智大は秋葉原が、秋葉原で楽しそうにしているオタクが羨ましくて凶行に及んだのだ、と。非モテでルサンチマンの溜まった加藤智大は、同じように非モテであるはずのオタクを見て驚いたのではないか。なぜなら、オタクたちがとても楽しそうだったから。女性からモテずに自分という存在を否定されたと感じたことは絶望でしかない。にもかかわらず、非モテの象徴であったオタクは秋葉原で楽しそうにしている。憎悪は自分を相手にしない女の子ではなく、自分と同じはずの存在なのに楽しそうに過ごしているオタクに向けられた。そんなふうに私はあの事件を捉えていた。つまり、加藤は「ゲームと現実を混同した」からではなく、「彼には、この辛い現実しかなかった」から凶行に及んだのだ、と。

 であるならば、別人格になるということは、彼にとって救いとなる可能性があったと、私は思う。今、ここにいる現実の自分は辛いけれど、アバターを使って別の世界で幸せに暮らしていけたら。それは、今、私が“須賀原みち”というペンネームを使って、同性愛者としての文章を書くことで救われている部分があるのと同じだろう。だから、そういった考えをその審査員に返そうと思ったが、いかんせん力不足で上手く言語化できなかったこともあってか、その相手を納得させることはついに出来なかった。

 そんな8年前の苦い思い出もあって、今回、稲見教授へのインタビューで同様の質問を投げかけた結果、返ってきたのは明確な答えだった。あの時、私がちゃんと言語化できなかったものを、稲見教授は端的に述べてくれた。だから、ひどく個人的なことだけれど、8年越しの胸のつかえが少し取れたような気がした。

 話を本筋に戻そう。VR技術では、体験を共有することで、差別や偏見を緩和させることへの期待があるとした。つまり、他者への想像力の涵養が期待できるということだ。近年、想像力の欠如が叫ばれている。「俺は嫌な思いしてないから」という言葉が象徴するように、他者のことなど想定せずに、自分という価値基準しか持たないことが非難されている。しかし、稲見教授がインタビュー中で指摘するように、他者のことを想像するのは非常に難しい。なぜなら、そもそも見ている世界が違うからだ。普通に生活をする中で、私が太った男性ばかりを見ている、ということにまで想像を及ばすことは難しい。私も、はじめのうちは男友だちがそんなに街行く女の子の顔や胸を見ているとはわからなかった。自分だって太った男ばかり見ているくせに。

 インタビューの中で、科学者の倫理について問うた際、稲見教授が「私は、自分の予測能力をそこまで信じていません」と答えていたのが印象的だった。あれだけの知性的な人物ですら、自身の予測能力を絶対的に信じてはいないという。

 悟性の敗北が広く叫ばれ、ポピュリズムの台頭は止めることができないように思える。今、人を最も惹きつけるものは共感で、「イイね!」であったり「泣ける」という感情や“エモ”だ。決して理知的なものではない。「俺が××してきた話」「~だけど質問ある?」(英語では「Ask Me Anything」として普遍化している)のように、個人の体験や思考に対する共感はとても強くなっている。やっぱり人間はなかなか賢くなれないのだ、きっと。

 だから、私は「note」で極私的な体験をベースに文章を書く。今、普遍的な言葉で共感を得ることは難しい。最初にその諦念に立っているからこそ、私は第三者的な言葉ではなく、“自分の体験”を文章にする。ある意味、いわゆる反知性主義(ここでは原義から離れて、あえて“衆愚”といった意味合いでこの言葉を使う)を前提とした態度でもある。その上で、私はこの極私的な体験をどうにか社会に接続しようと試みる。同性愛者である私の、きっと特殊であろう体験に少しでも読者が共感してもらえることを願う。そうすれば、私の目で見た世界を知ってもらうことが出来るかもしれない。そして、そんな私の見る世界が、実は今もこの社会とつながっているということを知ってもらいたいと思う。だから、私は同性愛者として、「note」に記事を書いている(ときには、「同性愛者が見た『ズートピア』論 多様性と偏見を巡って」のように、そのスタンスで商業的な記事を書かせてもらえることもある)。

 つまり、言葉によって“私”を疑似体験してもらい、読者の世界の見方を少しでも変えることが出来たら、と思う。そして、私が拙文で行っているこの試みは、VR技術を使えばきっと途方もない精度で実現できるはずだ。

 もちろん、裏を返せば体験に引き寄せられ過ぎる恐れもある。一人称視点での鮮烈な体験が、ある方向への流れを作り出してしまうことだって考えられる。「ペンは剣よりも強し」というが、それもまたひとつの暴力ではあるのだ。

 それでも、“あなたの世界の見方を変えられる”。そんな希望を“体験”したからこそ、私は今、VR技術に惹かれている。


【蛇足?】
 この文章を書いている時、たまたま『知の訓練 日本にとって政治とは何か』(原武史/新潮新書)を読んでいて、『論語』の一節と出会った。

「子曰わく、之れを道びくに政を以ってし、之れを斉(ととの)うるに刑を以ってすれば、民免れて恥じ無し。之れを道びくに徳を以ってし、之れを斉うるに礼を以ってすれば、恥じ有りて且つ格る」
(『論語』上/吉川幸次郎/朝日文庫)

 これは、以下のような意味だという。

「中国の儒教では、言葉によらず、儀礼や音楽を通して民を知らず知らずのうちに感化する後者のほうが、言葉を伴い、民を刑罰によって抑えようとする前者よりも優れているという考え方があるのです。」
(『知の訓練』原武史/新潮新書/P6より)

 これもまた、VR的な考え方なのかもしれない、とふと思った。

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